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2015.12.6 「神様が来られたところ」 コロサイの信徒への手紙1:9-23(全文)

1: 世界祈祷週間を覚えて

 今日の礼拝は、アドベントの第二週、イエス様のお生まれを待ち望む第二の時です。また、わたしたちは、この主イエス・キリストを待ち望む、この時に、世界祈祷週間としての礼拝を持つことが許されています。

 先週から世界祈祷週間となりました。世界祈祷週間は、1873年にアメリカの女性宣教師ロティ・ムーンが中国への伝道のために、アメリカ南部の女性たちがその働きを支えるための献金を作ったところから始まりました。世界祈祷は世界伝道を支える働きであり、祈りです。世界にキリストの救いの出来事を伝えようという、強い伝道の思いから始まったのです。伝道は隣の人々の魂が、キリストにあって平安にあるように・・・自分がいただいたキリストからの愛を、伝えようという強い気持ちによって支えられるのです。今日、私たちは、隣の人に、そして、世界の人々に目を向けて祈るのです。そして、それはすでに各地で宣教師として働かれている方々の働きを覚え、祈る時です。私たちには、イエス様の来て下さった恵みを全世界に広げていく使命があります。その使命を担っている方々を覚えましょう。この世界祈祷週間の礼拝を通して、共に祈りましょう。

 今日の箇所の最後ではこのようにいわれます。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」(23)

 イエス・キリストは、私たちの一人一人の心の中に、そして私たちの間に生まれて下さいました。そしてそれは、世界のすべての人間の一人も外れることなく、誰一人取りこぼすことなく、すべての人間を救い出して下さったのです。これが私たちの主イエス・キリストによる救いです。

 わたしたちは、このキリストの救いが全世界に宣べ伝えられるように、働き、祈り続けていくのです。そしてそのために、信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならないのです。わたしたちは、どのようなときにあっても福音の希望を受けて、信仰に踏みとどまる。そして世界のすべての人が、キリストの愛を喜ぶようになるように、祈り続けていくのです。


2:  霊に導かれて

 今日の箇所において、コロサイの人々は、神様の超越性と神秘性を求めて歩んでいました。「神様はどこにおられるのか」という問いに対しえ、それは超越された方として、神秘的なところにおられると考えていたのです。わたしたち日本人はよく八百万の神様といいますが・・・日本人の中には、太陽や、月、そして大きな岩や大きな木を神様とする考えがあります。神秘的なものに、そこには力があり神様となるのです。少し古いかもしれませんが・・・いわゆる「パワースポット」「パワーストーン」なども同様で、神秘的力を神様的なものだと信じているのです。

 このような考えの中で「神様はどこにおられるのでしょうか」。それは超越性の中に、神秘性の中にです。そして、この神秘的な力をいただくことによって、とても幸せになれると考えるのです。そして、このコロサイの人々も同じように、神様の超越性と神秘性を求めて歩んでいました。

 そのようなコロサイの教会にパウロはこのように言います。「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(コロサイ1:9-10)

 パウロは、「によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟」るように、と語ります。この時、コロサイの教会は、「霊」による知恵と理解ではなく、自分たち人間による「知恵」と「理解」の深みを追求していたのです。自分たちの知恵を追及することで神様を「知る」ことができるというのです。「神様はどこに?」という問いに対して、自分の知恵や知識を追求することによって、神様を知り、神様にたどり着けると考えたのです。これに対して、パウロは「霊による知恵、霊による理解」によって神様を知りなさいと教えます。「霊による知恵と理解」とは、キリストの十字架と復活を信じる信仰を通して、神様を知ることです。「神様はどこに来られたのか。」その答えは、イエス・キリストの十字架と復活において示されたのです。十字架を通さずに、その復活を信じないで、わたしたちは神様を、その愛を理解することはできないでしょう。

 聖書はこのように言います。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3)わたしたちは聖霊の導きを受けて「イエスは主である」と告白する者とされる。つまり、イエス・キリストの十字架を通して、神様を知る者とされるのです。


