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2016.8.10 「ヨセフの政策」 創世記47:13-26

1 ヨセフの政策

 今日の箇所は、これまでのヨセフ物語にある、ヨセフとその家族の間に起こった神様の導きという話から少し離れた話となっています。離れたというよりも、これまであった状況へと引き戻すものであると言えるのでしょう。もともと、話は世界が大飢饉に襲われていくところから進んでいました。大豊作のあと、大飢饉が起こり、そのことをヨセフはファラオの夢からときあかし、そのための蓄えを、整えていたのです。

 ここでは、ヨセフと家族の話から、ヨセフの知恵と政治的手腕を表すものへと移行しています。

 飢饉の中、世界中に食糧がなくなっていきます。まず言葉として「エジプトの国とカナン地方」とありますが・・・ここで「カナン地方」と記されていることは、「エジプトの国と、ヤコブたち」という特に、すでにエジプトに来ていたヤコブたちを限定する意味する言葉ではなく、特別な意味を込めて「カナン地方」と言われているとは考えないのです。むしろ、このときもヤコブたちは優遇されていたと考えるのでしょう。ただ、一つの意味として、この後「出エジプト」に向けた準備の言葉として、「イスラエル」「その民も含まれて」という意味を込めたとも考えられます。

 すでに世界中は貧困に陥っていました。世界は、食糧を求めてファラオのもとにやってきていました。食料は、エジプトのファラオのもとにある食料のみとなったのです。そのなかで、ヨセフの政策として、最初は銀によって、次に、家畜によって、そして最後には体と農地によって食料を提供していきます。人々は、「生きるため」に銀を支払い、そして家畜を差し出し、最後には、農地を売り払い、自分たち自身をもファラオのものとなっていったのです。

 ヨセフは食料を提供することによって、その命を提供させたのです。

 

2 背景

 少し内容の背景を見たいと思いますが・・・この箇所が記された時代、イスラエルの人々はどこまでエジプトの人々の生活を知っていたのでしょうか。

 「ヨセフはこのように、収穫の五分の一をファラオに納めることを、エジプトの農業の定めとした。それは今日まで続いている。ただし、祭司の農地だけはファラオのものにならなかった。」(47:26)

 「今日まで続いている」(26)とあるように、この箇所が記された、当時のイスラエルでは、エジプト、ファラオのもとにあってエジプトの人々は農奴として働いていたと知っていたと考えられます。確かにイスラエルの人々が羊飼い、遊牧民として生きていたことに対して、エジプトの人々は畑仕事によって生きていました。そのことはある意味、常識的なことだったのでしょう。しかし、イスラエルの人々は、このエジプトの生活までもヨセフが作りだしたとは考えていなかったでしょう。ここの記事では、まるでヨセフがエジプト、ファラオの力を絶対的にしたように言っているのです。しかしだからといって、この記事に記されているように、ここでのヨセフの政策が、エジプトがファラオを最高地位におき、そこから生まれる支配権のもとで、農奴になっていったと、ヨセフの政策で、実際にエジプトの人々が農奴となっていたと考えていたのではないのでしょう。ただイスラエルでは、単純に、エジプトといえば、畑仕事をする農奴と理解していたのでしょう。

 ここではヨセフまでさかのぼり、ヨセフによってエジプトの人々はファラオのもとにくだり、ファラオの権力に従う者となっていったとされていますが、このことがすべて真実であった、実際にヨセフの政策がエジプトの絶対王権を作りだしたとは考えにくいのです。ヨセフが奴隷制度を作り、土地を持たない者としてエジプト人がファラオに仕え、すべてはファラオのものとして仕えていった。このことはヨセフによって始まったということを考えることは、少し無理な話の理解の仕方でしょう。

 ここで語られていることは、ヨセフの知恵を裏付けするもので、ヨセフが人々をファラオに従うものとしたかどうか、それが真実であるかどうかではなく、この農奴としての政策が記されていることによって、ヨセフの知恵と、政治的力の表しているのです。イスラエルの民が、この箇所を読むときに、ヨセフの政治力を知ることになったのでしょう。

 

3 抑圧する力

 今日の箇所の最大の出来事として、エジプトにおいて人々が、自分の持ち物すべて、自分自身をもファラオのものとして差し出したという出来事があります。

 エジプト人は、食料を求め、与えられることで、ファラオの奴隷となっていきます。命を買い取られたのです。ヨセフの政策は大飢饉から人々を助けた政策と見ることもできるでしょう。しかし、むしろ大飢饉に乗じて、エジプトがその支配権を完全なものとしていったと見ることのほうが妥当なのではないでしょうか。ここで起こっていった出来事、その事実として、富める者がもっと富を得て、貧しい者がどんどんと貧しくなっていったのです。政策者としての知恵としてはすべらしい政治力を持っているヨセフかもしれませんが、その政治力によって、苦しむ者、貧しい者を作り上げていったことが記されているのです。この政治的出来事は食料の確保が搾取、抑圧へとつながっていく、迫害の原因となることを表します。人々はこのように言います。「食糧と引き換えに、わたしどもと土地を買い上げてください。わたしどもは農地とともに、ファラオの奴隷になります。種をお与えください。そうすれば、わたしどもは死なずに生きることができ、農地も荒れ果てないでしょう。」(19)

