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2016.1.27 「夢を解くヨセフ」 創世記40:1-23

1 夢

 今日のお話は、ヨセフが給仕役と料理役の夢を解き明かす場面となります。この場面は、ファラオの夢の解き明かしへと続くのです。侍従長のもと、監獄へと入れられていたヨセフです。そこに二人の王の側近がやってきました。そして二人は同じ日に同じような夢を見るのです。ヨセフはこの二人の夢の解き明かしをします。

 当時は、夢は何かを伝えようとしていると考えられていました。ヨセフ物語では特に、夢の話、夢の解き明かしの話が、この物語を作っているということができます。もともとヨセフは、自分が見た夢によってエジプトまで連れられてこられた。そしてこのあとのファラオの夢によって、ヨセフは地位を得、そこに兄弟たちがやってくると話は続きます。

 

2 夢を支配する方

 理解することのできない夢をみて、憂鬱な顔をしていた二人に、ヨセフは「解き明かしは神がなさることではありませんか。」(8)と答えます。ヨセフは「夢を解き明かすのは、神様のなさること」というのです。二人を監獄に入れたのは、ファラオという王様でした。ファラオがエジプトを支配し、その力をもって人々のすべてを、その考えのうちに動かすことができたのです。実際に二人は、このファラオによって監獄に入れられ、もう少し言えば、ファラオに仕える侍従長の力によって監獄に入れられたのです。二人にとって、支配者はファラオであり、神ではなかったはずです。しかし、そのような者たちに。ヨセフは、一番力ある方は神様であることを教えるのです。「神様がなさること」。どれほど力をもっていても神様のなさることに反して生きていくことはできないのです。そして夢は、これからどうなるのか、この夢の教えることは何なのかと考えさせます。つまり、これからのこと、未来について教えるのです。「夢の解き明かしは神がなさる」。それは、未来が神様の御手の中にあることを示します。神様がこの世界を支配し、その主権を持ち、これまでのことも、これからのことも導かれているというのです。

 夢を支配し、未来を作りだし、この世界を支配される方、それが神様です。

 

3 神様を信じる

 実際、この時、ヨセフ自身が監獄のなかにいました。それでもヨセフは「すべての主権は神のうちにある」ことを述べるのです。ヨセフはこの時、力ない者としていました。神様によって与えられた夢を語り、そのことによって、エジプトまで売り飛ばされた。そして理不尽な罪に問われ、監獄に入れられたのです。

 本当なら、「神様なんて・・・」と思う状況ではないでしょうか。もはや何ももっていない。何もできない。そのような中でもヨセフは神様の主権性を信じるのです。これは、私たちに大きな勇気を与えるのではないでしょうか。ヨセフはどのような状況にあっても、神様は未来を支配して、神様が未来を作りだしてくださると信じたのです。

 今、どのような状況にあっても、神様は必ず新しい道を切り開いてくださる。これからの道は、暗闇にしか考えられないけれど、神様が必ず守ってくださると信じることは、なかなかできることではないでしょう。しかし、神様が第一と信じることによって、道を切り開くための勇気を与えられます。神様が必ず守ってくださることを信じるときに、私たちは自分自身が何をすればよいのか考えて、悩んで、それでも勇気と希望をもって立ち向かう力を与えられているのです。

 ヨセフは神様の御言葉、知らせを信じたことによって、兄弟に嫌われ、エジプトに売り飛ばされた。それでもその政治的能力から、その場で力を得たところ、今度は、神様の前に罪を犯すことのないようにしたために、監獄に入れられたのです。神様を信じることは良いことばかりが起こるのではないでしょう。むしろこの世では苦しみ、厳しい生き方となるのです。しかし、神様を信じ続けるときに、私たちは、その厳しい人生に立ち向かうだけの力と勇気を与えられているのです。世界の未来、人間のこれから、新しい日々の命を導かれているのは、神様なのです。

 

4 信仰をもって働く

 創世記40:14-15

 「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」

 ヨセフは「すべての主権は神のうちにある」と信じて語りました。ヨセフはそのような信仰を持ちながらも、ここでは給仕役の人に自分を覚え、助け出すように願うのです。ヨセフは、ただ神様の御業を信じて待つだけではなく、隣人へ取り入ることもします。神様への信仰を持つヨセフは、給仕役が自分を助け出すように働きかけるのです。信じて祈ること、神様の御業を待つこと。それはただ何もしないで待つだけではなく、自分の能力のできる限りの力をもって、様々な働きをしなければならないのではないでしょうか。

 神様を信じることと、自分が一生懸命働き生きていくことは矛盾していそうですが、それはむしろ神様に与えられた能力を用いて生きる人間の責任ともいえるのではないでしょうか。わたしたちは神様に生きる力を与えられています。その力を神様のために発揮していくことは、神様を信じる生き方なのです。

 

5 ヨセフを忘れた隣人

 「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」(23)今日の箇所はとてもむなしい最後となります。結局、その給仕役はヨセフを忘れてしまったのです。そして、ヨセフは監獄の中のままです。これが人間の弱さです。自分が恵まれているときに、隣の人の痛みを考えることは難しいのです。「泣いている人と共に泣く」ということのむずかしさでしょう。給仕役は、ヨセフを忘れてしまうのです。また覚えていても、必要ないと考えたのかもしれません。

 しかし、このような時においても神様はヨセフのことを忘れてはいないのです。神様は私たち一人ひとり、誰であっても忘れることはないのです。神様に覚えられているヨセフは、この後に続くファラオの夢の解き明かしの場面へと導かれていくのです。

 わたしたちがお互いのことを思い、共に痛みを背負い生きることには限界があるのかもしれません。それでも、神様は、私たちのすべてをご存じです。このあとこの給仕役は、ヨセフを思い出し、自分の過ちに気づいたのでした。ヨセフはその時まで待つのです。神様を信じて待ち続けるのです。私たちも、神様のことを信じて、いずれ開かれていく新しい道を待ち続けていきましょう。