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2016.5.15 「一つの命の大切さ」 (全文) ルカによる福音書15:1-7

1:  イエス様の熱心な愛

 今日の聖書では、イエス様が一つの譬え話しをされました。

 羊飼いが、野原で100匹の羊を飼っていました。あるとき、羊飼いが、この大切な羊の数を数えてみますと、99匹しかいないのです。何度数えても、1匹足りない、1匹いなくなってしまったのです。羊飼いは、あわてて見失った1匹の羊を探しに行きます。99匹は野原に置いたまま、羊飼いは見失った羊を見つけ出すまで、あきらめずに、探しりました。そして羊飼いは、その1匹の羊を見つけ出したのです。羊飼いは、喜び、羊を抱き上げ家に帰りました。そして、その喜びを友達や近所の人たちと、分かち合ったというのです。

 これはイエス様が話された、たとえ話です。ここで語られている、羊飼いとは、私たちの主イエス・キリストのことです。そして、ここで語られた100匹の羊は、神様の子どもとされる、私たち人間、一人一人のことです。迷い出てしまった1匹の羊は、私たち一人ひとりを意味しています。ここで語られている迷い出て行った1匹の羊は、どこかの誰かということではなく、わたしたちが、迷い、いなくなってしまった羊で、そしてそれは、羊飼いであるイエス様がどこまでも、いつまでもあきらめずに、見つけ出した羊なのです。

 

 わたしたちのこの時代、羊はそれほど身近な動物ではないかもしれませんが、当時のイスラエルにおいて、羊というものは、非常に大切な家畜でありました。羊という動物は、とても視野が狭い動物なのです。そのために、草を食べるにも、下を向いて、目の前の草を食べるのです。またそれに比べますと、ヤギというのは、高いところにたって、遠くを見渡し、自分で良い草のあるところを探すこともできるのです。羊は、視野が狭い分、一度迷ったら、自力で帰ることが難しい動物です。そのような意味で、私たちは本当に羊に良く似ているのではないでしょうか。自分の目の前しか見えていない。今を生きることで精一杯。それが人間です。

 たまにはヤギのように、人生を少し、高いところから見渡してみて、自分のいる場所を確かめたり、自分の進むべき方向性を見極めることができれば・・・と思いますが、それがなかなかできないものです。

 羊飼いである、イエス・キリストは一生懸命に迷い出た羊、つまり迷い出て行った私たちを、一生懸命、探し歩いてくださいます。つまり、羊飼いであるイエス・キリストは、必ず、私たちを探し、見つけてくださるのです。神様にとっての、人間一人ひとりの存在の大切さを教えているのです。

 

2:  罪びとを迎えられた

 イエス様が、この譬え話を話されたのには、1つの背景がありました。今日の箇所の1~3節に、このように記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した。」(ルカによる福音書15:1-3)

 徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうと近寄ってきたのです。イエス様の譬えは、この徴税人と罪人を迎えいれることに、不満を言う、ファリサイ派、律法学者の人々に向けて語られたのです。徴税人とは、税金を取り立てる人々です。しかも当時、ユダヤの民は、ローマ帝国に支配されていた状態ですので、ローマから課せられた税金を取り立てる人々です。徴税人とはユダヤ人でありながらも、ローマ帝国の手先となって、税金を取り立てていた人々なのです。ローマの手先とされる徴税人は、もちろんユダヤ人からは嫌われていました。自分たちを支配し、重い税金を勝手に課する、そんな、ローマ帝国の言いなりになっている。ユダヤを捨てたと思われても仕方がない。そのような立場の徴税人とは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人に嫌われていました。そして、だからといってローマ人に好かれ、受け入れられていたのでもなく、ローマ人にもさげすまれていた。つまり、誰にも受け入れてもらえることのない存在であったのです。

 イエス様が一緒に食事をされた徴税人や、罪人。それは、ユダヤ人であって、ユダヤ人ではない。ユダヤ人の社会から嫌われて、追い出され、見捨てられた人々でありました。つまり孤独の中を歩く人々です。イエス様は、そのような人々が近寄ってくることを受け入れられたのです。決して差別をされなかった。むしろ、そのような人々にこそ、しっかりと目を向けられたのです。

 イエス様は、どのような人にも、分け隔てすることなく、神様の恵みを、その愛を伝えられたのです。

 

 このイエス様の態度に対して、ユダヤの社会において権威をもつ人々、ファリサイ派の人々や、律法学者たちは、このことを快くは思っていなかったのです。ファリサイ派、そして律法学者というのは、徹底して律法を守り、実践していた人々です。またそのことによって人々から尊敬されていた人々でありました。そのために、イエス様が罪人たちと、分け隔てなく、付き合っているということは受け入れがたい出来事でもあったのです。このような人々、ファリサイ派、律法学者の人々に対して、イエス様は今日のたとえ話、「見失った羊」の譬え話を語られたのであります。

 イエス様は、このたとえを通して、神様の愛には分け隔てがないこと、むしろ迷いだし、歩き出す道、その方向すら見失った者をこそ助け出してくださること、神様はそれほどに、人間一人ひとりを愛されていることを教えらえたのです。

 

