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2020年

5月

31日

2020.5.27 「自由に生きること」 使徒言行録16:16-34

1. 女奴隷の解放

 パウロとシラスは占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会います。女奴隷の主人たちは、この女性の占いによって多くの利益を得ていたのでした。

 主人たちにとってこの女性は、一人の人間ではなく、金もうけのための道具としてしか考えていなかったのです。パウロは、この女性にとりついている霊に対して、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」(18)と言いました。この言葉によって、女性は解放されたのです。しかし、この女性が解放されたことを、その主人たちは喜びませんでした。主人たちの求めていたのは、自分たちの利益であり、女性の救いではありませんでした。

 金もうけのために、他人を利用すること、それはまさにこの世の社会を表しているのではないでしょうか。今、新型コロナウイルスによって多くの人々が苦しむ中、マスクやアルコールを転売して儲ける者、一時金といってお金をばらまくことで自分たちの地位を守ろうとする政治家、そしてそれを利用して人々をだましていく詐欺者たち。このように聖書の時代から2000年もたつ、現在ですが人間は何も成長していない、そしてそれは聖書の言葉が人間の本質を語っていることを意味しているのだと思います。

 また、この姿を見るときに、いったい誰が本当に支配されているのかも考えさせられます。もちろん女奴隷は主人たちに支配された立場にいました。しかしまた、この主人たちは、お金、富みに支配されているのです。そのような意味では、どちらもただ人間の欲望に支配されている姿をみるのです。

 

 私たちは一体何に支配されているでしょうか。

 これに対して、パウロの言葉、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」とは、福音による救いの言葉です。しかしこの福音による救いの出来事を社会は認めませんでした。自分のためだけに利益を追求する者にとって、キリストによる福音は迷惑でしかないのです。つまり、この社会、私たちが自分の欲望に支配されている時、福音は必要なものではなく、むしろ聞きたくない言葉なのです。

 この後福音を語る、パウロとシラスは捕らえられていきます。これがキリストに従って生きるときの、この世の反応です。私たちがこの世界で、何の問題もなく生きることができている時、自分が本当に神様に従っているのか考え直さなければならないのかもしれません。

 

2. 真の自由 

 パウロとシラスは女性を解放したことによって捕らえられました。そして、牢に入れられ、足には木の足かせをはめられたのです。パウロとシラスは肉体的自由を奪われました。しかし、心は自由でした。パウロとシラスは神様に従う者として心に自由を得ていたのです。二人は神様に賛美し、祈ったのです。「賛美」とは、神様への感謝であり、神様の栄光を歌うことです。パウロとシラスは、投獄され、むち打ちの刑を受けて、それでもどのような状況にあっても、神様が共にいて、守ってくださっていることを信じて賛美し祈ったのです。

 パウロとシラスは、投獄され肉体的自由を奪われました。時に、パワハラ・モラハラなど人は暴力によって心も支配しようとします。また暴力におびえる中では心の自由も奪われてしまうことがあるのです。しかしパウロとシラスは暴力に負けることなく自由な心をもって賛美したのです。この二人を見るときに、本当の自由ということ考えさせられます。

 

 自由とは何でしょうか。何にも支配されることなく、自分のしたいことがなんでもできるようになることでしょうか。それはただ自分の欲望に支配されているということなのではないでしょうか。パウロとシラスは神様を賛美し、祈りました。これは、神様に従う者の姿です。ローマ書ではこのように言われています。

 【知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。】(ローマの信徒への手紙6:16)

 私たちの心は、何かしらを心の土台として、何かを心において生きています。それが富なのか、権力なのか、人間なのか、罪なのか、それとも神様による愛、義なのか。神様の愛に支配されるとき、私たちは神様に従う神様の奴隷として、本当の自由を得ることができるのです。

 

