特別集会

 

 

幼稚園集会

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2014.10.29 「主の山に備えあり」 創世記22:1-24

 

1.これらのことの後で・・・

 今日の箇所では「これらのことの後で」とあります。「これらのこと」とは何でしょうか。これまでの経過を見てみますと、アブラハムは神様から祝福を約束されました。しかし、アブラハムは神様からの約束を信じきることができず、エジプトの女奴隷ハガルにイシュマエルを産ませます。その後サラがイサクを産みます。イサクの誕生によって、ハガルとイシュマエルは追い出されてしまいます。今日の箇所は「これらのことの後で」なのです。アブラハムとサラの身勝手の後です。

 神様が「試された」。それは「試される」ことによって何か知ることを欲していた。神様が知ることを必要としていたということです。そのための「試練」「試み」でした。神様は「試み」を通して、神様と、アブラハムとサラとの関係を知りたかったのです。

 

2.試みる神様

 神様は試みられます。それは「独り子イサクを献げ物としてささげなさい」という試みでした。神様は自由と誠実の中で試みられます。「試み」の中で、私たちは神様の真実と誠実さとを知るのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13

 神様が与える試練の中で、私たち人間は、神様の真実と誠実さとを知るのです。

 

3.備えられる神様

 試みられる神様は備えられる神様でもありました。「備える」という言葉は「見る」とも訳されます。神様は真実と誠実さをもって、私たちの一歩前を歩まれ、その前を見て下さり、私たちの前を備えて下さるのです。神様は、私たちよりも前を歩まれ、私たちにとって最も良い道を知って下さっているのです。そして、その道を常に備えて下さるのです。

 20節からの箇所ではアブラハムの兄弟ナホルの子どもについての知らせが届きます。そこにはベトエル、そしてその子リベカについて記されています。リベカはこの後イサクと結婚をします。この時、すでに神様はイサクの歩む道を備えてくださっていました。一つ一つの歩む道に神様の備えがあることを教えられます。

 

4.アブラハム

 アブラハムは、神様の試みと備えの中に生きていました。それは、命を奪い取る「死」の宣言と、命を与える「生」の宣言の間にアブラハムの生があったのです。

 アブラハムはイサクを老年になってから与えられました。「笑いが共にある」という意味の名前で与えられたイサクです。手放すことなんて出来るはずがありません。手放せば「笑い」が「笑顔」がなくなってしまいます。そのために「ハガル」も「イシュマエル」も失いました。アブラハムは、今や「イサク」が生きる意味でした。自分の生きるすべてだったかもしれません。

 アブラハム、妻のサラはイサクを愛していました。そしてだからこそ、その愛は、その関心はイサクの人生を、むしろ自分たちの人生として重ね合わせて、イサクに背負わせて生きていたのでしょう。自分と同化してしまっていた。アブラハムも、サラもイサクに目を注ぎすぎていたのかもしれません。

 

5.神様に委ねる

 「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、」(詩編37:5アブラハム、サラの心を知った神様が語られます。「独り子イサクを献げ物としてささげなさい」それは、「あなたにイサクを与え、命を導いているのは誰だ?」「あなたの息子イサクを与えたのは神様だ。」「あなたは神様に息子イサクを献げて、委ねてみなさい。」「一度、神様に返してみなさい。」「その時、命の主がイサクを生かし、あなたを生かして、今も導いていることを知るだろう。」そんなふうに語られたのでしょう。

 アブラハムは、この神様の言葉によって、イサクを委ねる決心をするのです。それはイサクを自分の手の中に閉じ込めておくことではなく、神様に委ねて育てて頂く決心をしたときでした。

 

6.十字架と復活

 マルコ8:35「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

 アブラハムは「死」に取り囲まれる中で、命を備えられました。「死」の中にあって、神様は、人間の知識を越えたところで、命を与え、新しい命を下さったのです。究極的な試みの場面、「死」の場面は十字架です。イエス・キリストの十字架において、神様は最大の試みを成し遂げられます。イエス・キリストの十字架の場面こそが究極の試みなのです。この十字架の時に、イエス様はこのように語られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42

 イエス・キリストはこの究極の試みの中で、神様への信頼の中、一歩一歩進まれたのでした。そして、究極の備えが復活です。復活は「死」に取り囲まれる中で、神様が新しい命を備えられた、命の奇跡です。神様は新しい命への道を切り開かれたのです。イエス・キリストの復活によって、神様は、新しい命の道を備えられました。私たちは、このイエス・キリストの「死」と「復活」から、「イエス様の信頼」と、そして「新しい命の備え」を受け取ることが許されているのです。

 神様は、私たちの命の道を知り、そして試みの中にあっても、真実と誠実さとをもって、備えてくださっている方です。そして、その備えは、イエス・キリストの十字架と復活によって、新しい命へと切り開かれました。私たちはイエス・キリストによる新しい命を受け取って、神様からの恵みの命を、日々受け取って行きたいと思います。