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2016.2.7 「命のパンと杯を受け取る」(全文) マルコによる福音書14:22-26

1:  主の晩餐式

 今日の箇所は、いわゆる「最後の晩餐」とされる箇所、私たちの教会の後ろにもその絵が掛けられていますが、キリスト教の絵としては、とても多くの人々が描いている出来事であります。それは、この出来事が私たちの信仰において重要な出来事であり、いつも覚えておくべき大切な事柄であることを示しています。私たちも、このイエス様と弟子たちによる「最後の晩餐」から、キリストの十字架を覚えて毎月の最初の週に「主の晩餐式」を行っています。

 主の晩餐式は、バプテストにおいては、バプテスマと並ぶ大切な時です。バプテスマとは、私たちがイエスを主と告白する時であり、神様に従って生きる決心をするときであります。この信仰の始まりと並び大切な「主の晩餐式」を、私たちは大切にしているのです。「主の晩餐式」とは今日の箇所「最後の晩餐」から倣った出来事で、主イエス・キリストの弟子として、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださった、そのキリストの体と、その血の恵みを再確認するときであります。

 バプテスマの時に、私たちは、イエスを自らの主と告白します。そしてその者が、神様に従い続けるため、何度も何度も主の愛に立ち返るために、主の晩餐式を行うのです。もう一度十字架のキリストの痛みと恵みを確認するのです。主の晩餐式から、私たちは、イエス・キリストの十字架を覚えます。そこでは私たち自分自身の罪がイエスを十字架につけたこと、神様を見捨て、裏切り、離れていった者のために、神様がイエス・キリストとして、人間のために死んでくださったこと、そしてその出来事を通して、私たちが本当の神様の愛に繋がれているという、信仰の中心的事柄を、再確認するのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の痛みによって、今、神様の子どもとして生かされているのです。

 今日の箇所は、この神様による、救いの恵みを受け続けるため、イエス様が弟子たちに教えられた晩餐の恵みの時です。

 

2:  取りなさい

 その中で今日はイエス様が言われた一つの言葉「取なさい」と言われた言葉に注目していきたいと思います。イエス様は「取なさい」と言われました。このイエス様の言葉は、私たちに大きな希望を与えてくださいます。

 少し、今日の箇所の前後を見てみますと、今日の箇所は、ユダの裏切りとペトロの離反という、イエス様の弟子たちがイエス様を裏切り、離れていくという箇所に挟まれています。それは、まさに人間の弱さを表す出来事に挟まれているということです。

 イエス様は今日の箇所の前、18節ではこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)またこの後の箇所30節ではこのようにも言われるのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14:30)

 イエス様は、ユダの裏切りとペトロが自らを知らないと言うこと、離れていくということを教えられました。つまり、主イエスは弟子たちの裏切りをご存じだったのです。この時のイエス様の気持ちはどれほど、苦しく痛いものであったのでしょうか。

 人間同士の裏切りはとても心を痛めるものです。

 最近では、連絡する方法として、ラインというものが発達しているようですが、そこではグループを作り、みんなで一緒に連絡のやりとりができるようです。わたしも最近使いだしました。わりと楽しく、面白いと思う部分と、連絡を取ることができることは良いのですが、それが早すぎて、面倒だなと思う部分があります。わたしが高校生くらいの時は、ポケベルというもので、電話から数文字を送ることができるものでした。それでも待ち合わせや、必要な連絡を取り合うことができるという意味では大変に役にたったのですが、現在のケータイ、メール、そしてラインは、その連絡の速さはくらべものになりません。

 しかし、だからこそ起こっている問題もあるのです。こちらが連絡をしても、返ってこない。または返さなくてはいけないと感じて、それがプレッシャーとなっている。携帯を手放すことができないようになっていること。また4人の仲良しグループが、いつの間にか3人だけのグループを作っていて、一人の悪口を言っている。そのようなことから、友達に裏切られたと感じて、学校に行くことができなくなったりしたという話も聞いています。

 裏切りは関係を断絶します。学校の友達、または会社の同僚、ママ友、または、親子や、家族の中での裏切り。それは人間関係を破壊し、断絶するのです。

 