3:  一つの命を忘れられない方

 イエス様は、この譬えの中で、「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4)と語られました。迷いだした1匹を探しに行く羊飼いの姿。1匹を大切し、愛される姿を受け入れられない方はあまりいないでしょう。しかし、この話の「99匹を残して」、という言葉は理解できないという方はおられるのではないでしょうか。

 イエス様は、「99匹を野原に残して」と言われます。羊飼いである主イエス・キリストは、1匹を探しに行かれます。「99匹を残して」。この言葉は、その緊張感のあるなかで、それほどに1匹の羊の命が、なにものにも替えがたい命であるということを表しているのです。それは、99匹がどうでもいいと、言っておられるのではないのでしょう。

 100匹のすべての羊、その1匹1匹が尊い価値をもっている。神様は、その1匹も失うことができないのです。だからこそ、たとえただの1匹でさえも、探しに行かれるのです。神様は、探して見つけ出される。その時に、野原に残した99匹の中の1匹一匹も、同様の大切さを感じ、それでも迷い出た1匹を探さないわけにはいなかい。それが神様の愛です。

 この話を、皆さんはどのような立場で聞いているでしょうか。この話を聞いていたファリサイ派の人々、そして律法学者は、自分を1匹の迷い出た羊として感じていたのではなく、むしろ自分は99匹のほうだと考えて聞いていたのでしょう。今日は家族礼拝ですので、幼稚園の保護者の方も出席されている礼拝です。保護者という立場、子どもと親という関係性の中であれば、自分は羊の99匹でも迷い出た1匹でもなく、自分は羊飼いであると考えられるかもしれません。保護者の皆さんが、自分が羊飼いであると考えれば、1匹を大切にされる神様の愛を理解できると思います。一人ひとりが大切な命、尊い存在である。数で考えて、99匹のためだからといって、一つの命を見捨てることなどはできない。この価値観を理解できるのではないでしょうか。

 

 特に、自分の愛する子どもと向き合う時に、その命の尊さを、その一つの命の大切さを、よくよく感じておられると思います。羊飼いが一匹を大切にする大きな愛を感じることができるのではないでしょうか。

 しかしまた、自分が羊飼いであると考えるということは、神様の愛の大きさを感じることはできても、実際に子どもと自分という関係性では、自分がそのような大きな愛を注ぐ者、神様の立場であると考えるのです。私にも子どもが2人いますが、子どもといるときには、迷いだすのは子どもたちで、自分は迷っていない、自分は羊飼いであると感じるものです。親であるわたしが迷いっていてどうするのだろうか。迷ってはいけない。そして迷いだす羊にはどこまでも愛を注ぎ続けなければならないと、肩に力が入りすぎていることもあるのです。

 

 今日の箇所では、あくまでも、羊飼いはイエス・キリストであり、私たちはだれもが迷い出た一匹の羊だと教えているのです。見失った羊の譬えでは、イエス様が、私たち一人一人を、数では、計れない、かけがえのない存在として、愛してくださっていること、愛を注ぎ続けてくださっていることを教えているのです。神様が、私たちを愛してくださっている。私たちが自分で子どもを愛さなければ・・・という思いは大切な思いですが、その思いが強くなりすぎて、心の底から湧き出るような愛が枯れ果ててしまうこともあるのではないでしょうか。

 わたしたちは人間。愛されていることを知らなくて、愛することを続けることはできないのです。そのような私たちに、今日の聖書は、イエス・キリストが、私たちを、愛してくださっていると語っている。大人も子どもも、関係なく、私たちは、神様の愛によって支えられているのです。 わたしたちは、だれもが迷い出ていく羊なのです。そしてだれもが愛されている存在なのです。そこには律法学者と罪びと、また子どもと大人という隔てはありません。

 神様は私たち一人ひとりを大切な存在として愛してくださっているのです。

 

4:  真の羊飼い

 神様の愛を知る時に、私たちは、子どもに対して、こどもと大人、保護する者と保護される者という立場だけではなく、どちらも同じように、弱さを持ち、またそれでも大切にされている、尊い存在であるということを覚えたいと思います。

 尽きることのない愛をもつのは、神様のみです。私たちは、まずこの神様の愛の存在に立ち返りたいと思うのです。神様の前では、私たちも小さく、弱い者。それでも大切で、尊い存在であるのです。 そしてそれは、私たちが子どもの前にあって、一番陥りやすい「傲慢」という間違えに気付かせてくれるのです。子どもと自分の言葉、子どもと自分の倫理観、子どもと保護者としての私たちの正しさ、それは絶対に自分にあると考えてしまう間違えです。

 私たちは、子どもの言葉を、一つの人格ある者の大切な一言と聞くことができているでしょうか。 神様は、どちらも大切な一つの言葉として聞いておられるのです。イエス・キリストは、私たちを探し、見つけ出してくださる羊飼いであります。この羊飼いである、イエス・キリストによって、私たちは尽きることのない、愛を知るのです。

 そして、私たちは、このイエス・キリストによって、すでに、見出されているのであります。だからこそ、私たちは、そのイエス・キリストによる恵みを受け取って、歩んでいきたいと思います。そして、イエス・キリストに歩む道を委ねて、主と共に歩んでいく者とされたいと思います。