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2015.1.14 「アブラハムの死と埋葬」 創世記25:1-18

1.ケトラ 

 今日の箇所で、まずアブラハムは再びケトラという妻をめとりました。(1)   

 神様はアブラハムに祝福を約束されました。しかし、これまでのアブラハムの人生を振り返ると、アブラハムは神様の御言葉をいつも信じて約束を待ち望んでいたわけではありませんでした。

 15章では「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』(15:1-2)このようにアブラハムは、神様の祝福を継ぐのはエリエゼルだと思った時もありました。

 そして、また16章では女奴隷ハガルからでも子どもが与えられればと思い、アブラハムとハガルのあいだにイシュマエルが与えられました。しかし、そこにはサラとハガルの争いを生むことになったのです。それでも17章において神様はサラとの間にイサクが与えられると教え、21章においてついに約束の子イサクが与えられました。

 神様はアブラハムに祝福を約束されました。その約束を信じる道は長くて何度も心が折れそうになる道でもあったのです。そこからは、神様の御心を信じて生きる事のむずかしさ、約束を信じて生きる事の厳しさを教えられます。そして、それでも神様は何度も立ち返る道を教え、またアブラハムは神様の御前に立ち返ったのです。アブラハムにはイサクが与えられ、イサクから本当の祝福を得たのです。アブラハムはイサクを(笑い)を得たのです。このアブラハムの歩みから、神様は私たちに神様の約束を信じて待ち続ける心、神様と向き合って歩む道を教えてくださっています。アブラハムはイサクから本当の祝福、神様と向かい合い生きる中での恵みをいただいたのです。

 

 そんな中で、今日の箇所ではアブラハムがケトラという妻を得たのです。アブラハムは再びケトラという妻をめとりました。(1)妻のサラが死に、その後最後の願いとしてのイサクの結婚も無事になされました。その上でのアブラハムのケトラとの結婚は、その繁栄を指し示すものであるとされ、アブラハムが神様に祝福された人生を送ったということを記しているのです。

このことに関してルターは跡継ぎを得ようとする敬虔な思いであるとしました。それに対して、カルヴァンはこの記述を批判的にとらえ、アブラハムの人間としての弱さの表れだとしています。

どちらにしても5節からの箇所で、聖書はこのように教えます。「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5-6)

アブラハムはサラの子であり、約束の子イサクにすべての財産を譲りました。アブラハムは約束の子イサクにすべてを与えました。そしてほかの妻の子どもたちには贈り物を与えたのです。イサクとその他の子どもたちとの違いは明確です。 ここにはイサクからの祝福、選ばれた者としての恵みと、またイサクという一つの道を越えたところにも神様の導きがあること、神様が、すべての人間を愛していること見るのです。神様の祝福の広さ、そして慈しみの深さとしての記述だと考えたいと思います。


2.アブラハムの死

「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(25:7-8)

アブラハムは満ち足りて死にました。それは何があったから、何を得たからでしょうか。アブラハムの死は、満ち足りた死でした。サラと共に歩み続け、約束の地で、約束の子イサクが与えられ、イサクも結婚し、最後まで神様に祝福された人生でした。その人生は満ち足りたものだったのでしょう。

いちばん満ち足りた思い、それは神様と歩み続けたところにあったと思います。アブラハムの人生は、神様と歩んだ道でした。神様から離れそうになるときもありました、それでも神様と向かい合い、生きた人生は満ち足りた歩みだったのでしょう。そして、このアブラハムの死はそこから祝福へ続く死でありました。息子イサクとイシュマエルは、マムレの洞窟、つまりサラと同じ墓にアブラハムを葬ってくれたのです。アブラハムの死を受けて、イサクとイシュマエルは共に力を合わせたのです。

「イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」(25:18)今日の箇所は、アブラハムの死の後、イシュマエルについて記されています。そしてイシュマエルの死によって、得たこと、そこには「敵対」する心、そしてそのような生き方だったのです。

死が与える出来事は、お互いに力を合わせることばかりではありません。そこには争いが起こり、敵対する心が生まれるのです。アブラハムの死のように、お互いに向かい合う出来事となることもあれば、イシュマエルの死のように、敵対する心が生まれることもあります。わたしたちはだれかの死の前にあって、力を合わせる者となることができるでしょうか。財産の争い、また葬儀の仕方などで争いごとの中に歩みだすことがあるでしょう。特に多くの財産をもつアブラハムです。死によって与えられる、計画外の多くの財産は人間の関係を狂わせる時があります。

それでも、このアブラハムの死を受けて、イサクとイシュマエルは共にアブラハムを埋葬するのです。アブラハムの死は二人を向い合せ、力を合わせる出来事となったのです。死とは人間的に悲しく、心を痛める出来事です。イサクとイシュマエルはその心の痛みの中で、お互いを慰め、共に生きる道を選びました。心を痛め、悲しい出来事に出会う時に、私たちはとなりの人とどのように向き合い、生きるのか教えられます。アブラハムの死は、共に生きる道を教えています。


3.イエスの十字架

聖書が教えている一番の「死」。それは神様がわたしたち人間の為に死なれた出来事、イエス・キリストの十字架という死です。

神様はわたしたちが新しく生きる命を受け取るために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そこには本来敵対する心、赦すことができない思いがあるなかで、そんな人間のために死んでくださった方、それがイエス・キリストです。わたしたちはこの主イエス・キリストの死を通して、お互いに慰めあい、共に生きる力を得ていきたいと思います。

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コメント: 1
  • #1

    道川勇雄 (火曜日, 11 4月 2023 14:23)

    イエスの十字架での磔刑は、人間が「経済的機構」と「社会的組織」と「政治的形態」とを如何に変更しても、その人間自身のうちから「我執」を指標とする罪悪を取り去らないかぎり、すなわち個々の人間が「その十字架を採って」イエスに従わないかぎり、理想的社会は実現出来ないことの実証的証拠です。
    この一事を付け加えられれば〜〜