わたしたちはこれまでどれだけの人間関係を作り上げ、またどれだけの人間関係を壊してきたでしょうか。どれだけの人と、喜びのうちに友となり、悲しみのうちに敵対する者となってきたでしょうか。わたしたちは、どれだけ人から裏切られ、また裏切る者となってきたでしょうか。

 

イエス様の十字架は、弟子たちの裏切りから起こされていくのです。一つの人間関係の断絶が、イエス様を死に向けて歩き出させたのです。そして、その弟子たちの裏切りは、わたしたち一人一人の弱さを表す出来事でもあります。イエス様はそのように傷ついている者、また傷つけてしまうもの。それほどに弱い私たちに、今日の箇所において十字架で傷ついた「キリストの体」と「キリストの血」を「取なさい」と言われるのです。これは、傷ついている者に、希望を与える言葉なのです。イエス・キリストは、自らを裏切る者、そして自らを知らないと逃げ出すものに、このパンと血を取りなさいと言われているのです。それは、私たちが「キリストの体」と「キリストの血」を取る者として赦されているということ。そしてそこに与えられている希望を取ることを許されているということです。

3:  キリストの体と血

パンによって表されるキリストの体、そしてその杯によって表されるキリストの血は、私たちに十字架の重さを示します。

2000年以上も前にイエス・キリストは十字架において死なれたのです。この出来事がどうして、私たちの救いなのか・・・そのような言葉を聞くときがあります。確かに、どうしてなんだろうと考えさせられます。私は、イエス・キリストの十字架は、わたしたちが十字架のイエス・キリストの痛みをきちんと知るということは、頭で理解するというよりも、心に響く事柄なのではないのかと思うのです。私たちは、だれもが心に隠していて、誰にも知られたくない痛み、苦しみがあるのではないでしょうか。

わたしが東京基督教大学に通っていた時のことですが・・・大学は全寮制でしたので、いつもみんな寮で過ごしていました。その中でも、わたしの学年の、中心的存在で、その学年長のような働きをしていた人がいました。その人は、いつも熱心に勉強し、クラスの中でも中心的に祈りや礼拝をしていていました。家族全員がクリスチャンで、自分は牧師になるために・・・と、なんでも一生懸命取り組んでいたのです。そんな人が、あるとき突然いなくなったのです。何があったのか、何を悩んでいたのか、その学年、クラスのだれもまったくわからず、まったく知らなかったのです。そしてその人は、誰にも何も言わずに学校をやめていました。全寮制で、みんなが一緒にすんでいたはずなのに、それほどの関係しか作ることができなかったといえば、それもその通りですし、また、それほどに、人間は、誰にも知られたくない心の痛みがあるのだとも思わされました。

これは今でも忘れられない出来事です。その人が何を悩んでいて、心にどのような傷を負っていたのか、今でもわからないのですが、私たちには、誰にも言うことができない、表現することもできない、心の痛みを持つことがあるのではないでしょうか。特に、「裏切り」という人間関係の断絶を感じたとき、また「信頼関係の崩壊」、または生きることのむなしさや、自分の弱さや、醜さを知るとき、どうしてなのかわからないけれど、言い表すこともできないけれど感じる、恐れや苦しみ。そのようなときに、私たちは、心が痛むのではないでしょうか。

 

イエス・キリストの十字架の出来事、イエスの体が裂かれ、その血が流されたのは、そのような私たちの心の痛みを、キリストが共に痛んでくださっているという出来事です。キリストの十字架は絶望的出来事です。人々にあざ笑われ、弟子たちに裏切られ、体を釘づけにされて、血を流したのです。私たちはこのような出来事が2000年前の、ただの一つの昔のことと知るのではなく。これが、神様が私たちと共に歩むためになされた、私たち一人一人の心の痛みを知るための出来事であったと受け取るのです。神様は、私たち人間と共に歩まれる決心をされた。そしてそのための痛みや悲しみを受け取られたのです。

