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2016.9.25 「救いの喜びを宣べ伝えよ」 (全文) マルコによる福音書16:14-20

 今日は、召天者追悼記念礼拝です。神様は、御心のうちに、一人一人の命を創造し、そしていつの日か、その命を御許に召されます。それが神様の御業です。神様は人間を愛の御業として造られました。そしてその愛の使命を果たし、完全な愛で包みこむときに、人間の命を召されるのでしょう。今日はマルコによる福音書から一緒に神様の御言葉を受け取っていきたいと思います。

 

1:  かたくなな心

 今日の箇所は、復活されたイエス様の出来事です。主イエスは十字架にかかり復活されたのです。しかし、イエス様が復活なされたことを弟子たちは信じませんでした。14節には、「十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(14)ともあります。弟子たちは、イエス様を見た人々の言うことを信じませんでした。

 このことはこのマルコによる福音書の16章9節からの場面によって記されています。

 「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」(9-11)

 「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」(12-13)弟子たちはイエス様が復活されたということを何度も聞いていました。しかし、その言葉を信じることはなかったのです。

 今日の箇所も含め、先ほど読みました、9節からの言葉は、もともとこのマルコによる福音書にあった言葉ではなかったと考えられています。マルコ自身が記したものではないということです。そして付け加えられたからこそ意味がある。この箇所は必要だと考えられ、これらの言葉を付け加えたのです。わざわざ付け加えた言葉、この箇所において、強く教えられている一つのことに、「信じなかった弟子たちの姿」が記されています。弟子たちはイエス・キリストの復活を信じなかったのです。これが付け加えてでも伝えたかった出来事の一つなのでしょう。 ここにあるのは、復活を信じない弟子たちの姿、「かたくなな心」を持つ弟子たちの姿が記されているのです。

 

 今日は、召天者追悼記念礼拝です。すでに神様の愛の御許に召された信仰の先達を覚える時です。その信仰を思い起こす時に、私たちは、何を覚えるのでしょうか。ただ、何も考えずに主イエスを信じた、ある意味、それが一番人間として、素直な信仰かもしれません。しかし、ほとんどの人間は、それほど心が神様につながることに素直ではない。そして素直になれない状況に生きているのです。私たちの信仰の先輩もまた、今日の箇所に表される弟子たちのように、神を疑い、苦しみ、離れ、それでもつながっていった信仰の戦いの日々を歩んでいたのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙ではこのように記されています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

 信仰は、その御言葉を聞くことから始まります。神様の御言葉、その十字架と復活の出来事を聞くことが信仰の始まりだというのです。主の愛のもとにすでに神の御許に召された、信仰の先輩方も、神様の御言葉を聞いたのです。それは、素直になれない中、苦しみ、痛み、悲しみの中にあって、「かたくなな心」となるなかにあって、それでも主の御言葉を聞いたのです。「かたくなになる自分の心」を開いて、主の御言葉に耳を傾け、そしてその招きに応えて、歩き出したのです。これこそが信仰なのです。「イエス・キリストは復活された。」この証言を「聞いて、信じる」という信仰です。信仰の先輩方は、神様の御言葉を聞き、そこに信仰を受けていったのでしょう。そして、今、私たちがここに集まることができているのは、その先輩たちの信仰による、神様の福音を聞いたからです。信仰の言葉、「イエス・キリストは十字架において、私たちのために死に、そして復活された」という言葉を私たちは聞いたのです。その先輩たちの信仰の言葉を聞くことによって、私たちは信仰を受けているのです。

 

2:  神の招き

 「頑なな心」「閉ざされた心」が開かれた者に向かってイエス様はこのように言われます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(15-16)

