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2015.11.15 「彼はお前の頭を砕く」 創世記3:11-19(全文)

 神から造られた最初の人は、知識を得ることで、神のようになろうとして、かえって、自分の姿を理解して、神の目から身を隠し、アダムとエバも互いに向き合うことが難しくなったことを3:1~10において学びました。人間の不安、どうも自分の居場所が見つからないという想い、様々な対立の根っこここにあると古代の信仰者が教えています。そのことは現代においても通用する、いや、現在に生きる私たちが聴くべき大切なメッセージです。


1.責任を転嫁する人間

 神はアダムに問いかけます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」。この問いかけに、アダムは答えます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。これは創世記3章の物語を読む限り、正しい内容です。その通りでした。しかし、同時に驚くべき言葉ではないでしょうか!「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」などと告白した人であれば、「私が悪かったのです。女性の傍らにいましたのに、何もしませんでした。彼女だけは赦してください。審きは私が一身に背負います」。このように語ることこそ「傍らにいる」人の意義ではないですか。しかし、アダムは、かえってエバを告発します。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。考えてみれば、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と言ってしまえば、神様、実はあなたのせいです。あなたがあの女性と共に生きるようにされたのですから、とうことになます。アダムは神を告発しているのです。これが男の正体なのです。私たちが共に生きようとする男性たちは、決してキリストのように生きることのできない、罪の責任転嫁をしてしまう弱い存在なのです。

 そこで、主なる神は女に問いかけます。「何ということをしたのか」?!「蛇がだましたので、食べてしまいました」。この応答は、創世記3章の物語を読む限り、正しい内容です。その通りでした。しかし、同時に驚くべき言葉ではないでしょうか!神の戒めを無視したのはエバその人でした。ここでは、「ご免なさい。私がそうしてしまいました」と告白するところでしょう。エバもまた、蛇に、そして、わざわざ蛇などをエデンの園に置いた神ご自身を間接的に告発しているのではないでしょうか?これが女の正体なのです。私たちが共に生きようとする女性たちもまた、決して純粋、無垢のマリア、戦い、疲れた男たちをいつも都合よく癒してくれるマドンナではないのです。罪の責任転嫁をしてしまう弱い存在なのです。知恵や知識はあっても、弱く、脆い存在、責任転嫁をしてしまう。これが人間であると聖書は語ります。


2.神の宣言(審判)

 神は女に向かって言われます。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」。女性は出産という苦しみを通して喜びを得、喜びは苦しみ、痛みの経験を通して与えられるのです。これは男の経験できない領域です。男女共通に覚えることができるのは、自分がここに生きているという事実の背後に母親の苦痛・苦悩があったということ、産み出すときだけではなく、子どもを身ごもるというプロセスにおいても、子どもを育てるプロセスにおいても苦労があったということでしょう。

 神は男に向かって言われます。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しみ。お前に対して、土は茨とあざみをはえいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る」。男性は、労働の汗、苦労によって生活の糧を得、また、苦労を通して自分自身の生きがいを得るのです。

 この物語は、現代から見れば多くの問題をはらんでいるでしょう。男女分業論の問題です。今は女性も苦労して働いています。また、子どもが与えられない人、子どもを持たない人もこのような物語に心がうずくことでしょう。当然のことです。しかし、人生の喜びは、どこか神の審きの影を持っていること。生きることは大変なことである。また、神の赦しの愛は、苦悩や悲しみを通して私たちに深い喜びを与えて下さるということは、聴くべきメッセージです。だた、これだけではどこにでもある教えでしょう。「禍福はあざなえる縄の如し」です。水戸黄門のテレビドラマの主題歌では言えば、「人生苦もあれば楽もある」です。


3.人の苦悩を経験される神

 しかし、聖書はさらに深い真実を私たちに告げています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」という言葉に注目してみましょう。まあ、蛇が大好きという人もいないわけではありませんが、一般にヘビは女性たちに嫌われた存在でしょう。蛇は、女から生まれる男の子のかかとに食らいつくくらいですが、その子は蛇の頭を砕くというのです。かかとに食らいついたのが、毒蛇では困りますが、まあ、かかとに傷がつくくらいなら大丈夫です。蛇の抵抗はせいぜいその程度です。しかし、人の子は蛇の頭を押さえつけるというのです。これが蛇に対する神の審きです。旧約聖書そのものというより、新約聖書の視点でこの言葉を読んでみましょう。イエス・キリストはアダムとエバの末から生まれ、人の悩み、苦しみを味わい尽くしました。貧しい大工、あるいは石工を生業とし、30歳過ぎで神の国の福音を説教し、弟子たちを集めましたが、ファリサイ派や律法学者から嫌われ、ローマ帝国に不安がられ、弟子たちからも捨てられ、十字架で殺されてしまいました。まさに、貧しい、貧しい、苦悩の生涯でした。しかし、神はこのイエスを死者の中から引き挙げられたのです。つまり、神はみ子イエス・キリストを通して人の貧しさと苦労を経験されたのです。主イエスの苦しみと十字架の殺戮によって、悪しき力が勝利したかのように見えました。しかし、その悪しき力はイエス様のかかとに食らいついたようなものでした。主イエスは、死から甦らされて悪しき力の頭を砕かれたのです。初代の教父たちの中に、この創世記の箇所を以上のように解釈した人たちがおりますので、あながちとんでもない解釈ではないでしょう。神は、アダムとエバに、生み出す喜びに産みの苦しみ、労働の喜びに苦痛という影をお与えになり、苦しみを通して喜びを与えるという恵みを与えられただけではなく、自ら、イエス・キリストを通して、この苦労を味わい尽くされ、そして勝利されたのです。ここに単なる「人生、楽ありゃ、苦もあるさ」という教訓を超えた聖書の信仰があるのです。神は人の苦悩を経験されたし、苦悩されるのです。それは、究極的に神ご自身が私たちと共に、みなさん一人一人と共に喜ぶためなのです。

 ここに私たちの深い慰めがあります。私たちには苦悩があります。課題を抱えて頭を抱え込みます、しかし、どんなに苦しい人生を歩んでいるとしても、喜びもあるはずです。恵みを数えてみましょう。そして、神ご自身が、イエス様を通して、この苦しみを味わい尽くされ、復活の希望を与えて下さっていることを覚えましょう。そのときには、「お前は男を求め、彼はお前を支配する」という不自然な男女の関係を含めて、人は兄弟姉妹として個性を認め、平等に愛し合うことが少しでも可能になるでしょう。そのような希望を持って新しい一週間を過ごしましょう。