皆さん、自分の心に聞いてみてください。本当の痛みを、誰にも話すことができない悲しみを。その重荷を。誰が本当にわかってくれるのでしょうか。そして、自分は本当にすべてをさらけ出して話すことができるでしょうか。私たちは事実どれほどの孤独と絶望感を持っているのでしょうか。神様は、この人間の痛みを知るために、イエスを十字架につけられたのです。十字架の上で裂かれた「キリストの体」、そして十字架の上で流された「キリストの血」。イエス・キリストはどれほどの苦しみにあったのでしょうか。それがどれほどイエス様の心を苦しめたのでしょうか。イエス様は、弟子たちに裏切られ、知らないと言われ、そのうえで孤独と絶望のうちに死んで行かれたのです。わたしたちは、このイエス・キリストの心の苦しみをもう一度、再確認しましょう。

イエスがキリストである、私たちの主であることということは、このキリストの十字架によるのです。私たちは、私たちと共に生きるキリストを主と告白するのです。

4:  取りなさい

そして、イエス様は、この痛みと苦しみによる愛を「受け取りなさい」と言われるのです。十字架の上で裂かれた「キリストの体」と流された血である「キリストの血」とを、受け取りなさいと言われるのです。

聖書では、このように言います。

Ⅰコリント11:27-28「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」

私たちが自分をよく確かめたときに、その心のうちを見たときに、そのうちには何が見えるでしょうか。その醜さや、汚さ、闇の深さを見るのではないでしょうか。ある人は「自分はこのパンと杯を受けるのにふさわしい者ではない」と感じて、このパンと杯をとることができなくなるかもしれません。それはある意味、神様への畏れ、イエスの十字架の重みを感じ、それに耐えることができない自分を見たからかもしれません。自分の醜さを確認したからでしょう。自分の弱さや醜さを覚え、イエス・キリストの十字架の重み、神様への畏れを持つことはとても大切なことです。

しかし、だからこそイエス・キリストの十字架が、私たちにはあるのです。わたしたちの正しさではなく、キリストの正しさ、十字架の上に示された神様の愛に生きるのです。わたしたちは、もはや自分で生きているのではなく、イエス・キリストの十字架に生きていることを、わたしたちは、心によくよく刻み付けなければなりません。そのことを確かめ、その決心を今一度して、主の命のパンと杯を受け取るのです。神様の愛だけが私たちの救いなのです。

イエス・キリストは、「取りなさい」と言われました。つまり、この神様の愛を受け取りなさいと言われているのです。もはや自分で生きるということを捨てて、神様のイエス・キリストによって示された愛によって生きていくのです。神様の愛は偉大なのです。それは人間的にすばらしく、輝かしいという偉大さではありません。神様の示された本当の偉大さは、その命をも投げ出して、自らを醜く、弱く、小さい者としてまでも、私たちを愛したところにあるのです。

私たちは、この大きく、深い愛を知り、自分の弱さや醜さをも含めて愛してくださっている愛を受け取りましょう。イエス様は「キリストの体」と「キリストの血」、命のパンと杯を「取なさい」と言われます。わたしたちはただ、キリストの言葉を信じて、命を受け取りましょう。

5:  多くの人のために流された

最後に、このキリストの十字架を受け取ることによって、私たちが受け取る使命について考えていきたいと思います。24節においてイエス様はこのように言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(24)主イエスの流された血は、多くの人のために流されたのです。イエス様が十字架の上で流された血は、だれか一人のためではなく、多くの人のための血です。

主の晩餐式において、わたしたちはキリストの十字架を覚えます。それは、自分の救いをもう一度覚え、心に刻み付けると同時に、このキリストの十字架がまだまだ多くの人々のためであることを知るときでもあるのです。つまり、私たちにはこのキリストの十字架の愛を伝えるという使命が与えられているのです。主イエス・キリストの血は、教会が自分たちだけのためのものだとして中にしまいこむものではなく、むしろ、多くの人々に、このイエス・キリストによる血を、知らせていかなければならない、広げていく出来事なのです。

イエス様は「取りなさい」と言われました。それは、このイエス・キリストの血による恵みを受け取ると同時に、その喜びを知らせるという使命を受け取りなさいと言われているのです。わたしたちは、この使命を含めて、キリストの命のパンと杯を受け取りましょう。今日、これから教会で、この主の晩餐式を行います。わたしたちは、喜んで、厳粛に、主の命を受け取りましょう。イエス・キリストの痛みと決意、その愛を受け取りましょう。そしてまた、そこに与えられている外に出ていくという使命と勇気をいただき、主の業をなすものとして生きていきたいと思います。