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2016.10.9 「神のかたちとしての人間:関係に生きる」 (全文) 創世記1:25-31

 創世記の1章から3章に関して9回目の説教です。これで最後にしたいと思いますが、テーマは人間とは一体何者であるのか、私とは誰なのかということです。人と話をしていると神のことは良く分からないけれど、人間のこと、自分のことは良く分かっていると言う方がいますが、そうでしょうか?自分で自分のことが一番良く分かっているという面がないわけではありませんが、自分のことを最も分かっていないのは自分であるとも言えないでしょうか。ラインホルト・ニーバーは有名な『人間の本質と運命』という本の第一行目に、「人間はいつも人間自身にとって最も厄介な問題である。人は自分自身のことをどのように考えるべきだろうか」と語っています。職場や家庭や、そして、教会においてさえ、「人間関係」が一番煩わしいし、悩ましいのです。一体、私たちは、自分のことを、あの人のことをどのように考えたらよいのでしょうか? 創世記1:27では「人は神にかたどって創造された」と言われています。「神のかたちとしての人間」とはどのような意味なのでしょう。

 

1.神の「われわれ」

 神は天地万物の創造の6日目に特別に人間を創造されたといいます。創世記は、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたと言います。人は神の特別の決意において創造されているのですが、まず、悩ましいのは、唯一の神を信じているにも関わらず、「われわれ」という言葉が登場することです。これは古い、多神教の名残であるとも理解できます。あるいは、権威を表す「われわれ」なんだと考える人もいます。昔全共闘と呼ばれる学生運動の中で、「われわれは!」と叫び声を張り上げている学生を経験していますが、「おいおい勝手に『われわれ』と言うなよ。俺は俺だよ」と言いたい気分でした。自分の意見を多くの人が共有してくれているという意味で、私たちは「われわれ」という言葉を用います。あるいは、天には天使たちの相談会議があり、神は天使たちと話し合いながら行動されるのだという解釈もあります。いずれにせよ、神は宇宙のかなたにぽつんと孤立して存在するのではなく、ご自身の中に「交わり」というか、「関係」というか、愛の出来事と言うか、「われわれ」ともいうべきものを持っておられるというイメージは素晴らしいと思います。後にキリスト教会において発展する父とみ子と聖霊の3つのかたちにおける交わりの神を先取りしているものであると言ってよいのかも知れません。神は孤立、孤独の神ではなる、ご自身の中ですでに、「交わり」、「関係」、「愛の出来事」なのです。

 

2.神の「かたち」としての人間

 神は他の被造物とは違って、特別に、第6日目に人間を「神にかたどり、神に似せて」創造されました。他の被造物と違って、人を人間としているものとして、人間の理性や知性、言葉によるコミュニケーションなどが神のかたち、似姿であると解釈されてきました。あるいは、直立歩行の二本足で歩くこの姿が、神の姿であると考える人もいます。しかし、現在では、神の語り掛けに応答する応答責任性、「関係に生きる」本質と性格が神のかたちであり、神の似姿であると考える人が多くなり、私もそう考えています。聖書は、「神にかたどって創造された。(つまり、)男と女に創造された」とあるように、典型的には男と女、本質的には、他者との関係性に生きることが「神のかたち」であるのです。現代ドイツのユンゲルという神学者は、人が「人格」(person)であることが「神のかたち」であると言います。人はオギャーと生まれて、人との関係の中で「人間」(人と人との間に生きる)、「人格」に成長していくのです。そして、ユンゲルは、人間は自分自身との関係において、他者、世界との関係において、そして、神との関係において、この3つの関係性において「人格」なのであると言います。

 

3.自分との関係に生きる

 このユンゲルの論文を読んでいて、人は「自分自身との関係」に生きるということは、ちょっと耳慣れないことでした。他者・世界との関係、神との関係は分かるのですが、自分自身との関係ってなんなのでしょうか? 人は神のかたちとして「人格」として創造されているので、人の「意識・心の構造」が対話的にできているというのです。確かに、地下鉄に乗って、お年寄りが前に立った場合にも、自分も疲れて寝たふりをして席を譲りません。しかし、必ず、「これで良いのか」と自分を問う声、もう一人の自分が問いかけてくるのです。まあ、「今日は疲れているから仕方ない」などと自分を納得させるわけです。人には「良心」というか「共通の意識」というか、そういうものがあって、もう一人の自分と対話します。それは人が人格であるからだというのです。最近は「猿」も「反省!」などという芸をしますが、あれは本当に反省しているわけではないでしょう。

 ここで、大切なことは、「良心」はあくまで、行い、私たちの行動の善悪を判断する内なる声であるということです。私の行動、努力ではなく私自身、私という存在は、神から愛され、神との関係に生きる「人格」なのです。この区別をしっかり持てないと、「自己受容」ができずに、心の病になってしまいます。勉強を頑張れないで、悪い成績を取ってしまった。だからと言って、尊厳ある人間であり、神から愛されている「人格」であることに全く変わりはありません。そこにしっかり踏みとどまらねばなりません。こんな自分は死んでしまった方がよいとか愛されていないなどを考えること、自分がどうも好きになれないこと、それは行動・行為に当てはめるべき「良心」を人間としての存在そのものに当てはめてしまう誤りなのです。良いでしょうか? 怠ければ成績が悪くなるし、給与も下がるかも知れない。それは厳しい現実ではありますが、頑張ればよいだけのことです。それだけです。どのように行動をするにせよ、人は「神のかたち」である、神から愛されている存在である。このことに関して決してブレてはなりません。