3:  暗闇の中に来られた主

 聖書は語ります。「御子は超越性の中ではなく、死者の中、闇の力のうちに来られた」と。それは「わたしたちを闇の力から救い出す」ために、「わたしたちが罪の赦しを受けるために」「死者の中」「罪」の中に来て下さったのです。神様は、イエス・キリストによって、私たちの暗闇、闇の心のその一番真っ暗なところに来てくださいました。それはイエス・キリストによって、私たちを闇の心、暗闇から救い出すためにです。それは何も神秘的でも、超越的でもありません。ただ本当に、私たちが痛みと苦しみと思う、その真っ只中に、イエス・キリストがきて下さり、共に歩んで下さるということ、私たちの暗闇を受け止めて下さるということです。このイエス・キリストによる、神様の愛が私たちを救い出すのです。

 イエス・キリストが、私たちの暗闇の中に来て下さいました。暗くて誰にも見せることができないほどの、どうしようものない思い、私たちのどん底まで来て下さり、そのすべてを、一つ一つを包みこんで下さるのです。そして、「わたしがあなたを愛している」と「あなたの生きる命を共に生きる」と語って下さるのです。これがイエス・キリスト、神様の愛です。神様は、イエス・キリストの十字架の出来事を通して、すべての者を贖われました。すべてのものと和解され、そこに平和を打ち立てられたのです。神様は、このイエス・キリストを通して、私たち人間と和解されたのです。わたしたちはこの神様の愛を「霊」によって知ります。聖霊の神様と人間をつなげる働きによって神様の愛を感じるのです。そして、その聖霊の導きはすでにこの世界でいつも働いているのです。

 18節において「御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」と言います。イエス・キリストは、私たちのために死者の中から最初に生まれたのです。イエス・キリストは死者の中に生まれました。この復活の出来事こそが、私たちに希望を与えます。私たちは、暗闇の中に留まっているのでしょうか。私たち自身は留まっているつもりかもしれません。「自分には生きる資格も、生きる希望もない」と感じているかもしれません。しかし、イエス・キリストは、そのような私たちのところに来てくださったのです。それは私たちの歩みはすでに、暗闇の中にあっても暗闇ではなく、闇が光へと、死が命に、絶望が希望となっているということなのです。イエス・キリストの光は今、すでに、私たちのうちに注がれているのです。私たちにはイエス・キリストによる命の光が注がれているのです。私たちはこのキリストによる新しい命を喜んで受け取りましょう。わたしたちにとっての一番の暗闇は、このキリストの愛を拒むことです。世界の誰もが救いのうちに入れられたという事実を受け入れないことです。神様を神様とせず、自分が神様であり、神様の愛を受け入れないとき、私たちは自分で暗闇を造りだしているのです。そして、それが私たち人間の一番の罪でしょう。神様の愛を受け入れないことです。自分を中心に置き、自分を正しい者として生きることです。キリストの新しい命に生きるということは、今までの自分の価値観、自分の正しさを捨てることになります。わたしたちはすでに来てくださった神様の愛を受け取るために、受け取る心の扉を開く必要があるのです。

 この前、うちの子どもが「日本は世界の真ん中にあるんだね」と言ってきました。確かに日本で売られている世界地図では日本が真ん中にあります。日本での世界地図を見ますと、世界の果ては、左はヨーロッパとアフリカ、右はアメリカになります。しかし、それは日本で売られている地図で見たときの話です。以前、松見先生がチェコに行った時にお土産にいただいた地図では、ヨーロッパが中心で日本が世界の果てになっているものです。ヨーロッパではヨーロッパを中心にした地図があります。ヨーロッパを中心としますと、日本は世界の果て、東の果てにある国となります。実際には、地球は円球の形ですので、どこかが真ん中ということはないのですが、私たちは自分を中心に価値観を持ってしまうのでしょう。

