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2015.9.16 「共生の幻を見るために」 創世記34:1-31

1 宗教的聖潔

 今日の箇所には2つの思いが入り乱れています。一つ目は、宗教的聖潔を守るということの重さです。今日の話はヤコブの娘ディナがハモルの息子シケムに暴行され、捕えられたところから始まります。ディナは辱められたのです。この行為はただディナが辱められたということだけではなく、イスラエルの民にとっては、その者の親、兄弟、すべてのものが汚されたことを指していました。だからこそ、この後において兄弟であるシメオンとレビを中心に復讐が行われるのです。シメオンとレビはシケムの家からディナを連れ出したのです。それは「自分たちの妹を汚したから」でした。そのような意味で、この出来事は宗教的にみればその聖潔を守り、共同体としての特別な思いを守ったと見る事ができるのです。


2 実利的思い

 同時にもう一つの思いがありました。

 ディナを暴行したシケムは心を奪われ結婚を望むのです。そして父ハモルはこの出来事を通して、これを機会に、ヤコブを受け入れ、ヤコブたちのもつ財産を自分たちのものとしようとしたのです。また、妹のディナを汚された、その兄たちは、ディナを救い出すと共に、シケムのものすべてを奪いとっていったのです。これは単なる宗教的な思いを大切にするなかでの復讐行為とは言えない、略奪行為です。そのような意味で、今日の箇所は利益だけを考える者たちの争いと受け取ることができるのです。


3 感覚の違い

イスラエルはディナだけではなく、シケムの町の人々と友好的関係にあったのでしょう。その中にあって起こった今日の箇所の出来事は、イスラエルの民と異邦人が共に生きること、つまりもともとの神様との関係、また考え方の違いを持つ者同士の協同、共生の難しさを教えています。イスラエルの民にとっては、ディナになされた行為は「辱められた」「恥ずべき」「恥」という行為であったのです。(2、7、13、14,27)しかしシケムの民、ハモル、シケムたちにとっては「経済的利益」につながる出来事、きっかけであると見たのです。ハモルはこの出来事を通してお互いが共に住むこと、そして「一つの民」(16、22)となることができると考えた。友好的にかかわることができるきっかけと考えたのです。

そしてそこには「割礼」という行為に対する考え方の違いが表れてきます。イスラエルにとって「割礼」はアブラハムが受け取った神様との契約の行為です。神様との契約のしるしなのです。しかしまた、シケムの民にとってみれば「割礼」を行うという宗教的儀式も経済的な利益のための行為としてしか考えなかったのです。「割礼」を受けることは大したことではないと考えていたのです。

ここには大きな感覚の違いがあります。それはまた協同、共生の難しさを教えているのではないでしょうか。このような事柄、自分はそれほど大きな問題としていないことが、他者を大きく傷つけていることは、私たちも経験していることではないでしょうか。


5 復讐

この後に行われた復讐劇は「割礼」を利用した行為となるのです。シメオン、レビ、そのほかヤコブの息子たちは、本来信仰的儀式である「割礼」を復讐のために利用したのでした。ここには「割礼」という信仰的行為を、シケムの民と同じ程度にしか考えなかった者としての姿があるのです。彼らは「宗教的信仰」のためではなく、ただ「復讐」のために、しかもそれは「略奪」をも加えた行為のために行ったのです。


6 共生という幻

この今日の箇所には、人間の欲望、「性」「権威」「支配」「財産」「復讐」「安全」、そして「共生」など多くの欲望を信仰ではなく、人間的行為によって満たそうとしている人間の姿があります。そして人間には感覚の違い、ずれがあることも教えるのです。そしてそれでもまた、わたしたち人間は必ずだれかを隣に置き、その誰かと向き合わなければならない現実に生き続けるのです。だからこそそんな現実の厳しさのなか、私たちができること「協同」「共生」のためにどのようにすればよいのか、「共に生きる」という幻のために、私たちはどのように生きることができるのか、考えさせられるのでもあります。