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2016.10.30 「御言葉に養われて」 (全文) ルカによる福音書13:6-9

 

 今朝はルカによる福音書136~9節、新共同訳聖書で「実のならないいちじくの木のたとえ」という見出しのついた、イエス様の話された譬えの箇所から共に御言葉に聴いていきたいと思います。

 新約聖書の中に出てくる果物と聞いて、私たちが真っ先に思い浮かべる果物は、ぶどうではないかと思います。次がいちじくではないでしょうか。主の晩餐で私たちはぶどう酒(ジュース)をイエス様の流された血を想い起こすために私たちは飲みます。ヨハネによる福音書15章でイエス様はご自分のことをぶどうの木と言われました。15:1~2「わたしはまことのぶどうの木、わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。イエス様というぶどうの木につながった私たちキリスト者という枝は、実を結ぶように、信仰者として実を結ぶように期待をされていることが言われています。そして実を結ばない枝は取り除かれる、という厳しい審判についても言われます。

 そして、いちじくの木で私が思い浮かべる新約聖書の箇所は、マルコ1112節から(マタイでは2118~19節)の、“いちじくの木を呪う”という見出しのついた箇所です。イエス様が弟子たちと一緒にベタニアの村を出て歩いておられました。すると葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られました。ところが葉のほかは何もなかったのです。それもそのはず、その時はいちじくの季節ではなかったからです。ところがイエス様は、その木にむかって、「いつから後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。その後で、そのいちじくの木は根元から枯れていたと福音書には記されています。いちじくの季節ではないのに、実が成らないことで呪いの言葉をかけられ枯れてしまったいちじくの木の話は、理解するのが非常に困難です。ただそこには、イエス様から私たち信仰者への、主から選ばれた私たち信仰者への大きな期待、“良い実を成らせてほしい”、“悔い改めて神に立ち返ってほしい”という期待がいかに大きいか、イエス様の心からの願いであるのか、が表されていると思います。そして私たちが成長し、実をならせるために必要な養分(栄養分)はすべて私(イエス様)が与えるから、というメッセージもそこにはあるのです。

 

 今日の箇所、この“実のならないいちじくの木”の譬え話を、ルカ福音書は135節のイエス様の言葉「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う言葉の後に続けています。ですから、このいちじくの実の話は、悔い改めと悔い改めなければ滅びる、という厳しい言葉の持つ緊張感の余韻を持って語られています。私たちも緊張感を持って読むことが求められている箇所です。この譬えによってイエス様が私たちに伝えようとしたこと、に聞いていきましょう。

 

 さて、6節を読んで不思議に思うことがあります。6節の「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき」というところです。なぜいちじくの木をぶどう園に植えるのか、ということです。この主人はぶどう園の所有者、または経営者と言えると思います。私は組織(会社)を経営するという経験はありませんが、それでもサラリーマン時代に、色々なビジネス書は何冊か読んだことがあります。あるビジネス書に、会社の事業の成功の秘訣は、まず適材適所への人材の配置(人材と言う言葉は好きではありませんが)である、と書いてありました。相応しい人を相応しい地位に就ければ、もうそれだけで事業は成功したようなものである、というのです。相応しい人を見つけること自体が非常に難しいともいえると思いますが、相応しい人を相応しく配置すればそれで事業は成功したも同じ。それが正しいとすると、このぶどう園の主人は適材適所ということを知らない、農園の経営者としてはあまり優秀でない主人なのでしょうか。いちじくなのに、ぶどう園に植えたからです。

 ところが調べてみますと事実はそうではないらしく、新約聖書の書かれたこの当時、ぶどう園(vineyard)にいちじく、またその他のいろいろな果物の木を植えることは普通のことであったそうです。ぶどうは、木に絡みついてその蔦を延ばしますから、ぶどう園の中にいちじくの木が植えられているということは何も変わったことではなかったのです。いちじくの木はいちじくの木で、実をならす以外にもぶどう園のなかでの役割があったということです。

 現代は機械農業(農業技術)が発達して、ぶどう園にはきれいにぶどうだけが育てられ、そして効率良く多くの収穫が得られると思いますが、イスラエルのぶどう園の中に色々な果物の木が植えられていたという光景を想像すると、色彩豊かで、おそらく雑然としていたとは思いますが、色々な果物がそれぞれの個性と役割を発揮しながら互いに支え合って成長している、そんな様子が想像できる気がいたします。場所はぶどう園であっても、その中に色々な果物のなる木が植えられており、それぞれの役割を果たしているということに、私たち人も、特に神に呼び集められた教会の中で、お互いの個性を尊び、違いを認め合い、一人ひとりが特別に神から愛された存在であることを喜びあうことができます。

