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2016.12.11 「御言葉を待ち望む」 (全文) 詩編130篇1b-8

1.深い淵の底から主に呼びかける

 主イエス・キリストの御降誕を待ち望むアドベント(待降節)第三主日礼拝を私たちは共にしています。再来週のクリスマス当日まで、私たち一人ひとりの心の中にイエス様をお迎えする気持ちをもって、大きな期待と喜びをもって備えてまいりましょう。

 クリスマスは私たちの救い主イエス・キリストがこの世界にお生まれになったこと、イエス様がこの世界に来てくださったことを感謝する喜びの時です。しかし、この喜びの時にも、私たちのまわりでは多くの人々が、また私たち自身も、日々の生活での色々な悩み、悲しみ、苦しみを抱えていると思います。クリスマスが来ても、その悩み苦しみが一挙に消えてなくなることはあるでしょうか?まずそうはならない。。。しかしそれでも、このクリスマスに私たちは今一度、救い主イエス・キリストがこの世界に私たちと同じ人としてお生まれになったことで、私たちの悩み苦しみの中にも、光と希望が与えられたのだということを覚えていきたいと思います。

 本日は詩篇130篇の御言葉に共に聴いて参ります。詩編120篇から134篇にはいずれも「都に上る歌」と見出しがついています。口語訳聖書では「都もうでの歌」、また外国語の聖書には「巡礼の歌(A Pilgrim Song)」と訳しているものもあります。これは過越祭などのイスラエルの重要な祝祭のとき、イスラエルの人々がエルサレムへ上りながら(上京)歌った歌であり、またバビロン捕囚でバビロンに捕らわれていたイスラエルの民が解放され再び都エルサレムへ戻る時に歌われた歌ではないかとも言われています。126篇はまさにそのような解放の歌です。1261節“主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった”。

 これら都もうでの歌は、私たちは主の元へ立ち返ることで、本来の自分に戻ることができる、自由になることができる、そんな思いで作られ、謳われた歌ではないかと思います。

 

 1節~2節を読むと、この詩を歌った詩人が大変苦しい状況に置かれていたことが分かります。「深い淵の底から 主よ あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 “深い淵の底”とは、一体どれほどの苦しみ、悩みの状況でしょうか。“底”とは、もうこれ以上の苦しみはないと思えるような絶望のどん底です。

 この詩人の苦しみの具体的な状況は分かりません。痛みや苦しみは、結局はそれを感じている本人にしか分からないものです。痛む人に私たちは同情したり、共感したり、慰めたいという思いを持ちます。しかし、苦しみは苦しんでいる本人にしか分からないものです。

 そして人は、痛み苦しみそのものによりも、その痛み苦しみを完全には分かってくれる人はいないということに、もっと苦しみを感じるのではないかと思います。他人の苦しみを自分の事として理解するのは難しいことです。私たちは人に対して“その気持ちは分かるよ”などとは、特にその人の抱える問題が深刻であればあるほど、そう簡単には言えないことを知っています。

 この詩人は、“主よ私はあなたを呼びます。私の声を聞いてください”と主に呼びかけています。ここには、“主は私たちの悩み苦しみをご存じのお方だ”という信頼、信仰が表されています。人には完全にわからない私たちの苦しみも、主は全てを知っていてくださる、という信仰です。

 絶望の底、私たちは出来ればそんな状況に陥りたくはありません。しかしこの詩篇の御言葉から私たちは、たとえ深い淵の底のような状況にあっても、私たちには祈ることの出来る方がはっきりと知らされている、と教えられるのです。聖書を通して知らされたイエス・キリストの神に私たちは呼びかけ、祈ることができる、これは大きな希望です。

 神を知らされることの恵みの一つは、このように困難な時に祈ることができることです。嘆くときにも祈ることができ、その私たちの祈りを聞いてくださっているのが誰であるのか、すなわち私たちの祈りを聞いてくださるのは十字架と復活の主イエス・キリストであると知らされていることは、どれほど幸いなことでしょうか。

 

