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2016.1.13 「ヨセフとポティファルの妻」 創世記39:1ー23

1. ヨセフの態度

 ヨセフはイシュマエル人からファラオの宮廷で働く役人ポティファルに買い取られました。ここからヨセフと共に主がおられたことによって、すべてがうまく運ばれていくのです。ヨセフの働きは大きな功績をあげることになったのです。そのために、主人ポティファルはヨセフにすべてを、自らの全財産を任せたのです。ただ1つ委ねなかったもの、それは自分が食べるものです。食べるものとは、妻の存在を表す言葉としてありました。ヨセフは「顔も美しく、体つきも優れていた」(6)ようです。またすることなすことすべてがうまくいき、財産は増え、家の管理についてはヨセフがすべてを任されていたのです。ヨセフは高い能力を持ち、また美しく、優れた者であったのです。ポティファルの妻は、このヨセフに関心を向けました。ポティファルの妻が求めていたものは何だったのでしょうか。自分の支配欲でしょうか、性的欲求でしょうか。

 しかしヨセフはこの言葉を拒むのです。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」(8-9)

 ヨセフの主人は、ポティファルでも、その妻でも、ヨセフ自身でもありません。ヨセフの主人は神様であることを告白しているのです。それはポティファルの妻の心の欲求、なにか足りないと感じるものに対する答えでもあったのだと思います。わたしたちは何を求めて生きるのか。何を頼りに生きるのか。それは神様でしかないということを告白しているのです。

 

2.手

 今日の箇所で、一つのキーワードとして「手」という言葉あります。「手」は「力」を表しました。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(1)「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。」(8)「ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げた」(12-13)

 ヨセフはイシュマエル人からポティファルのもとに売り渡され、そんなヨセフがポティファルのもとで、すべてを手にゆだねられた。ヨセフは力を得たのです。そしてまた、ポティファルの妻の策略によって、着物をポティファルの妻の手の中に残したまま逃げ出すのです。しかし、ヨセフがそこに残したのは、着物であり、ヨセフ自身ではありません。ヨセフはポティファルの妻の策略の中で、すべてを奪い取られたのではなく、抜け殻と言える着物だけ、つまりヨセフ自身、ヨセフの信仰、ヨセフの夢は、その力のうちに入れられることはなかったのです。

 私たち人間を支配する本当の力は神様にあります。そして神様の支配は、私たちを押さえつけるものではなく、私たちを愛するという思いによるものです。神様は私たちを愛されています。その事実は変わることはありません。私たちは主の御手のうちに生かされているのです。

 

3.主が共におられる

 そして、神様の愛を表す言葉「共におられる」という言葉が、今日の箇所では何度も「主が共におられる」と使われているのです。主がヨセフと共におられた」(2)「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た」(3)「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(23)

 神様は、いつもその場その場において共にいてくださるのです。

 ヨセフはイシュマエル人の手から、エジプトの高官に売り飛ばされました。その中でも主の働きによって、ヨセフはすべてを委ねられるほどの恵みをいただくのです。また、ポティファルの妻の誘惑によって罪に誘われていくのですが、そのようなときも、神様がヨセフと共にいた。ヨセフはその神様の愛を信じたのです。また人間的権威によって、監獄に入れられることになっても、そこでも主が共にいて働いてくださったのです。主が共におられる。私たちが選ぶのは、そのことを信じて道を進むのか、その愛を無視するかでしょう。

 今回の箇所で見たヨセフの信仰的姿は、神様が共におられるという愛に従った姿です。ただヨセフがいつも正しく、信仰的であったとは言えないと思うのです。兄たち、そして父にも言いたいことだけを言いました。自分は特別に父から愛されているという傲慢な心があったのです。そしてエジプトに売り飛ばされたのです。しかし、神様はそのようなヨセフをもとらえていたのです。まず先に「主が共におられた」「神様が守ってくださっていた」ということを覚えたいと思います。

 私たち人間にはいろいろな心が与えられています。神様に従おうとする心。自分自身で生きていこうと思う心。誰かを助けようとする心。誰かを傷つけてでも自分の欲求を満たしたいという心。私たち人間には、理性的思いがあり、同時に欲求があります。この2つは、どちらも大切な神様が与えられた思いなのだと思います。しかし、このような心をいつも正しくコントロールすることは、とても難しいのです。わたしたちは間違いを犯し、失敗を繰り返します。それでも神様は離れることなく共にいてくださいます。神様は離れることはありません。私たちはその神様を主人とする信仰に立ち返りたいと思います。

 主が共におられ、すべてがうまく計らわれた。しかしヨセフの現実をみれば、現実はイシュマエル人からエジプトに売り飛ばされ、人間の権威と誘惑を拒むことで、監獄まで入れられてしまうのです。この現実はすべてがうまくいっているとは見ることはできないのです。それでも、そこに主が共にいてくださった。すべてが主の導きのうちにあったのです。これが聖書からのメッセージでしょう。主はどのようなときも共にいてくださる。それは良いときも、悪いときもです。わたしたちは、いつもこの主に立ち返って歩んでいきましょう。