 私たちはだれもが、自分を中心に見ている。自分が正しいと思っている。地図でいえば別に、日本の位置、ヨーロッパの位置が変わったわけでもないのに、その見方は、その場その場でだれもが、自分を中心に見ているように。人間は、自分を中心においている。これが人間、私たちの価値観です。

 神様の愛によって新しく命を受けて、希望のうちに生きるということは、私たちが自分自身を中心に考えることから、神様を中心に生きることです。自分を愛することができないという苦しみの心。愛するためには、努力と力、神秘性や超越性が必要だろ思う、暗闇の心に、キリストが来てくださったことを信じることです。これまでもっていた自分の闇の価値観から離れて、主の愛という真実に目を向けることです。心を閉じないで、素直に自分の心を開き、聖霊の導きを受けて十字架に救いを見る。これが私たちが新しい命を受け取ることです。


4:  神の愛を受ける 

 そして、今日の箇所において語られている、もう一つの事柄、それは、「信仰に踏みとどまりなさい」ということです。

 イエス・キリストは「死」と「絶望」と「暗闇」の中に来られました。私たちはこのイエス・キリストを信じるのです。救いも望みももはやないと思う、そこにイエス・キリストは来られたのです。キリストは十字架の上に苦しまれました。この世界のすべての苦しみ、うめき、叫びを、共に担うために、十字架の上に、死のうちに来られたのです。私たちは、私たちの一番苦しい心のところに来てくだる神様を信じるのです。これが神様を、神様の愛を受け取るということです。わたしたちには、このキリストの愛を知るために信仰にとどまり続けるということ、心を開き続けること、連続した「祈り」、と「御言葉」に踏みとどまることが必要なのです。暗闇の中にあっても、神様に祈り続けるのです。私たちには、共に祈りましょう。私たちが神様と繋がるためには、「祈り」が必要なのです。私たちは、信仰に踏みとどまるために、共に祈りましょう。共に、兄弟姉妹と共に祈りを合わせて祈っていきたいと思います。


5:  信仰に踏みとどまる

 今日は、世界祈祷週間です。イエス・キリストは、この世に来てくださいました。この暗闇の世界にきてくださったのです。これは私たちにとっての魂の救い、命に光を与えられた希望の出来事です。どれほどの暗闇にあっても、キリストはそこに来てくださいます。私たちは、この福音を信じて祈りたいと思います。そしてまた、私たちは祈る中で、私たちのために祈ってくださっている、キリストを覚えたいと思います。私たちが祈ることができなくなっても、心が苦しいときにも、そのときに、私たちが心をもう一度開くために、イエス・キリストは祈りつつ、隣にいてくださるのです。私たちの信仰はこのイエス・キリストの祈りによって支えられています。そしてまた、それは共に祈りあう兄弟姉妹がいるということです。私たちは兄弟姉妹の祈りによって支えられているのです。私たちは兄弟姉妹の祈りによって、信仰に出会い、信仰に踏みとどまる者とされているのです。

 今、隣で、また遠く離れた、顔も知らない兄弟姉妹が、私たちの信仰のために祈っているのです。その祈りによって、私たちは信仰に生きるのです。わたしたちも祈りましょう。世界の兄弟姉妹のために。キリストの平和が心に訪れるために。祈りましょう。そして世界の魂の救いのために働いてくださっている方々のために祈りましょう。わたしたちは、自分のためだけではなく、他者のために祈りたいと思います。イエス・キリストの祈りに支えられて、祈りあう者とされていきたいと思います。私たちは、祈りと願いと執り成しと感謝をもって神様に繋がって、信仰に踏みとどまっていきたいと思います。

 私たちは、今クリスマスを待ち望みます。イエス・キリストは暗闇と死、そして絶望の中に生まれて下さいました。そして復活の命を、今、私たちに向けて注がれて下さっているのです。私たちは、このイエス・キリストの命を受け取って、共に祈り続けていきましょう。