 復活の主イエス・キリストは、全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と教えるのです。先ほどまで、かたくなになり、心を閉ざしていた者に対して、御言葉を宣べ伝えなさいと教えるのです。これがイエス・キリストの宣教命令です。「聞いて、信じなさい」と言われた方は、続けて「語り伝えよ」と勧められるのです。わたしたちが聞いたのは、「イエス・キリストの十字架の贖いによって救い出されたという」喜びの知らせを聞いたのです。主なる方は、「この喜びを宣べ伝えよ!!」と教えられているのです。

 

3:  しるし

 そして、イエス様はこの言葉を聞いて、信じる者には、しるしが伴うと教えます。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(17-18)

 ここで語られていることを、字面だけを読んで、そのまま受け入れるものだとすれば、それはどれほどの意味があるのでしょうか。「悪霊を追い出し」「手で蛇をつかみ」「毒を飲んでも害を受けず」「病人に手を置けば治る」。このようなしるしが起こされることにどれほどの意味があるのでしょうか。確かに「病人に手を置けば治る」のだとすれば、それはうれしいことです。日本人は、時に神様を求めて祈ります。それは「ご利益」を求め祈る、祈りです。病気からの快復、また、受験で合格すること、災いが来ないことなど・・・さまざまなことを願うのです。そのこと自体が悪いことではないでしょう。

 わたしたちは病気になれば、回復を願います。悲しいときは、その思いからの解放を願うでしょう。 しかしここで記されているしるしの意味は、もっともっと深く、大切なものなのです。「悪霊を追い出し」「手で蛇をつかみ」「毒を飲んでも害を受けず」「病人に手を置けば治る」それは、それぞれの形に違いがあっても基本的には同じこと、「主の御言葉を信じ続ける」ということなのです。「悪霊」という、私たちを神様から離そうとする力を追い出し、守られること。「蛇」と言えば創世記に出てきます誘惑の象徴ですので、そのような誘惑に陥らず、守られるということ。そして、「病人の回復」は、イエス・キリストが弟子たちと共になされてきた、信仰の御業です。そこにはイエス・キリストが共に働いていてくださるということです。

 つまり、これらのしるしが教えることは、私たちが人生で足を踏み外す時、迷い出してしまう時に、主イエスは、そのような時にあっても共にいてくださり、守っていてくださるというのです。私たちがその御言葉を聞き、信じる時に、わたしたちは、どれほどの困難の中で、迷い、道を見失っても、それでも、主イエス・キリストの御言葉によって守られるのです。主イエス・キリストが共にいて、守り、その道を導いてくださるのです。

 私たちに与えられているしるし。それは信じた者は、神の御手によって掴まえられており、どれほど、私たちが逃げ出そうとしても、神様は、その手をつかんでくださっているということ。私たちは、どのような時も愛に包まれているということを教えるのです。

 

4:  出かけていく

 今日の箇所、最後にはこのように記されています。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」

 主イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれたのです。私たちのために、十字架に架けられた方、そして復活のうちに、新しい命を示された方が、今、神の右の座に着かれているのです。同時に、弟子たちはこの主の福音を宣べ伝えるために出かけていきます。ここに主が共に働かれているのです。天に上げられた主イエス・キリスト。その方が、共におられるのです。

 主イエスは、その福音を伝える者と共におられるのです。今年度のバプテスト東福岡教会の標語は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という言葉です。主は確かに、私たちが語る福音のうち、つまり教会にいてくださいます。わたしたちはこのキリストの体としての教会、信仰共同体として歩んでいきたいと思います。すでに主の御許に召された方々が、伝え続けた福音。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を語る言葉。その信仰によって、この教会は打ち立てられてきたのです。それは今も変わることはありません。わたしたちもただ主の福音を宣べ伝えるために、ここに集められているのです。神の御言葉を「聞いて、信じ、そして宣べ伝える」ことによって教会は、イエス・キリストの体としてあるのです。私たちは、今、主イエスの御言葉にもう一度耳を傾けましょう。そして信仰をもって心を開き、受け取っていきたいと思うのです。そして、その喜び、恵みの出来事を宣べ伝える者として、生きていきたいと思うのです。(笠井元)