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2013年8月14日(水) 「新しい関係に生きる」 創世記2:18-25

1.      助ける者 ( 創世記 2:18 )

 神様は「助ける者」を造られます。こんなことが記されていました。「最近飛行機で旅行中、『ユー・エス・エイ・トゥデイ』紙で大統領候補の妻に関する記事を、偶然読んだ。一九八七年には候補者の妻は、もはや『助け手』とみなされるのではなく、妻自身の生活、仕事、そして意見をもつものである」(M・M・ウィルフォング『インタープリテーション 第三号』土屋幸子訳(ATDNTD聖書註解刊行会 1990)p.101)

 神様は今日の箇所で「助ける者」を造られました。これまで一般的に、この箇所での神様が造られた「助ける者」とは・・・男性に従う女性の創造で、男性を助ける女性の創造について語っていると考えられてきました。今日は、神様がこのとき「助ける者」をどのような意味で造られたのか、一緒に見ていきたいと思います。

 

2.      助ける者の意味 

 「助け手」ヘブライ語では「エゼル」。この名詞は旧約聖書では19回出てきます。そのうち12回は神様ご自身が「助け手」です。そして人間が「助け手」の場合期待されているのは、軍隊など強力な援助です。つまりどちらにせよ、この言葉の意味は、自分以上の力の援助によって、危険や困窮から解放されることを意味します。

 しかし、今日の箇所では「~対応する」「~対等の」という言葉によって修飾されているのです。つまりここでの「助け手」とは、自分以上の強力な援助ではなく、対等なものを意味します。つまり、言葉から読み取るとして、今日の箇所での「助ける者」とは、人間と対等な者、対応する者の創造を意味しているのです。人間より優れている者でも、従属する者でもなく、解放者でもなく、対応の者、対等な者として「助け手」は創造されました。

 

3.      あばら骨から造られた者 ( 創世記 2:19-22a )

 神様は、野のあらゆる獣、空の鳥を造られました。しかしそこから人間は自分に合う助ける者を見つけることはできませんでした。動物は「土の塵から造られたもの」です。神様から造られた同じ立場にある被造物です。人間と動物も神様が造られたものに変わりはありません。同じだけ大切なのです。しかし違うものとして造られました。人間は「神の似姿」として、神様の愛と恵みを表すものとしての責任を受けて造られた者です。

 神の似姿として造られた人間を助ける者を、人間は動物の中に見つけることはできませんでした。

 主なる神は、人間に新しく、人間の助ける者を創造されます。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」(21-22)

 神様は新しい人間の創造、人間の助け手を創造されるのに、人間から「あばら骨」の一部を抜き取りました。神様はここから「助け手」を造られたのです。神様は人間のあばら骨の一部を抜き取り、人間に一部の欠けを表したのです。人間の完全な状態から一部を抜き取ることによって、欠点、欠けを造り、そこに「助け手」「助け合う」必要を示されたのです。

 ここに神様の「助け手」の創造の御業がなされました。神様は人間の欠点を指し示し、そして「助け手」の必要を教え、そこに対等の助け手を造られました。神様はお互いがお互いの欠点を知り、理解して、助け合うために、主は人間のあばら骨から助け手を造られたのです。

 

4.      骨の骨・肉の肉 ( 創世記 2:22b-25 )

 神様は助け手を造られました。その助け手を人間は「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(23)と言います。

 「骨の骨」「肉の肉」。それは、聖書では結婚して身内となった者、親族関係者、同盟者にむかって「あなたはわたしの骨肉です」と語ります。わたしの「骨の骨」「肉の肉」とは、共に生きる同盟者、共同体として理解したことを示します。この時人間は、女を従属した者でも、優れた者でもなく、対等の者として、共に生きる共同体として、まさにこれから一緒に道を共に歩む者として、表現しているのです。

 

5.      男と女

 そしてこの人間は、「男」と「女」として造られました。それはどちらかが上に立ち、どちらかが従属している、どちらかに欠点があり、どちらかが優れているというはなしではないでしょう、

 ここに違いが示されました。神様は、人間に「男」と「女」を造られました。そのように「違い」を造られたのです。共に生きるとき、共同体として生きるときに、そこに「違い」がある。それは「違い」があってこそ人間は共同体としてお互いを必要とすることを知る。また「違い」によって自分を知り、「違い」によって神様を知るのです。私たちは、この「違い」によって、お互いを補い、協力を必要として、お互いのために生きることを知るのです。このお互いの「違い」の一つとして「男」と「女」を造られた。神様の大切な創造の御業の一つです。

 

6.      新しい関係 ( 創世記 2:24-25 )

 父母を離れる。人間は生まれてから強力な力を受けていました。生きるために父と母に守られていた。父と母を離れる。それは人間の力の限界を知ることではないでしょうか。父の限界、母の限界、そして自分の人間としての限界を感じていく。そこから神様に出会い、自分に出会い、イエス・キリストに出会っていくのです。そして自分をイエス・キリストに委ねて生きるとき、本当の自立した人間として、新しく生きる人生が始まるのです。

 新しい人間の関係が始まります。父との関係、母との関係、自分自身との向き合う関係、社会との関係、すべてが変わります。新しい関係。それは自分をキリストに委ね向き合いながら出会う関係です。違いを喜び、協力する関係です。お互いにお互いを助け手として、生きる関係です。私たちは、このような関係になりたいと思います。

 そのために、まず、神様に出会い、自分に出会い、そしてキリストに出会っていきましょう。そして再出発して、お互いに出会っていきたいと思います。