 

4、世界・他者との関係に生きる

 人は「人格」として他者との関係に生きるように造られています。ですから、他者を決して「もの」、あるいは自分の「欲望の対象」として扱ってはいけないのです。しかし、この世は競争です。小さい時は、存在そのものを大切にされて親から愛されていました。しかし、だんだん成長すると他者が自分のことを「もの」扱いし、「欲望の手段」「対象」としてしか見ないことに気が付くのです。それなら先制攻撃で、私も他者を「もの」と考え、欲望の手段にしてしまうのです。幼稚園の頃は、親は帰宅したこどもに、「楽しかった?」「お友達と仲良く遊べた?」と聴きますが、小学校に入ると態度一片、「宿題はやった?」「試験の結果はどう?」という問いかけになります。競争社会に負けないようにしっかり育てることは意味のあることではありますが、人間関係はどこかギスギスしてきます。やはりどこかで、人は「人格」として愛と関係の中にしか生きることができないことを認めることが大切でしょう。夫婦喧嘩がなぜ起こるか?簡単です。その人の存在を喜び、愛することではなく、自分の欲求を満たしてくれない、自分の思い通りにいかないということなのです。人は「人格」として他者との関係において生きるように創造されているのです。これを無視すると生きにくくなるのです。なぜかというと、人はそれぞれ、「神のかたち」として「人格」という創造されているからです。

 世界との関係においても、自然環境をただ自分の欲望の充足の対象としてだけみていれば、異常気象ではないですが、自然からしっぺ返しを受けるのです。現在はまさに、人間が人格として、世界の中にどのように生きるべきかが問われているのでしょう。人は、人格として、面倒なことかも知れませんが、世界と他者との関係の中に生きているし、それ以外では生きられないのです。

 

5.神との関係に生きる

 第3に、人は神との関係に生きるように「人格」として創造されています。ですから真の神に出会わない限り、偽物の神、偶像礼拝者となるのです。お金を礼拝する、経済効率を礼拝する、健康であることを礼拝する、そして、「偶像」は英語で「アイドル」と言いますが、アイドルに心惹かれるのです。スマップは解散するようですが、アイドルとして見られ、その期待の中に生きるのはきっと大変でしょうね。現在元久留米教会の牧師の吉田羊さんがブレイクしていますが、お金も儲けているでしょうが、大変な生活でしょうね。数年後が心配です。

 それはともかく、人は神との関係に生きるように造られているので、心が何者かに向かうようになっているのです。コヘレトの言葉3:11には「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることはゆるされていない」とあります。なんという皮肉でしょうか?人の心は人や神を愛するように、永遠を求める方向性の情熱を与えられているのに、それに到達できないというのです。そこで、人は人が造り出す偶像を礼拝するのです。だれがイザヤ44:9~17に厳しい言葉に耐えることができるでしょうか?「無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間に過ぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌で叩いて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を測り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。…木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のために偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と」。何と辛辣な言葉でしょうか?だれがこの言葉に反論できるでしょうか?人は神との関係において造られているゆえに、真の神に出会わない限り、偶像礼拝者なのです。そして、私たちは異教徒や世俗主義者を批判する前に、真の神を知っていると称して、実は自分の身のたけの神を礼拝しているのではないかを反省せねばならないでしょう。

 

6.他の被造物に最も依存している人間、神の安息への招き

 私たちは、この聖書箇所を読み違えていたのではないでしょうか? 人間は創造の冠であり、全世界を支配する力を与えられているのだと。特に、近代欧米のキリスト教社会はそのように創世記1章を呼んだのではないでしょうか?そこから自然破壊と生態系の危機が生まれたのです。自然を収奪の対象と考えてきたのです。

 今日、2つの見方の回復が必要です。第一に、最後に創造された人間は確かに最も進化した生物ですが、最後に造られたゆえに、他の被造物に最も依存していると言えないでしょうか。草や木は人がいなくても育ちますが、人は草や木がなければ、生きることはできないのです。馬や牛は人がいなくても大丈夫ですが、人は馬や牛がいなければ、生きていけません。最後に創造された人間は確かに霊長類としてもっとも進化したものです。しかし、他の環境社会にもっとも依存した、弱い、だから、「関係に生きるもの」なのです。

 そして、第二に、天地万物の創造は6日目で最後ではありません。7日目に「神は御自分の仕事を完成され、第7の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」のです。人には、その労働の力と知恵で全世界を支配することが目的ではありません。そうではなく、永遠に安らぐこと、神の安息に喜んで預かることです。これが最終的目的です。ですから、仕事を辞め、労働しないから価値がなくなったのではなく、人間の本来の目的、神と共に遊び、神の安息の喜びに預かることこそ、天地万物の創造の目的なのです。働くこと、頑張ることは大切ですが、働き過ぎないこと、頑張りすぎないこと、休んで良いと言うことに心を留めておきましょう。(松見俊)