 ぶどう園の中に、主人(すなわち神様)は特別な思いで一本のいちじくの木を植えたのです。私たち一人ひとりが一本のいちじく、またはざくろ、りんごなど多様な木でありながら、神様の前に等しく価値ある者とされていることを喜びましょう。ぶどう園の中のぶどうは決して他の果物を見下したりせず、またぶどう園のなかのいちじくも、肩身の狭い思いをする必要はないのです。そして神が植えられた場所であれば、どんな場であろうとも、豊かな実を成らせてほしいという神の期待に応答するように、私たちは神様に従って生きて行けばよいのです。

 

 このぶどう園の主人はいちじくの木を植えてから三年の間ずっと実を探しにぶどう園にやってきていました。7節で園丁にこう言っています。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。」三年間繰り返し実がならないかどうか探しに来た。果物は苗から植えたとすれば、最初の実がなるまでには大体三年間ぐらいはかかりますから、実がならないかどうかを三年経たない間に何度も見に来るのは、少し気が早いというものです。しかし主人は、三年の間、いちじくの木の成長を愛情を持って見守り、実はならないか、実はならないか、と先のことを期待しながら、そしてはたして順調に成長しているかと気にしながら、三年間の間何度も見に来ていた、ということでしょう。それぐらいの愛情と期待をこの主人はいちじくの木に寄せていたのです。

 この主人がいちじくの実を求めて来た時は、三年経ったときのことですから、もういちじくが実をならしていても良い時期でした。

 しかし残念ながら、いちじくの木は実を実らせていませんでした。そして主人は園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない」。これは“こんなに愛情をかけて、必要なものは全て与え、大きく期待していたのに”という思いからの言葉でした。そして主人は、「だから切り倒せ」と命じます。切り倒せ、とは非常に強い言葉です。マタイによる福音書三章でバプテスマのヨハネが、“良い実を結ばない実はみな、切り倒されて火に投げ込まれる”と人々に悔い改めを呼び掛けている声と重なります。

 

 “もう実がならないなら切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか。”、この“土地をふさがせておく”の“ふさぐ”というギリシア語の原文は「なぜ、土地を無力にするのか」「なぜ土地を疲弊させるのか」とも訳せる言葉が使われています。この木がここにあることで、土地が駄目になってしまう、とも理解できる言葉が使われています。最初にお話しいたしました、ぶどうの木を支えているならば、全く何の役にたってはいないとも言えるのですが、主人の期待はもっとはるかに大きく、いちじくの木が実をならさないのであれば、それは土地をも疲弊させてしまうのだ、というのです。

 

 ここで園丁は主人に「御主人様、今年もこのままにしておいてください。周りを掘って、肥しをやってみます。」周りを掘って、肥しをやる、この方法は、当時の果物の木の標準的な育て方でした。これは、プリニウスという人(古代ローマの政治家、軍人、学者)の『博物誌』という本に記されている、当時の果物の木の標準的な育て方であったそうです。周りを掘って、肥しをやる、ことは何も人がびっくりするような特別な方法ではなかったのです。園丁はおそらく、それまでも同じことをしてきたのでしょう。ところがこの何も特別ではないことを続けていく、というところが大事であると思います。わたしたちは、当然すべき当たり前のことをあたり前に続けること、そうした方が良いと分かっているあたりまえのことが、なかなか当たり前にはできないことがないでしょうか。当たり前のことを続けてするということが実際どれだけ難しいかを私たちは経験的に知っていると思います。

 周りを掘って肥しをやる、私たちにとって肥しとは、生きた神のみ言葉、聖書の御言葉です。聖書の御言葉にとどまり、御言葉でいつも養われることです。礼拝を捧げ、祈りを捧げることです。私たちは聖書の御言葉でいつも私たち自身を養っているでしょうか。特別なことではありません。毎日少しでも聖書を読む時間、時間の確保も難しい時があると思いますが、たとえ短い時間であっても、私たちの一日一日を支えてくれる主の御言葉に出会おうという期待を持って、私たちは御言葉を頂いているでしょうか。もしこのキリスト者にとって当たり前のことが今出来ていないとしたら、ぜひ日々のデボーションを始めましょう。毎日少しでも時間を割いて聖書を読みましょう。礼拝を大切にし、祈りを通して神と繋がりましょう。そして御言葉がいかに日々の自分の生活に関係があるものか、私たちの生活を支え、私たちを励まし、私たちの心を支えてくれるものであるかを、日々発見してゆきましょう。

 