3.主イエスを信じなさい。

 パウロとシラスが賛美しているとき、突然、大地震が起こりました。そしてすべての囚人の鎖が外されたのです。

 ここに賛美と祈りの力を見ることができます。囚人は冤罪でない限り、この世のルールを破り捕らえられた者たちです。様々な理由があると思いますが、囚人とされる人々の多くは、心に多くの傷を受け、社会のルールではその心をしばりつけておくことができなくなったため、牢屋に入れ鎖でしばりつけてあるのです。その縛り付けた鎖が、賛美と祈りによる働きによって、外されていったのです。

 それは、この囚人たちが囚われていた、何かしらの心の痛み、心の傷が癒されていったため、もはや鎖でしばりつけておく必要がなくなったと見ることができるのです。賛美と祈り。この神様から与えられている恵みの行為は、人の心を癒すのです。

 

 しかし、この状況を見た看守は自殺しようとしました。囚人たちが逃げてしまったと思い、そうなれば必ず殺される。許されるわけがないと考えたのでしょう。

 看守はパウロとシラスに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30)と聞きます。それに対して、二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と教えるのです。

 「主イエスを信じる」。それは、主イエスによる神様の愛を受け入れるということ、神様を心の中心に置くことです。神様は、イエス・キリストをこの世界に送り、その命を捨ててまで、私たちの隣人となってくださったのです。これが神様の価値観、愛を土台とした生き方です。私たちは、イエス・キリストに従い、神様に仕える者として生きていきたいと思います。(笠井元)

2020年

5月

31日

2020.5.31 「聖霊による希望~希望は失望に終わらない~」(要約) ヨハネの黙示録21:1-8

1:  夢を見る

 今日のヨハネの黙示録は「夢を見る」文書と言われます。夢を見ることは、私たちが生きるために大きな力を与えることとなるのです。マーティン・ルーサー・キングは「I have a dream」「私には夢がある」と語りました。聖霊によって私たちには「夢」が与えられます。それは自分の力に囚われたむなしい未来ではなく、神様による希望と励ましなのです。

 

2:  海はなくなった

 ヨハネは聖霊によって主イエスと結ばれていました。だからこそ困難の中にあっても、夢を見ることができたのです。ヨハネは「新しい天と地がくるとき、海がなくなった」と語るのです。「海」とは秩序が乱されている状態であり、神と人とに敵対する力が働いている状態を表します。「もはや海はない」ということは、神様との関係を破壊する力がもはやなくなったということを意味します。

 

3:  条件なしに与えられている命の水

 神様は渇いている者には「価なしに」つまり「条件なし」に、命の水を飲ませると教えます。しかし、苦難の時、私たちは神様の愛を拒んでしまいます。私たちが神様の愛を拒むとき、魂はカラカラに渇いてしまいます。第二の死とは神様の愛を拒み、心も魂も疲弊してしまっている状態を意味します。今、皆さんの心の中はどのような状態にあるでしょうか。

 

4:  心を開かれる聖霊

 心が渇いてしまう。それが人間の弱さです。神様はそのような私たちに聖霊を送ってくださるのです。私たちはこの聖霊の働きによって、命の水をいただく者とされるのです。苦難の中、心を閉ざしてしまうとき、聖霊の働き神様の導きを信じましょう。聖霊が導く希望は、私たちを欺くことはないのです。聖霊の働きによってイエス・キリストに結ばれ、未来に希望を見る者とされていきましょう。(笠井元)

2020年

5月

31日

2020.5.31 「聖霊による希望~希望は失望に終わらない~」(全文) ヨハネの黙示録21:1-8

 今日はペンテコステ礼拝となります。私たちは約2ヶ月それぞれの場所で礼拝を持ちました。そして、今日から、また共に礼拝するときが与えられたのです。ペンテコステとは、人々が一つになって集まっていたところに、聖霊が降った時であります。このペンテコステの時を、皆さんと共に、心を合わせて迎えることができることを、心から神様に感謝したいと思います。

 ペンテコステは聖霊がこの世界に降り、教会ができた教会誕生の日でもあります。聖霊というと様々な意味をもっています。「交わり」「導き」「とりなし」など様々な意味をもっていますが、今日はその中でも「希望」ということに目を向けてみていきたいと思います。

 

