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2016.2.10 「神様の計画に応答する」 創世記41:1-36

1 人間の力の限界 

 ファラオは夢を見ます。それはファラオにとってひどく心が騒ぐものでした。これまでもヨセフ物語は「夢」とつながりとして進められてきました。そして今日の箇所による「夢」、そして「夢」の解釈がヨセフの立場を大きく変換させます。

 本来、王様というのは力をもち、権力の中心に立つものです。よいことを得て、悪いものは力でねじ伏せる。または、その権力、知恵、財産を使って対応するのです。これはエジプトの王様ファラオだけではなく、権力者の姿です。しかし、「夢」に対応するためにこれらのものは無意味でした。ファラオは無力にされるのです。

 これは神様の力の前での人間の無力さ、限界を示します。自信と支配は打ち砕かれるのです。「エプト中の魔術師と賢者をすべて」(8)も、どうすることができませんでした。「夢」はエジプトの王ファラオを通して、神様の力と、人間の限界を教えるのです。これは「夢」だけではないでしょう。私たちは日々の命から、これからの「未来」に対して、知恵と力によって対応すること、備えることはできますが、そこには限界があります。未来のすべてを見て、把握することはできません。

 子どもたちを育てる時、子どものためを思い、習い事をさせます。未来に対しての備えです。怠らずに知恵をもって備えることは大切です。しかし、そこには限界があるのです。それは大人になっても変わりません。高齢者となり、仕事を終えて、それからの人生でどのように生きていくか、さまざまなことを考えます。しかし、それがすべて予想通りにいくとは限らないのです。エジプトの王、最大の権力者ファラオでさえも、そこには限界がありました。

 私たちが確実に言えることは、人間は生まれて死ぬということです。この命の基には神様の計り知れない導きがあるのです。

 

2 ファラオの夢 

 まず、ファラオはナイル川のほとりに立っていました。エジプトにとってナイル川とは力の表現であり、命の中心ともいえたでしょう。ナイル川はエジプトの命の中心なのです。このナイル川のほとりに立つことは、エジプト全体の命の中心部分に立たされた、重要なメッセージであることを示しているのです。

 そしてファラオは夢を見ました。その夢は2つです。雌牛も穂もどちらもが、肥えたものを醜いものが、太ったものを、実の入っていないものを飲み込むのです。

 この夢を解き明かすために、忘れられた者が思い出されるのです。ヨセフです。聖書は「給仕役の長」を用いて、ファラオも「エプト中の魔術師と賢者をすべて」(8)も、何もできない中で、ヨセフならできるというのです。つまり、この世の力の限界を示し、それ以上の方としての神様を指し示していくのです。

 エジプト41:15-16

 ファラオはヨセフに言った。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

 

 ヨセフは「神が告げられる」と言います。ヨセフの立場は一貫して神様を中心としているのです。このあと、25節「神がこれからなさろうとしていることを」、28節「神がこれからなさろうとしていることを」32節、「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」と、ヨセフの立場は神様を中心として変わることがありません。ヨセフは夢が示す現象、「肥えた雌牛」、「やせた雌牛」、「醜い雌牛」また、「実った穂」、「やせた穂」、それらが「飲み込む」という現象だけに注目するのではなく、中心にある神様を見たのです。これはヨセフの才能ではなく、ヨセフの信仰と言えるのではないでしょうか。目の前にある現象だけにとらわれるのではなく、その事柄を通して教えられる神様の御心を見た。そこには必ず神様の示される道筋があると信じたのです。

 

3 人間の備え 

 ヨセフの夢の解き明かしは、神様のご計画が人間の思いを越えてあることを示します。しかしだからといって、人間の計画、備えが無意味であると言っているのではないのです。夢から示されることは、「7年の豊作ののちに7年の飢饉がある。だからこの飢饉に備えることが必要なのである」ということです。ヨセフは33節からは、何をすべきかを知らせます。

 ヨセフの解き明かしは、神様の力を示すだけではなく、だからこそ私たちが備えるべきこと、今、すべきことを見るのです。矛盾しているようですが、矛盾ではなく、これが神様を信じること、自分の弱さを知り、そのうえで神様により頼み、本当の希望をみることなのです。神様の計画に応答した生き方です。

 人間は未来に対して限界をもちます。しかし無力ではないのです。神様に与えられた知恵があり、神様に示された道が開かれているのです。わたしたちは計り知れない神様の力を知ったうえで、私たちがするべきことを見つけていくのです。

 イエス様はこのように祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)わたしたちは願いをもち、希望をもちます。そしてそのために計画を作り、備えるのです。そしてそのうえで、「御心のままに」と祈るのです。

 

4 神様の計画に応答する

 ヨセフが教えた具体的提案は33節からです。

 「このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。」(33-36)

 

 これは夢解釈を越えた進言です。ヨセフの政治的能力を表します。また「聡明で知恵ある人物」とは人間的知恵者ではなく、神様の計画に応答することができる者、神様を恐れる者を示しているのでしょう。

 神様は夢・未来を示されました。そして私たち人間は、この神様の夢、計画に対応していくのです。神様の計画に対応する人間がいなければ、神様の考え、未来は現実に造られていかないのです。その中心に人間イエス・キリストがおられるのです。神様の救いは、人間であるイエス・キリストが神様の御心に応答することによって実現されていきました。キリストは十字架で死に、復活されたのです。これが、神様が私たちに示された最大の夢・希望です。人間が救い出されるために、イエス・キリストは神様のご計画に応答されたのです。

 私たちは、神様の夢を実現するために働くのです。イエス・キリストを頭として神様につながる教会、信仰共同体です。いつも神様の御心を求めつつ、神様の希望と未来を信じていきましょう。