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2016.7.3 「生きるものさし」 (要約) ガラテヤの信徒への手紙2:15-21

1:  礼拝に行くこと

 最近ふと礼拝に来て得ようとしているものは何なのだろうという疑問が頭に浮かびました。教会に来ること、礼拝することは何のためなのだろうか。私たちは、ときには立ち止まって、神様を礼拝するとはどのようなことなのかを考える必要があるのかもしれません。そのような時には「教会の礼拝に出席しつづける」ことをお勧めします。

 礼拝は、神様の揺るがない愛を知るための場所です。神様の愛に触れる場所です。神様がわからなくなった時にこそ、礼拝に出席する必要があるのではないでしょうか。神様の愛を思い出すためにも、礼拝し続けることをお勧めします。

 

2:  愛されている者

 礼拝すること。その恵みの一つは、新しい生き方「愛されている者として生きる」という生き方をいただくことではないでしょうか。別の言葉で言えば、「生きるものさし」をいただくということです。礼拝に来ることによって「愛されている」ということ、そして「愛された者として生きる生き方」「生きるものさし」をいただくのです。

 聖書は「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と教えます。「律法の実行」とは、人間的なものさしで生きるということです。それは、自分が愛される者となるための生き方、ものさしです。

 

3:  キリストを迎え入れる

 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2:19-20)「イエス・キリストを信じるということ」。それは「生きるものさし」が自分ではなく、イエス・キリストになったということです。私たちは、愛されるために何かをするのではなく、すでにイエス・キリストによって愛されている者として生き始めるのです。それが、イエス・キリストを信じるということです。

 

4:  愛の実践

 私たちは神の愛に対する応答として、何ができるか考えましょう。他者を愛するために、何をすべきか、何ができるか。私たちには何ができるでしょうか。愛された者として生きることは、喜びであり、しかしまた同時に痛みを伴う道でもあるでしょう。愛しあうとは正しい関係をつなぐことです。それは神様がイエス・キリストの十字架によって示された道です。そこには、耐え難い痛みがあり、苦しみがあったのです。私たちは「十字架のキリスト」に愛された者として、何をすることができるのでしょうか。

 私たちは、礼拝と祈りを通して、神様の前に立ち、歩くべき道を問い続けていきたいと思います。そして、それが時に痛みを伴う道でも、主に従い歩んでいきたいと思います。