1:  夢を見る

 今日のヨハネの黙示録は「夢を見る」文書と言われます。夢を見ることは、私たちが生きるために大きな力を与えることとなるのです。有名な言葉ですが、マーティン・ルーサー・キングは「I have a dream」「私には夢がある」と語りました。「私には夢がある。それはいつの日か、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷の主人の子どもたちが、兄弟のテーブルに一緒につくことができるだろう」と語り、そして、イザヤ書40章を引用し【40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。40:5 主の栄光がこうして現れる】と語りました。イザヤ書40章では今日の招詞の言葉、【40:31 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。】とも語られています。

 私の実家の壁には、このイザヤ書40:31の言葉が書かれているポスターが貼ってあり、私自身、挫折して、絶望する中で、何度も生きる勇気と希望を与えられた御言葉でもあります。「自分では越えることができない山を前にしたとき、神様が、その険しい道を平らにしてくださる。狭い道は広い谷としてくださる。自分が自分の力で生きてくことができないと絶望する中で、その生きる道を神様が整えてくださり、救いの道を開いてくださる。そして疲れたとしても、躓き、倒れたとしても、主に望みを置き続ければ、必ず新しい力を与えられる」と、励まされました。

 聖霊によって、私たちには「夢」が与えられます。それは自分の力に囚われた、むなしい未来ではなく、神様の御業を信じて描くヴィジョンであり、神様の希望と励ましを与えて下さるのです。

 

2:  海はなくなった

 今日の個所では、1節で、【21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。】と語ります。ここで言うところの「わたし」のことを、1章9節では【1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。】と言います。ヨハネは聖霊によって主イエスと結ばれていた、そしてだからこそ、困難の中にあっても、夢を見ることができたのです。

 

 このヨハネが「新しい天と地がくるとき、海がなくなった」と語るのです。「海」とは、聖書では、「混沌」表します。秩序が乱されている状態であり、神と人とに敵対する力が働いている状態を表します。「もはや海はない」ということは、そのような信仰を脅かすもの、神様との関係を破壊する力が、もはやなくなったということを意味します。「もはや海はなくなった」そして「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もなくなった」のです。

 

3:  条件なしに与えられている命の水

 神様は6節からの箇所において、渇いている者には、「価なしに」つまり「条件なし」に、命の水を飲ませると教えます。神様の恵みはすべての者に与えられているのです。神様はこの混沌の世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。イエス・キリストは私たちの涙をぬぐいとる者として、この世界に来られました。このイエス・キリストによる命の水を受け取るための条件は何もないのです。神様は無条件の救いの出来事を与えられたのです。私たちがなすべきことは、このイエス・キリストの愛が与えられる者となるために生きることではなく、イエス・キリストの愛を与えられた者として生きることなのです。

 8節では「臆病な者、不信仰な者・・・そしてすべて嘘をいう者は第二の死を受ける」と言います。神様は「条件なし」にイエス・キリストを通して、すべての人間に愛を注がれているのです。しかし、それでも私たちが神様の愛を拒むとき、私たちの魂はカラカラに渇いてしまうのです。第二の死。それは神様の愛を拒み、心も魂も疲弊してしまっている状態を意味します。どれほど神様が人を愛しても、私たち人間がその愛を拒否し続けるとき、私たちの心はカラカラに渇いてしまうでしょう。

 今、皆さんの心の中はどうでしょうか。神様の愛に満たされているでしょうか。それともその心は渇いているでしょうか。

 

4:  心を開かれる聖霊

 多くの人間が、いつも神様に愛に満たされているよりも、心が渇いていることのほうが多いと思うのです。それが人間の弱さです。そしてだからこそ神様はそのような私たちに聖霊を送ってくださっているのです。私たちは神様の愛を拒んでしまうことばかりである。本当は、そのような心がカラカラに渇いている者こそが、神様の命の水を必要とする者なのです。そのことを神様は知ってくださり、私たちの心を開かれるために、聖霊を送ってくださったのです。私たちはこの聖霊の働きによって、命の水をいただく者とされていきたいと思います。聖霊が導く希望は、私たちを欺くことはない、失望に終わることはないのです。