 痛み苦しみよりも、それを分かってくれる人がいないという状況のほうが、つまり孤独こそがもっと苦しいことではないかと申し上げました。

 しかし2節の言葉をもう一度見てみましょう。“主よ、この声を聞きとってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください”。“この声を聞き取ってください”は、ヘブライ語のニュアンスに忠実に訳せば、「声を聞いてください」というよりも「私の声“の中に”聞いてください」となります。それはただ聞こえる音だけでなく、また言葉だけではなく、私の中に入り込んで、声の中にある私が言葉では表現しきれていない呻きをも聞き取ってください、と祈っているのです。

 人が、他人の声の中の声、その人の声にならない声にまで聴くことは困難です。しかし主は、私たちのか細い声を聞きとってくださるお方、私たちの声の中の声までも聴いてくださる方です。ですから私たちは嘆きの時に、言葉にならないような祈りであっても、主にむかって祈ってよいのです。

 嘆きの中であっても私たちは神に祈ることができる、神は私たちの声を、心の叫びを聞いてくださっています。神様とのそのような親密な関係の中に置かれていることを最も喜ぶことができる時とは、私たちが嘆きながらも神に祈る時だと、この130篇から示されます。

 私たちは嘆きの中にも主と呼びかけて祈ることのできるお方、真(まこと)の神を知らされています。ここに信仰による幸いと慰めがあります。

 

2.赦しは主のもとにあり

 次に3節で詩人は“主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう”と告白しています。この詩人は深い淵の底、絶望のような状況にあってもなお神に祈りました。そして詩人は神の前にはどんな罪も隠すことができないことを知っていました。神は私たちの全ての罪を見抜いておられる方であるから、神の前では何も隠し通す必要がない。そのように神との正直な関係に身を置いているのがこの詩人なのです。

 私たちは人に対しては、自分の罪の部分、人に対して知られたくない罪の部分を見せずに隠しておくということが可能です。また自分の罪全てを本当にさらけ出してしまうことが人間関係にとって必ずしもよいとは言えないでしょう。

 しかし、私たちは主に対しては、自分の罪も何も隠す必要がないのです。主はすべてをお見通しの御方ですから、私たちは安心して、主に対して何でも祈り呼びかけることができるのです。

 「あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ誰が耐ええましょう」文字通り、あらゆる罪を見逃されないのが主であるなら、私もその裁きを逃れ得ない、無罪放免とはならない、と詩人は告白しています。私たちはこのように告白することができるでしょうか。何も隠せないとは神様とは何と恐ろしい方だと皆さん思われますか。いえ、それは恐ろしいことではなく、むしろ私たちが主の前では本当に自由になれるということです。なぜなら何も隠さずに本当の自分のままでいられるからです。

 ヨハネによる福音書8章の姦淫の現場を捉えられた女性の話では、結局誰もその女性に石を投げつける者はいませんでした。どうしてでしょうか。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」イエス様のこの一言によって、“自分は罪を犯したことは一度もない、自分には罪がない、などとはとても言えない”、と誰もが気づかされたからです。その場にいてイエス様の声を聞いた全員が、罪の自覚に至りました。

 キリスト者となってからも、“自分が罪人だ”という事はなかなか受け入れがたいことではないでしょうか。それは私たちがどうしても私たち人の目に見える罪、いわゆる悪い事のレベルで考え、その罪を他人のものと比較するからです。“あのような罪に比べれば自分の罪は大したことはない。。。。”などと、私たちは人との比較によって自分を判断することが多いと思います。しかし、聖書を読み、御言葉を通してイエス・キリストに出会わされるということは、この女性が捉えられた場で「まず罪を犯したことのないものが最初に石を投げつけるがよい」とのイエス様の声を、自分自身への一言として真剣に聞くことです。そこで救われたのはその女性だけではなく、またそこに居合わせた人々だけでもなく、今聖書の御言葉を通して、罪人であることを知らされる私たちも救われた者となるのです。イエス様との出会いによって私たちの罪に真剣に向き合い、そしてそのイエス様によって私たちひとり一人の深い罪は赦されていることを知る、これは大きな恵みです。

 

3.御言葉を待ち望む

 今日の宣教題を「御言葉を待ち望む」と致しました。それは130篇の中心メッセージは5節と6節にあると私は受け取ったからです。「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みを置き 御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」と書かれています。

