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2015.4.29 「ヤコブの逃亡」 創世記27:41-28:9

1. 神の祝福の道

兄エサウから長子の権利も、父からの祝福も奪い取ったヤコブです。そんなヤコブが歩んでいく道は兄エサウから命を狙われ、逃げるということでした。兄をだましてまで幸せを勝ち取っていったはずのヤコブの祝福とは何だったのでしょうか。

まず、わたしたちはヤコブの得た祝福の大きさを知りたいと思います。偉大な神様の祝福は自分のあらゆる力と知恵とをもってでも得るものであるということです。そしてもう一つは、そのような神様の祝福が実際の人間社会に適応することではないということです。ヤコブは祝福を継いだ者となりました。しかしそこにあったのは兄の殺意であり、社会からの追放、逃亡者となるという現実でした。ヤコブはこの世において不正な行為とされる行いをしてまでも神様の祝福を求めたのです。わたしたちにとって、陰謀をたくらむこと、この世において不正な行為を行うことは許されることではないでしょう。その結果は追放され、逃亡者として生きることになる道です。

逃亡者となったヤコブの姿からは、そこまでしても神様の祝福は得る必要があると必死な姿を見ることができるのです。そして神様の祝福を求めるときに、それはときに人間社会に適応することのない神様の祝福の道があることを教えるのです。


2.逃亡者

これから始まるヤコブの逃亡生活は果たしてこの世でいう希望のない道であったでしょうか。ヤコブにとっては、逃亡者としての希望のない道であったでしょう。その中でヤコブは神様とつながる階段、はしごの道を示され、神様と格闘をして生きていくのです。この後のヤコブの逃亡生活は、まさに神様との出会いの道です。そして神様と格闘の道でした。

この道は、私たち人間の考えを越えた道ではないでしょうか。わたしたちは一つの失敗、または失敗ではなく、自分から向かっていった罪の道。その道から抜け出せなくて苦しみ、希望を失ってしまいます。その道に進んでいったことで、もはや人生が終わってしまったと思うこともあるかもしれません。しかし、そのような中でも神様と向き合う道はあるのです。むしろそのようなときにこそ、神様と向き合うのかもしれません。人生において、この世からの逃亡生活をしなくてはならないときもあるでしょう。自分の罪、または困難から、この世から追放されたと希望を失うときもあるでしょう。

しかし、そのようなときにも希望はあるのです。この世からの逃亡者に神さまは希望と未来を与えてくださいます。それは決して楽な道ではないかもしれません。しかし、そんな道を一歩一歩進み続けることによって、本当に神様に出会うこと、そして自分が求めたものではない、神様が共にいてくださるという祝福にであうのではないでしょうか。


3.忘れる

創世記27:42-45

母リベカは兄エサウがヤコブを殺そうと思っていることを聞きました。そしてリベカはヤコブに言います。「お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。そのうちに、お兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろう」(44-45)

わたしたち人間に与えられた能力の一つに「忘れる」ということがあります。人生のすべてを覚えていたら、それこそ毎日眠ることもできないでしょう。しかし実際には、わたしたちは楽しかったことは忘れやすく、苦しかった出来事、悲しい出来事はいつまでも覚えているものではないでしょうか。リベカは「兄エサウは忘れてくれるだろう」といいます。しかし実際にエサウにとってはそれほど簡単に忘れることなどできない、むしろ一生の恨み事として覚えている大きな出来事だったと思います。そして兄を裏切り、父をだましたという行為をヤコブは忘れてはいけないのでしょう。「忘れる」ことは私たちが記憶から消していくことだけではないでしょう。むしろ記憶に残しておかなければならないことを覚えておく必要もあるのです。その中にあってわたしたちは「忘れられない恨みごと」「忘れてはいけない過ち」を神様が一緒に担ってくださっていると信じていきたいと思います。


4. 捕囚の時

創世記27:46-28:2

今日の箇所は、エサウの怒りとヤコブの逃亡者としての姿の場面から、リベカとイサクがヤコブに、エサウのようにヘト人との結婚に反対する場面になります。ヤコブは逃亡するはずでしたが、ここからは、ヤコブが結婚相手を探す結婚探しの旅に変わります。今日の箇所は、イスラエルの民が捕囚にあったときに記されたとされる文書です。イスラエルの民が捕囚の中にあって、異民族のなかで生きていたときです。信仰の中心となるエルサレムの神殿は破壊されました。また信仰者として生きていても、捕囚のように苦しい道を歩まなくてはならないという困難に直面していた時です。

そんなときに、隣には、多くの財産を持つ異民族の人々がいたのです。そんな異民族と共に生きること、そして違う神様を心に迎えることは、それは魅力的であったでしょう。つまりイスラエルの民が本当の信仰の危機にあった時と言えるでしょう。そのような中で記されたこの、ヘト人との結婚ではなく同族の人と結婚することは、まさに信仰を守るための道を示しています。

ここでの言葉は、当時のイスラエルの人々に信仰の継承の大切さを教える言葉です。信仰を守るために、何を大切にするべきか、神様を見上げた道を歩み続けるか、それともこの世における喜びの道に道を変えていくかということです。

このことは私たちに人生の本当の目的を示してもいます。私たちは何のために生きているのでしょうか。自分の財産を増やすためでしょうか。自分の栄誉を高めるためでしょうか。家族や友人と幸せに過ごすことでしょうか。私たちの生きる目的。それは神様の栄光のために生かされているということ以外にありません。私たちは神様に命をいただいている。その恵みに生きるのです。


5. 共に生きる道

今日の箇所は選民意識を強めます。また信仰者以外とかかわってはいけないと受け取ることもできる箇所です。今日の箇所はイスラエルの民にそのような意味も込めて教えているのです。イエス・キリストが来られたことは、そのような神様とイスラエルという信仰を、神様とすべての人間へと広げていったのです。

ガラテヤ3:26-29 エフェソ2:14-22

聖書はイエス・キリストを通してすべての者が赦された者とされたことを教えます。男女、人種、その他何にも関係なくすべての者に神様の愛が開かれたのです。聖書は「あなたがたはキリストにおいて一つ」と言います。私たち人間が違いを受け入れて共に生きる道にはイエス・キリストが必要であることを教えています。


6. 約束に信頼する道

イサクは言いました。「どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」(創世記28:3-4)これは神様の約束に信頼すること、信仰を中心に生きる道にこそ祝福があることを教えます。そして神様は、「キリストの道に従うこと」「キリストにおいて一つ」となることを求めます。神様はイエス・キリストによって私たちを愛していること、そして共にいてくださる約束を教えられました。わたしたちは、この神様の約束に信頼して生きていきたいと思います。そしてそこにこそ、本当にお互いの違いを受け入れる力が与えられること、その道が開かれていることを信じていきたいと思います。