 私たちが生きるこの世界は「愛の世界」ではなく「混沌の世界」です。この「混沌の世界」にイエス・キリストは来られたのです。そして今も、私たちと共に涙を流し、共に悲しみ苦しんでくださっているのです。ここに私たちの希望があるのです。私たちは、絶望するときこそ、神様に目を向けましょう。聖霊の導きに委ねていきたいと思うのです。私たちは聖霊の働きによってイエス・キリストに結ばれ、未来に希望を見る者とされるのです。わたしたちは聖霊に導かれ、神様の愛に心を開かれた者として、生きていきましょう。【ローマの信徒への手紙5:1-5】(笠井元)

2020年

5月

24日

2020.5.24 「愛するために起こされた奇跡」(全文) マタイによる福音書17:22-27

1:  人間の理解の限界

 今日の箇所では、まず、イエス様が2度目の「十字架と復活」の予告をされました。「十字架と復活」。この話を聞いて、「弟子たちは非常に悲しんだ」(23)のです。つまり、弟子たちは、イエス様が死なれるということはすぐ理解できたのですが、イエス様が復活されるということは理解できず、受け取れなかったということです。

 私たちは家族や友人、知人の死と向き合うということを、この世で体験します。ただ、だれかの復活に出会うということはないのではないでしょうか。復活は、私たちの心を変える出来事です。受け入れることができないわけではありません。しかし、私たちが頭で理解する限界を超えているとも言えます。弟子たちも、まず理解できたのは十字架、イエス様の死だったのです。 

 

2:  ペトロの判断

 この弟子たちのところ、ここでは代表してペトロとされますが、そこに神殿税を集める者たちがやってきて、【「あなたの先生は神殿税を納めないのか」】(24)と尋ねてきたのです。この問いは、ただ「税金を納めますか」、それとも「納めませんか」ということだけを意味するのではないのです。この時ユダヤの人々は、ローマ帝国によって支配されていました。「神殿税を納める」ということは、ユダヤ教を支持するということであり、また「神殿税を納めない」ということは、ローマ帝国を支持することを意味していました。ペトロはすぐに「神殿税を納めます」と答えました。このペトロの判断は自分の保身のためでもありました。 

 私たちはいったい何を基準に決断して生きているでしょうか。今は、世界中が新型コロナウイルスによって苦しみ、不安の中で生きています。そのような時に、それぞれの国のトップの人々は、多くが「自分のためだけ」または良くても「自分たちの国のため」だけを考えています。自分の利益、自分の立場が一番大切だとするのです。日本ではオリンピックが出来るかどうかや、今は、検事の定年についてと、国民の現実の思いとは、全く違うことばかりを話しあっています。また、それぞれの国家間では、この感染症がどこから発生したかをなすりつけ合い、ワクチンの情報を隠したり、盗んだり、手を合わせていくのではなく、現実で苦しむ人々の思いを全く考えないことばかりをしているのです。

 私は、自分自身もまた、この社会を批判できるほど、他者のことを考え生きることができるかといえば、そうではないので反省しなければと考えさせられます。皆さんは、何を基準として生きているでしょうか。そして、その結果として一体何を得ることができているでしょうか。少なくとも、この時のペトロは、隣人のために・・・という目線ではなく、自分の為に・・・という目線で「神殿税を納めます」と答えたのです。

 

3:  隣人を躓かせないために

 このペトロに対してイエス様は「彼らを躓かせないようにしよう」と言われるのです。今日の個所での主題は、イエス様が神殿税を支払ったかどうかということではありません。

 今日、聖書から学びたいことは二つあります。その一つは、イエス様が、私たちに神様に従って生きるための判断基準を教えてくださっているということです。そしてそれは「隣人を躓かせることのないように」、別の言葉でいうと「隣人の信仰が失われないために」または「隣人が神様から離れないように」、簡単に言えば、「隣人を愛して判断しなさい」と教えられているのです。イエス様が生きて下さった道は、まさにそのような道です。イエス・キリストは病人や、罪人とされる人々、社会でのけ者とされる人々と共に生きられたのです。そしてその従順の道は、十字架において完全なものとして示されました。イエス・キリストはまさに神様に従い生きられた。そしてそれは隣人を愛し、隣人を躓かせることのない道です。これこそ神様に従う道なのです。イエス様は「隣人を躓かせることのないように」生きるように、私たちに教えられているのです。

