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2015.12.30 「ユダとタマル」 創世記38:1ー30

1.ユダ

 37章からヨセフ物語が始まりました。ですが今日は、ヨセフは登場しません。今日はのちの編集によって挿入されたと考えられる、ヨセフの兄弟ユダの話となっています。

 ユダについて少し見てみますと・・・ヤコブの子ども12人のうちユダはレアの子どもとして生まれました。兄弟にはルベン、シメオン、レビ、イサカル、ゼブルンがいます。「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」(創29:35)としてユダは名付けられました。ユダはヨセフ物語のところどころで登場します。37章においては、兄弟に殺されそうになっていたヨセフを殺すのではなく、売り飛ばそうと提案しました。また特に44章においては、ヨセフの前でベニヤミンのため、父ヤコブのために、自分が罪を代わりに背負うことを願い出るのです。そのような意味ではユダはこのヨセフ物語でも脇役ですが大切な登場人物です。また、のちにこのユダからダビデが生まれ、南ユダ王国は、このユダ族とベニヤミン族とで形成され、イエス様にまで続くことになります。

 

2. ユダの恐れ

 今日の話はユダがカナン人と結婚し、そして子どもが与えられたことを教えます。一人目にエル、二人目にオナン、三人目にシェラです。そしてエルがタマルという嫁を迎えます。ここでは、いわゆるレビラート婚という律法の掟を前提に話が進んでいくのです。

 当時の習慣としてこのレビラート婚という形は当然なものとして認められていました。「その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」という考えは、日本にもある、いわゆる「家」を大切にして考えた一つの考えとなります。一家が絶えないように、またこの形によって、寡婦となった女性が守られるために、このような形がありました。この律法に定められたレビラート婚を前提に話は進んでいきます。

 長男エルがタマルという嫁を迎えました。しかし、長男エルは神様の意に反したので、主に殺されます。そのため、タマルは次男オナンと結婚します。しかし、「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。」(38:9-10)とあるようにオナンも主の意に反する者となり、殺されるのです。

 一人目エルはどのように主に反したのかは記されていませんが、エルとオナン、二人の死は明らかに主の意に反したことに対する、神様から与えられた死です。二人が主なる方の御心から離れたのです。しかしユダはこの二人の死の責任はタマルにあるものとします。そのため、三人目、最後の息子シェラが死ぬことのないように、律法を守らずシェラはタマルと結婚させなかったのです。

 「ユダは嫁のタマルに言った。『わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。』それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。」(38:11)

 ユダの心の中には恐れがありました。実際には二人の息子の不信仰による出来事でしたが、ユダはすべてを知っていたわけではありません。ユダが知っていたのは、事実二人の息子がタマルという女性と結婚することで、死んでいったということです。ユダは、この出来事に恐れたのです。この恐れのうちに、三人目シェラは死んではいけないという思いから、タマルを実家に帰すのです。これはユダがタマルのことよりも自分のことを守った姿として写ります。

 

3. タマルの苦しみ

 ユダの恐れが起こした出来事はタマルを苦しめます。タマルは実家に帰ることで生きることはできていたましたが、この道はただこのまま寡婦として死んでいくという道だったでしょう。「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」(11)とユダは言いましたが、その言葉は確実な約束として果たされるものではありませんでした。

 「かなりの年月がたって」(12)。何年も過ぎていきました。この一言がタマルにとってはどれほどの重みをもつのでしょうか。何年たっても、シェラが成人になり迎えに来ることはないのです。タマルはこの年月、この日々、何を信じていたのでしょうか。何を求め、何を頼りに生きたのでしょうか。生きる指針を失って生きる日々はどれほど苦しいものでしょうか。タマルはその中を生き続けたのです。

 

