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2016.3.30 「神の憐みに委ねる」 創世記43:1-15a

1 飢饉の中で

 ヤコブの子ども、兄弟たちはエジプトから帰ってきました。その時は少しの食料をもらって帰ってきたのです。しかしその食料がいつまでももつわけではありませんでした。ヤコブ一家はエジプトから持ち帰った食料を食べ尽くしてしまいました。ヤコブは言いました。「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。」(2)

 このときに、ヤコブの中にシメオンの名前は出てきませんでした。すでにシメオンはエジプトに置いてこられています。しかしそんなシメオンを救いだすとか、シメオンのためなどではなく、ここでは、食料のためにエジプトに行くことを命令するのです。父ヤコブは、ヨセフとベニヤミンというラケルの子どもに対して愛を表しますが、それ以外の子どもたちには、それほどの愛を示さないのです。ヤコブにとって大切なのは、子どもたちよりも食料であり、つまり自分自身のことなのです。自分たちの食料が尽きてしまった。その現実によって、ヤコブはエジプトに行かせようとしたのです。

 

2 ユダの回答

 このヤコブの言葉にユダは答えます。

 「あの人は、『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、厳しく我々に言い渡したのです。もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません。『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、あの人が我々に言ったのですから。」(3-5)

 ユダの言葉は、ヤコブに以前の問題を思い起こさせます。エジプトに行き、食料を買ってくるためには、ベニヤミンを連れて行かなければならないという問題です。つまり、ユダは「ベニヤミンが一緒でなければ、行きません」と言っているのです。ユダはエジプトに行き、食料をかってくるためには、ベニヤミンを連れて行く必要があること、そして現在シメオンが捕えられていることを思い出させるのです。目の前にある飢饉による貧困という現実から回復するためには、ただ食料のあるところに買いにいけばよいのではなく、そこには大きな困難、試練があるということです。

 

3 ヤコブの思い

 ヤコブは「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」(6)と言いました。目の前にある飢饉という困難からの回復のためには、ベニヤミンを連れて行かなければならないのです。ヤコブにとっては、それは大きな試練でした。すでにヤコブはこのようにも言っています。

 「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」(42:38)愛する妻ラケルの子どもは、ヨセフが死に、残っているのはベニヤミンだけでした。そのベニヤミンを失うわけにはいかないのです。ベニヤミンを手から離すのは、ヤコブにとって大きな決断となったのです。

 

4 ヤコブの決断

 「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(14)

 ユダがヤコブを説得します。そしてヤコブは決断していくのです。ヤコブの決断はユダの説得によるものというよりは、ここに語られる「全能の神の憐れみ」を信じたことによる決断でしょう。確かにユダがヤコブの説得をしました。しかし、このユダの説得は、ヤコブの決断を促すためというよりは、この後のヨセフとのやりとりのための説得であるとみることができます。ヤコブの決心は、神様に対する信仰によるものではないでしょうか。ヤコブは神様に委ねたのです。ヤコブは「シメオンとベニヤミンが返されるように。そしてどうしても失わなければならないのなら失ってもよい」と言います。

 この決断は、イエス様のゲッセマネでの祈りを思い出させます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)イエス様の祈り「御心に適うことが行われますように。」という言葉は、「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」というヤコブの言葉につながります。この祈りは、まさにすべてを神様に委ね、神様の御心による道を進む決心を表しています。どちらも、自らの命と愛する子どもの命と、つまり、大切な命、二度と戻ってくることのない命を神様に委ねた言葉でした。これがヤコブの決断です。

 目の前の飢饉、そして子どものユダの説得がありました。どのように進めばよいのか、悩み、考え、答えを出すことができない中で、ヤコブは全能者である神様にもう一度目を向けるのです。なによりも、神様に立ち返ったのです。

 

5 神の憐れみ

 このあとヤコブは神様の憐れみのうちにベニヤミンだけではなく、ヨセフに出会っていきました。ヤコブは神様の憐れみを受けていったのです。神様はヤコブを憐れまれたのです。神様は私たちに憐れみを示されました。イエス・キリストがこの世にこられたこと、そして私たちと同じだけの痛みを知ってくださったこと、そして私たちと共に歩む方となられたこと。それらによって、神様は私たちに憐れみを現されたのです。神様の憐れみとは、私たちのところにきてくださり、私たちの心を知ってくださることから始まります。神様は私たちを深い愛で赦されているのです。私たちはこの神様の憐れみを知り、神様に委ねていきたいと思います。