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2015.1.28 「エサウとヤコブ」 創世記25:19-26

1.20年の祈り

 イサクにもなかなか子どもは与えられませんでした。イサクは祈るのです。この後、「その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」とありますが、26節に「リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。」とあるように、祈り始めた40才から、子どもが与えられる60才まで・・・ここには20年の祈りがあったのです。

 イサクは祈り続けました。神様の約束が成就していくために、その祝福の恵みが注がれるために、20年間祈り続けたのです。20年の間に、どれほどの出来事があったのでしょうか。イサクの人生には何があったでしょうか。良いときもあれば、受け入れがたいほどの苦しみの時もあったでしょう。その中にあって、イサクは祈り続けました。神様に目を向けて歩み続けたのです。

 祈りのうちに生きる道にイサクの信仰を見ることができるでしょう。そして、私たちが信仰の内に生きるための道筋、「祈り」が示されているのでしょう。神様はアブラハムからイサクへと、そこに大いなる祝福が与えられると約束されたのです。道を約束されました。神様は道を備えてくださっています。しかし、その道を生きるために、私たちは祈ること、祈り続けることによって導かれる道が示されているのです。


2.道を失った時の祈り

祈りのうちに確かに祝福を受け継ぐ子どもが与えられます。しかしその子どもたちは母親リベカの胎内にいるうちにすでに「押し合う」「争う者」として与えられました。

リベカはどのような気持ちであったでしょうか。20年間待ち続けた子どもです。神様からの約束の子どもたちです。その祝福を受け継ぐ子どもたちです。しかし、そこには「押し合い」「争う」出来事があるのです。しかも「兄が弟に仕える」という、人間的にみて祝福とは考えられない、むしろ人間的常識を覆す出来事がありました。「祝福」として与えらえるはずの子どもに「争い」があったのです。リベカはこれまでの祈りにむなしさを覚えたのではないでしょうか。神様に従う意味を見失ったのではないでしょうか。

その中にあって、リベカは主の道から離れるのではなく、むしろ主の御心を尋ねるのです。20年の祈りの結果は自分の思い通りではありませんでした。それでもリベカは神様から離れるのではなく、もう一度祈り、神様の御心を求めるのです。


3.何も持たない者

 「兄が弟に仕えるようになる。」当時の弟という立場は自分自身では何の権利も持たない者を表します。それはやもめ、孤児、寄留者と同様の意味です。神様は地位あるものを無力な者とするために、そして見下されている者、後の者が先になることを示されます。

 聖書では、多くの場所でこの逆転の出来事が教えられます。そこに神様の御心、価値観を見ることができます。自分が多くのものを持ち、その自分の力で生きていると思っているときに、人間は神様を必要としないでしょう。何ももたない者は、神様を求めます。そして、そこに本当の真実があるのでしょう。神様の憐みによって救いがもたらされることを受け入れる者とされるのです。

 

4.押しのける者

 「兄が弟に仕えるようになる」「後の者が先になる」と示されました。この「後の者が先になる」ということ、それは単純なことではありません。出生時には兄のかかとをつかんできた弟ヤコブです。ここには兄エサウと弟ヤコブから始まる、人間の争いという罪の深さが表されているのでしょう。この箇所を読むとき、わたしたちは自分を「エサウ」に見るでしょうか。「ヤコブ」に見るでしょうか。どの立場で見ているでしょうか。自分を「エサウ」に見れば、人に押しのけられる者としての自分の弱さ、存在のむなしさを感じているのかもしれません。自分を「ヤコブ」に見れば、人を押しのけてまで力を手に入れようとしている、自分の強欲さを感じ、そしてそのようにしなければ自分の存在を理解できない。そんな自分を嫌いになるのではないでしょうか。

 どちらにしても自分の存在価値、生きる意味を見失っている人間の姿でしょう。

 祝福のうちに与えられた子どもたち、20年も祈り続けて神様に与えられた恵みです。しかしそこにも二つの国民の争い、人間の争いがあるのです。そしてそれこそ人間の中心にある問題で、神様はその人間の弱さを、ここに映し出したのでしょう。「後の者が先になる」。わたしたちが考える「後の者が先になる」出来事は、「後にいる者」「弱いもの」が力をつけて先にいる者を押しのけること、先にいる者を追い越していくこと。そのようなイメージをもつのではないでしょうか。後の者が先の者を蹴落とし、押しのける者となり「後の者が先になった」と考えるのではないでしょうか。事実ヤコブも兄を蹴落とし、押しのけたのです。兄の権利を奪い、争いの中に生きる者とされるのです。私たちには限界があります。争いを起こし、人を押しのける中で自分の存在価値を見つける、そんな弱さを持つのです。


5.イエスの十字架を通して

 「後の者が先になる」こと。それは争いを生みだし、人間の弱さを浮かび上がらせます。このような争いの出来事も、イエス・キリストの十字架を通してみるときに、少し変わってくるのではないでしょうか。イエス・キリストは十字架において、力ある神様、すべてを支配される方、一番先におられる方が、小さい者、後の者となられたことを示されたのです。ここに神様の御心、愛が示されたのです。

 「後の者が先になる」こと、それはイエス・キリストの死を通して与えられた、私たちの生きる理由です。主イエスが一番小さい者となって、私たちに生きる命の意味、存在理由を示されたのです。主は「争い」から「和解」の出来事と変えられました。先におられたイエス・キリストが、私たち人間、すべての人間の土台となり、その下で仕える者となってくださったのです。イエス・キリストは、私たちすべての人間が愛されていることを示してくださいました。わたしたちは、他者と争うのではなく、共に生きる道が示されたのです。だれかを押しのけなくても生きる意味を知らされたのです。わたしたちは、この主の示された恵みを受け取りたいと思います。