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2016.2.14 「離れていく者を離されない方」(要約) マルコによる福音書14:27-31

1:  つまずき

 ペトロは「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29)と言いました。ペトロが信じていたのは自分自身の強い思いです。ペトロの心にはすでに「つまずいた心」であったのかもしれません。「つまずき」という言葉には「罠にかかる」という意味があります。ペトロは罠にかかっていたのです。それは、自分の力、自分の強さを信じるという罠です。

 

2:  つまずきからの解放

 この世には、神様から私たちを引き離そうとする罠がたくさんあります。そして、だからこそイエス・キリストは「打たれた」のです。イエス・キリストは、神様に打たれたのです。十字架の上で死なれたのです。

 しかし、イエス様の十字架は終わりではない。新しく命を芽生えさせるための死なのです。キリストは復活されます。この復活は死があってなされた出来事です。わたしたちはつまずきます。しかしそこで終わりではないのです。

 

3:  新しく立ち上がる

 ペトロはイエス様が捕えられ、十字架の道をたどる中、イエス様を「知らない」「関係ない」と言い、最後には「誓って、知らない」と言うのです。「知らない」という言葉は、「関係がない」、自分と関係を持つ人ではないということです。ペトロは、イエス様とは関係がない、関係など必要ない、無関係だと言ったのです。ペトロは確かに、自分の思いに頼るという誘惑に陥っていたのです。誘惑に陥って、神様から離れた者となったのです。

 しかし、そこからペトロは新しく立ち上がります。どれほど自分が離れても、イエス・キリストは離されてはいない。どれほど差し出された手を振り払っても、その手は何度でも差し出される。その愛のうちにペトロは新しく立ち上がったのです。

 

4:  主イエスの愛のみによる関係

 神様は私たち一人一人の心の扉を叩かれているのです。キリストが私たちを離すことはないのです。十字架によって打たれた方、そして復活によって、私たちの命の先頭を歩まれる方が、私たちの心をとらえていてくださるのです。私たちが神様から離れようと思っても、逃げ出そうと思っても、どこまでも神様の手は、私たちをとらえておられる。神様の愛は私たちを離すことはないのです。私たちは閉ざした心を開き、そこから一歩進みだすことによって神様に出会っていきたいと思います。私たちは神様に手を差しだし、新しい道に進んでいきたいと思います。