4. タマルの策

 そのような中で、ユダの妻が死にます。ユダは喪に服した後、アドラム人ヒラとティムナに羊の毛を切る者のところへ行きます。羊の毛をかることは収穫であり、宴会です。楽しむときをもったのです。これは喪に服した後の行動としてはとても早いものとされます。この時にタマルはユダを欺く策を練るのです。14節ではこのように言います。「タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。シェラが成人したのに、自分がその妻にしてもらえない、と分かったからである。」(14)タマルは行動にでます。タマルはユダを欺き、ユダとの関係を持つのです。これはタマルが命をかけた行動であったでしょう。見つかれば許されません。それでもタマルはユダを欺いていくのです。この箇所の語る中心的意味は、この後のユダの言葉に向けられていくのです。

 

5. なにが正しいのか

 ユダはタマルとの関係をもつときに、保証として「ひもの付いた印章」と、「杖」を渡します。その後、ユダは保証の品を取り戻そうと、友人に子山羊を送り届けさせたのです。しかしその女は見つかりませんでした。「ユダは言った。『では、あの品はあの女にそのままやっておこう。さもないと、我々が物笑いの種になるから。とにかく、わたしは子山羊を届けたのだが、女が見つからなかったのだから。』」(23)このユダの言葉には、自分は子山羊を届けたのだから・・・何も悪いことはない。自分は約束としての子山羊を届けようとした。それでも女が見つからなかったのだから、自分は悪くないむしろその女が悪い、自分は正しいのだと考えたのではないでしょうか。

 ユダにとって正しいこととは何だったのでしょうか。そんなことを言っている間にタマルが姦淫をしたという情報が入ります。「三か月ほどたって、『あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました』とユダに告げる者があったので、ユダは言った。『あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。』」(24)ユダは姦淫をしたタマルを殺そうとします。「祭司の娘が遊女となって、身を汚すならば、彼女は父を汚す者であるから、彼女を焼き殺さねばならない。」(レビ記21:9)このユダの行為は律法の上で正しいものだったのかもしれません。しかし、タマルは保証の品、「ひもの付いた印章」と「杖」を示します。ユダはこのとき自分のしたことを理解したのです。

 ここが物語の大きな分かれ道となっています。ユダは「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」(26)と言いました。ユダは自分の正しさではなく、タマルの正しさを認めたのでした。もしユダが、何も知らないものとして、タマルを罪ある者として殺しても、誰も何もしらず、物語は終わったのでしょう。しかし、ユダは自分ではなくタマルの正しさを認めました。これが大きな分岐点です。ユダは自分の罪を知りました。三人目の息子とタマルとを結婚させなかったこと。何よりも、自己保全のために道を選択していったことです。このときユダは家長として力ある者でありながら、力なく寡婦として生きるタマルの訴えを受け入れたのです。自分の間違えを認めます。自分の罪を受け入れたのでした。これは、この後の44章におけるヨセフの前でのユダの姿にもつながるものでしょう。

 ユダは道を踏み外し、間違った選択をしていきました。それでもその間違えに気が付き、自分の罪を受け入れるのです。そして力ある自分ではなく、力ない寡婦としてのタマルの言葉を正しいものとしました。

 

6. ユダからダビデ、ダビデからイエスへ

 このあとタマルがユダの子どもを産みます。

 「タマルの出産の時が来たが、胎内には双子がいた。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、「これが先に出た」と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。「なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして。」そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたので、この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。」(27-30)

 このあと、系図はペレツからダビデへと続き、ダビデからイエス・キリストへと続いていきます。ダビデもまたナタンの指摘をうけて悔い改めた者です。自分の罪を知り、悔い改める。悔い改め続けていく。しかしまた罪は私たちがどれほど悔い改めても拭うことのできない大きなものです。罪を振り払うことは、私たちにはできません。この罪の赦し、罪からの解放を可能にしてくださった方がイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのすべての罪を背負われたのです。私たちはイエス・キリストによる赦しを土台に悔い改めるのでしょう。

 悔い改めるとは、私たちが道を転じること、自分中心に生きてきた道を間違えた道として、神様を信じる道に歩き出すことです。私たちはイエス・キリストによって神様に赦されている。その事実に立ち返り、歩き出していきたいと思います。