 園丁の言葉はこう続きます。「来年は実がなるかもしれません。もし、そうでなければ(あなたが)切り倒してください。」“切り倒す”の主語は誰でしょうか。園丁から見て“あなた”です。主人です。この園丁は、“切り倒す”という行為を主人、天の父に委ねています。日本語の聖書では、(あなたが)という主語ははっきりとは現れていませんが、ギリシア語本文では、あなたという2人称の動詞が使われています。(わたしが“切り倒します”ではないのです)もし来年実がならなければ、“あなたが”切り倒してください、とこの園丁は主人に願っているのです。ここにこの園丁の覚悟と、そして優しさが現れています。なぜなら、たとえ実がならずとも、切り倒すなど私にはできません、あなたが切り倒してください、という思いが現れているからです。園丁はこの木が切り倒されることのないよう懸命な努力を傾けます。土地と充分な肥料、それらすべてを与えられて尚、実を結ばない実は切り倒されるのです。主人と園丁にとっても、真心をこめて育ててきたしたいちじくの木を「切り倒す」ことは大変つらい、痛みを伴う行為です。

 この園丁とは誰でしょうか。父なる神と私たち人の間を執り成してくださるイエス・キリストを現していることは私たちには明らかです。「きっと来年は実をならせるはず」という期待を持って、神と私たちの間をいつも執り成してくださっているイエス・キリストです。

 イエス様がこの譬えを人々に語った時、いかに神が与えられた悔い改めの猶予の時が恵みであるかをイエス様が熱心に、必死に語ったかがわかります。悔い改めのチャンスがいかに尊いか、イエス様が必死に人々に呼びかけている姿が想像できます。今こそ神に立ち返るべき時である!というのです。

 

 さて、このいちじくの木は一年後どうなったのでしょうか。一年後は立派に実を結んだのでしょうか。これは譬えのお話しですから、ここは私たちがある程度自由に想像することが許されると思います。いちじくの木は豊かな実を結び主人の期待に応えることができたのでしょうか。

 今日私はこの、園丁が懸命に世話をして一年の猶予をもらったいちじくの木は、結局は実をならさなかった、と読もうと思います。それはイエス・キリストの十字架と復活の出来事からこの譬えを読むと、そのように読めるのです。いちじくの木は私たち一人一人を現しますから、私たちはやはり神の期待に沿う事ができず一年後、いちじくの木は切り倒されたのです。ですから私たちにはイエス様の十字架上の死と復活の恵みが与えられなくてはならなかったのです。十字架と復活によって再び私たちが神に繋がることのできる道が用意されました。

 私たちは切り倒された、と申しましたが、正確にいうと、私たちの代わりに切り倒されたのはイエス様です。イエスさまがわたしたちの身代わりとなり、天の父なる神と断絶されるという痛みを十字架の上でご自分の身で私たちの代わりに引き受けてくださったのです。イエス様自らが、私たちに代わって切り倒されるいちじくの木となったのです。「もし来年もだめだったら切り倒してください」と言ったこの言葉には、「もし来年も駄目だったら私を身代わりに切り倒してください」と言ったイエス様の心の声が聞こえる気がいたします。

 イエス様は十字架上での死で、神との断絶を経験されました。神と等しい方であったのに、それに固執しようとされず、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。神と私たちの間が断絶されました。天の父なる神にとってもこれは辛い出来事であったはずです。「切り倒す」そんなことはしたくない、と思っていた主人は、すなわち天の父なる神は、御自身にとっても大きな痛みを伴うその行為を断行されました。断絶の苦しみを負ったのは天の父と御子イエス様のお二人です。父と子は一つだからです。父と子が、切り倒される痛みを私たちのために負ってくださいました。そしてキリストの復活の出来事により、十字架上の死は死では終わらない、復活の出来事と結びついて、私たちには大いなる喜びの出来事であることが示されました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、私たちが神のもとに行く事の出来る道が開かれました。

 

 この恵みを前にして、私たちは神につながり、豊かな信仰の果実を実らせるようにと決意を新たにさせられます。イエス・キリストが十字架上での死という途方もない代償を払ってくださったからです。切り倒される痛みをイエス様が負ってくださったからです。

 

 私たちには聖書の御言葉が与えられています。園丁(イエス様)が言われた、周りを掘って肥しをやってみます、今、この御言葉という栄養豊かな肥しが私たちに与えられています。このように、信仰者は聖書の御言葉に繋がって、御言葉に従って生きる時、御言葉によって養われる時、きっと豊かな実を結ぶはずです。

 

 天の父は、いちじくの木が切り倒されることを望んでおられない。神は私たちのだれ一人も滅びることを望んでおられません。そのままにしておいたら他の土地を疲弊させる、そのようなリスクを伴ってでも、なんとしてでもいちじくに実を成らせてほしいと願い、必要な肥しである、御言葉を私たちに与え続けてくださいます。

 ぶどう園の中のいちじくの木、その他の様々な果物の木々がお互いを大切に尊重し合って、支え合って、そして豊かな信仰の実を結ぶように、聖書を読み、聖書の言葉の一言ひとことを豊かに肥しとして頂いて、日々の生活の中で、信仰の実を結んでまいりましょう。御言葉で養われる生き方こそが、私たちの生活を豊かにし、私たち一人ひとりが豊かな実を結ぶように、させる生き方なのです。(酒井朋宏)