 食糧と引き換えに・・・人々は自分のすべてを手放したのです。どのように生きるか、何のために生きるのかなどとは言ってられない。人々はただ生きるための道を選びました。ここには富める者、力ある者の抑圧、迫害の姿を見ることができます。富める者は貧しい者を抑圧することができるようになるのです。権力を持つ者は、小さき者を縛り付けることができるようになる。その危険性、特に人間が生きていく中で必要とされる「衣食住」の一つ「食べる」ことを確保するため、食料の確保は、人々を抑圧することができる大きな力となることを教えます。

 今、日本では、いくらでも食べるものがあると感じます。しかし実際には、飢餓、貧困に苦しむ子どもたちがいるのです。わたしたちはそのことをきちんと覚えておく必要があるのではないでしょうか。そして、そのように動いている社会、政治、知恵が本当に神様の御心にそったものであるか、考えなくてはならないのだと感じるのです。

 

ヨセフは知恵者であり、政治力を持つ者でした。確かに、ただヨセフのための物語の一つとしてみれば、ヨセフは、人々に食料を与え、またそこからエジプトの支配権を絶対的なものにしたというすばらしい政治能力を見ることができます。しかし聖書にある「ヨセフ物語」はヨセフをたたえることを目的とはしていないはずです。ここでの、ヨセフの政治力は正しく用いられているのでしょうか。国は富み、人々はエジプトに仕える者、奴隷となっていったのです。ヨセフは確かにすばらしい能力をもっていたのかもしれませんが、その力がすべての人々を幸せにしたのかは、考えなければならないでしょう。ヨセフの能力は人々に何をもたらしたのでしょうか。

ここで語られているヨセフの政策は、レビ記25章に示される神様を中心とした「解放」を示す政策とは対照的なものです。レビ記25章では、土地も人も神のものであることを示し、だからこそ、土地と人の所有権は神にあるものとし、人間が人間を支配することはできないことを表します。「あなたの神を畏れなさい。」(43)「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(55)

これが神様の教える道です。人は人を支配することはできないし、まさ支配されるものでもない。その命、人格、尊厳は神様によって守られるべきなのです。

4 出エジプトへ

このヨセフの政策は、このあとエジプトの奴隷となっていくイスラエルの人々にとってはどのように見ることができるのでしょうか。エジプトの人々は生きるために、自ら進んで奴隷となっていくのです。制的に奴隷とされたイスラエルの人々にはどのように映ったのでしょうか。

ヨセフの生きている時代はヨセフの政治のうちにあって、ヨセフの家族、イスラエルはゴシェンの地を与えられ、身を売ることもなければ、むしろエジプトから土地の確保を認められ、優遇されます。しかし、ヨセフは死に、別の新しい王になったときに、その優遇されていた身分はなくなり、それでもその制度は残ったままとなり、そのうえで今度はイスラエルの民が奴隷とされていくのです。

この富める者がますます力をもち、貧しい者はどんどんと貧しくなっていくという社会は、一瞬に立場を逆転させていきます。富める者がその富や権力を失ったときに、すぐに貧しい者となり、そこから這い上がることはできないような社会なのです。このような貧しい者たちの上にあって一部の者が富んでいる社会は、今の私たちの時代でも変わることがないのではないでしょうか。

 

このあとイスラエルは出エジプトという出来事を通して、奴隷からの解放を与えられ、新しい命を受け取っていくのです。それは、ただ身分としての奴隷からの解放という意味だけではなく・・・ただ何も考えることなく、生きるために生きていることから、生きる意味を考えて生きる道を与えられた、のです。

なぜ生きるのか。そのようなことを考えることができる社会がどれほど恵まれたものであるのか、もう一度考えたいと思います。わたしは自分の病気のために、生きている意味をよく考えていました。「自分はなぜ生きているのか」、「こんな人生なのならば生きていたくない」と考えることもありました。しかし、自分が生きている意味を考えていることができるのは、どれほど恵まれたものであるのでしょうか。自分が何のために生きているのか、その結論は「自分のため」にという意味を中心にもってきて、結論をだすのか、それとも「神のため」に生きると決断するのか、この二通りの結論しか出てこないのではないでしょうか。だれかのためになにかをしていく、社会貢献をする。その方法は様々です。しかし、最後の結論は、「自分のため」か「神のためか」ということになっていくのではないでしょうか。

出エジプトは、なによりも「神様のため」に生きる道が開かれた時です。何のため、どのように生きるか。その答えが与えられた時です。