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2016.9.18 「信じる者となる」 (全文) マルコによる福音書16:9-13

 

皆さん、おはようございます。今日は、わたしたちにとって、この教会にとって、とてもうれしい日です。先ほど3名の子どもたちが信仰告白をしてくれました。それぞれに素直で純粋な信仰告白だったと思います。私は小学校2年生のときにバプテスマを受けましたが、そのころの自分を思い出します。神様が自分を愛してくれているということ、神様のために生きていきたいと、素直に思っていた、本当に自分が信仰をもった初めのころの純粋さを、もう一度思い起こす言葉でした。

この後バプテスマを行います。3人は神様から信仰を与えられたのです。信仰とはあくまでも神様が選び出し、与えて下さるものです。3人は、神様によって「信じる者」とされたのです。「信じない者」ではなく「信じる者」とされました。このような心の変化、価値観の逆転は、いわゆる超自然的出来事、病気の癒しや、この世の常識ではありえない出来事が起こることなどとはくらべものにならない、神様の御業としての本当の『奇跡』です。心が変えられる。これほどの奇跡があるでしょうか。

バプテスマは、人間がイエスを自らの主と告白する時です。そしてイエス・キリストによる十字架と復活を自分の救いとして信じる時です。6月から始まったバプテスマクラスの中で、子どもたちは信仰について学んできました。神様のこと、イエス様のこと、十字架のこと、復活のこと、バプテスマを受けて教会員として生活をすること、などです。先ほど行いました3人の信仰告白は、自らの言葉で、自分の感じているように、イエス様を主と告白しました。

 私たちは、この信仰告白を自分のこととして喜びたいと思います。すでにバプテスマを受け教会員となっておられる方々にとっては、神様を新たに信じる、再出発の時となるように。また、まだイエスを主と告白されていない方々にとっては、信じるということの恵みを感じてくださればと思い、願っています。

1:  付加された文章

さて、今日の箇所から共に学んでいきたいと思いますが、これまで共にマルコによる福音書から学んできました。そのマルコによる福音書にとって、今日の箇所は、少し異質なもの・・・簡単に言いますと、マルコが記したのではなく、後から付け加えられたとされる文章です。 もともとのマルコによる福音書は、16:8で終わっていたのです。この箇所はマルコが記した福音書に、後ほど付け加えられたとされるのです。

「付け加えた」と聞くと、必要のないものと考えてしまうかもしれません。しかし、あとから付け加えられたということは、それほどに当時の教会にとっては、この文章が必要であった。自分たちの信仰を守り抜くための大切な言葉であったのです。

この文章が付け加えられた一番の理由は、復活のイエスに出会い、「信じない者」が「信じる者」となっていくということの再確認のためでありました。新しい命を生き始めるということを再確認するためであったのです。

当時、教会では、キリスト教という信仰が形作られていく中で、議論を戦わせ、その信仰を分かち合っていた時代です。「分かち合っていた」と言えば聞こえはいいのですが、言い方を変えれば、お互いを非難し、どちらが正しいかを論争していた。そのために教会が分裂していくような時代だったのです。そのような中だからこそ、「信じる」とは何なのか、「信じない者」から「信じる者」へとなることはどういうことなのか、その意味を記している、今日の箇所はとても大切な記事なのです。

2:  ガリラヤへ行きなさい

今日の箇所において、イエス様は復活の主として現れます。しかし、マルコによる福音書の本文では、復活のイエス・キリストという方は、人々の前には現れていません。キリストがみんなの前に現れたのではなく、キリストにもう一度出会うために「ガリラヤに行きなさい」という言葉で終わっているのです。16章6節からの箇所では「十字架につけられたイエスはここにはおられない。あの方は復活なされた。ガリラヤへ行きなさい、そこでもう一度主イエス・キリストに出会うのです。」と語るのです。

「ガリラヤへ行きなさい」。マルコによる福音書において、イエス様は、ガリラヤから福音を宣べ伝えられました。福音の始まりの場所です。復活の主イエスに出会うこと、それは福音の初めに戻ることであると教えているのです。もう一度福音の初めに戻り、そしてそこから歩き出したイエス様の歩みを思い出すことで、もう一度「イエスを主」と告白することがどういうことであったのか、今、ここからどのように生きるべきかを問いかけているのです。

3:  信じない者から信じる者へ

今日の箇所は、私たちに、信じる者となるように招いています。イエス様に出会ったマグダラのマリア、そして、二人の弟子たち。彼らはイエス様を見たことを伝えました。しかし、十字架の時までイエス様と一緒にいた者たち、つまりイエス様の弟子たち、ここでは「泣き、悲しんでいる」者たちとありますが、そのような者はイエスの復活を信じなかったのです。信じて従ってきた方、イエス様が十字架の上で殺されるという衝撃的出来事によって、彼らは「信じない者」となっていた。その心は固く閉ざされたのです。イエス様の弟子たちは、このとき「信じない者」となっていました。イエスの死という絶望的出来事のなかで、神様を信じることができない者となっていたのです。

「心が閉ざされる」ということ。それは、本当は、自分の心の扉を、自分から閉じていった出来事なのです。困難や絶望。それがどれほど厳しい状況に陥った時でも、目の前に起こった出来事を、自分の価値観の中で、もはや絶望的で、立ち上がることはもはやできないと決めつけていくとき、それは本当の絶望となっていくでしょう。そして、それに対して、他者から見れば、どれほど苦しく、辛そうなことでも、その中心にイエス様がいてくださる、主イエスが共にいてくださるから、もう一度立ち上がることができると、その状況を受けいれるときに、そこには希望が生まれるでしょう。神様は、どのような者でも、信じる者となることを願い続けてくださっているのです。いつも、私たちに手を差し伸べてくださっているのです。私たちは、いつでも「信じる者となる」ことが赦されているのです。そのための道はいつも開かれているのです。神様を信じて、自らの心の中心に来ていただくという信仰を持つこと。それは最初にも言いましたが、まさにこの世において一番の奇跡的出来事です。価値観が逆転する時です。私たち人間が、自分を中心として生きていた者が、その人生の中心にイエス・キリストを迎えるのです。これほどの奇跡があるでしょうか。これが、私たちに与えられている「信じる」ということなのです。

4:1 派遣

最後に、今日のこの箇所の続きとして、この後15節では、復活の主イエスが「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と遣わす言葉が語られています。信じる者となる。それは、神様を見上げて、神様のために生きていく者となることです。自分だけのために生きることから、他者のために生きる者となっていくということです。

今日、3名の者が主と共に生きる決心をしました。これから3人のバプテスマを行います。ここに奇跡が起こされたのです。私たちは、今、この場に集められた者として、共に主の恵みを受け取りましょう。そして、この場に集まった者として、3名の者がこれからずっと主イエス・キリストと共に歩み続けることができるように、イエス・キリストが共にいてくださることを忘れないように、祈り続けていきましょう。神様は、私たちを信じてくださっています。私たちは、この主に遣わされた者として生きていきましょう。そして、私たちも新しく神様のために歩み出しましょう。