 

4:  愛するために起こされた奇跡 

 隣人を躓かせないために生きる。そのためにいつも生きることができれば、もはや何も言うことはないかもしれません。しかし、私たちは頭で理解していても、それがなかなか出来ない者です。ペトロも自己保身のために判断して答えました。私たち人間は、隣人のために生きることが、なかなか出来ない弱さを持っているのです。

 皆さんはいかがでしょうか。「隣人を大切にすること」を理解はしていても、それが「できない自分」という自分の弱さや欠点に、自分を愛せないことがあるのではないでしょうか。そのような私たちに、今日の箇所でイエス様は、魚の中から銀貨をくださったという、ユーモアのある行為をもって、人間の思いを超えた行為を起こされました。イエス様は、この行為を通して、隣人を愛することができない者のために、神様が奇跡の力をもって愛を与えてくださることを教えているのです。

 今日学びたいことの二つ目は、そのような自分の弱さに揺れる私たちの心に復活のイエス・キリストが来てくださり、愛してくださっているということです。神の子であるイエス・キリストは、この世に来て、十字架に死なれました。しかしそこで終わりませんでした。イエス・キリストは、復活されたのです。神様はイエス・キリストのよみがえりを通して、私たちが隣人を愛するという奇跡の力を与えてくださったのです。

 私たちができることは、自分の力で「隣人を愛する」のではなく、神様の奇跡の力によって、「愛する者とされていく」ということです。わたしたちは今、まず、神様に愛されているということを感謝したいと思います。そして、その神様の愛が私たちに注がれている奇跡の出来事を信じましょう。私たちにはできなくても、神様にはできるのです。私たちがすべきことは、この神様の愛を信じて、神様の御業がなされるように、委ねて生きることです。そこに、神様は必ず愛の御業を現わしてくださるでしょう。(笠井元)

2020年

5月

24日

2020.5.24 「愛するために起こされた奇跡」(要約) マタイによる福音書17:22-27

1:  人間の理解の限界

 今日の箇所でイエス様が2度目の「十字架と復活」の予告をされました。「弟子たちは非常に悲しんだ」(23)のです。弟子たちは、イエス様が死なれるということはすぐ理解できたのですが、イエス様が復活されるということは理解できず、受け取れなかったのです。復活は、私たちの心を変える出来事です。受け入れることができないわけではありません。しかし頭で理解する限界を超えているとも言えます。

 

2:  ペトロの判断

 ペトロのところに神殿税を集める者たちがやってきて、「あなたの先生は神殿税を納めないのか」(24)と尋ねてきたのです。この問いは、ユダヤ教を支持するか、ローマ帝国を支持するかを問いかけているのです。ペトロはすぐに「神殿税を納めます」と答えました。このペトロの判断は自分の保身のためでもありました。私たちはいったい何を基準に決断して生きているでしょうか。

 

3:  隣人を躓かせないために

 ペトロに対してイエス様は「彼らを躓かせないようにしよう」と言われるのです。イエス様は、私たちが神様に従って生きるための判断基準を教えてくださっているのです。「隣人を躓かせることのないように」、「隣人を愛して判断しなさい」と教えられているのです。

 

4:  愛するために起こされた奇跡 

 隣人を躓かせないために生きることがいつもできるでしょうか。私たちは隣人のために生きることが出来ない弱さを持っています。イエス様は、魚の中から銀貨をくださいました。イエス様は、この行為を通して、隣人を愛することができない者のために、神様が奇跡の力をもって愛を与えてくださることを教えているのです。わたしたちはまず、神様に愛されているということを感謝しましょう。神様の愛が私たちに注がれている奇跡の出来事を信じましょう。(笠井元)