 何かに望みを置くことなく生きて行くことは苦しいことです。今週笠井牧師が西南学院大学の全学チャペルで講話をしてくださいます。西南学院大学では火曜日から木曜日まで週三日、讃美をして講話を聴く全学チャペルの時間が持たれています。私は今年の6月にお話しをさせて頂きました。その時のテーマが「私の夢」でしたので、私は自分がこどもの頃に持っていた夢の話(警察官、プロレスラー、漫画家)、また実際に就いた仕事の話をしました。実際に就いた仕事はこどもの頃、中高生の頃まで描いていた大きな仕事ではありませんでした。

 しかし、イザヤ書559節の「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを 高く超えている」、この聖句から、主の思いは私たちの思いをはるかに超えて高い、だから私たちは自分が思い描いたような夢や目標をたとえ達成できなかったとしても、それでも私たちは主の壮大な計画の中に入れられている、とお話しをさせて頂きました。そして最後のお祈りでは、たとえ今は具体的な夢や目標がない、何に希望を持てばいいのか分からないという人も、わたしたちの思いをはるかに超えた主の大きなご計画がいつも確かにあると、聖書の御言葉によって、私たちが信じて、希望を持って生きて行くことができますようにと、祈りました。

 学生の何人かが感想を書いてくれまして、その感想の言葉に私自身が逆に励まされ、とても感謝なことでした。私自身が、(自分で話したのですが)御言葉を通して起きた学生からの反応という出来事に改めて御言葉の力から頂いた気がいたしました。

 私たちは、将来への希望を持って生き、または希望を持ちたいと願っています。130篇の詩人が待ち望んでいるものは“御言葉”です。「御言葉を待ち望みます」。自分の具体的な苦しみの状況が、自分が望むように解決されるようにという祈りではなく、“御言葉を待ち望んでいます、御言葉に希望を置いています”、と祈っているのです。この詩人は、聖書の御言葉こそが私たちに生きる力と勇気を与えるものだと信じています。

 6節で“見張りが朝を待つにもまして”と言われます。見張りが朝を、朝の光を待つ以上に御言葉を待ち望む。御言葉こそが、暗闇の中の光として私たちの足元を照らすのです。御言葉という光によって、暗い中にも私たちの将来への希望の道が照らされるのです。

 見張りとは、当時壁で囲まれた町を夜に守る兵士、または商人の一団(隊商)の中で、仲間を敵や獣の襲来から守るため、夜寝ないで見張りをしている人のことです。いつやってくるかもしれない敵、危険な獣の襲来の可能性に大変な緊張を強いられる大変きつい仕事でした。

 私はこの“見張り”(口語訳では“夜回り”)から、イエス様誕生の知らせを最初に知らされた羊飼いたちの姿を思い浮かべました。ルカによる福音書2章で、天使から救い主イエス様誕生の知らせを最初に聞いたのは、夜通し羊の群れを守っていた羊飼いたちでした。羊を守るために、夜も寝ないで群れを守っていた“見張り”であった羊飼いたちです。羊を奪おうとする強盗や野獣が襲ってくるかもしれないという緊張の夜の中、朝を待ち望んでいた彼らに、救い主がお生まれになった、という知らせが、他の誰よりも先にもたらされたのです。

 私たちも、日々の生活での疲れや緊張の中にも、見張りが朝を待つように“必ず朝は来る”という希望を持って御言葉を待ち望みたいと思います。私たちが御言葉を求める時、きっとその時々に私たちに必要な御言葉が私たちには与えられ、その御言葉が私たちの悩み苦しみの中にも力を与えてくれます。日々必要なみ言葉が与えられるように祈り求めてまいりましょう。

 

4.イスラエルよ主を待ち望め~個人の希望が共同の希望へ

 130篇は「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」という言葉で終わります。ここで、主に祈ることができる恵み、そして罪許されたという恵みが、この詩人個人のものから、彼が属する共同体であるイスラエル全体に対しての“主を共に待ち望もう”という呼びかけへと変わっていきます。

 私たちは共に主に希望を置き、主を待ち望むのだとの呼びかけです。主に祈ることができる、主は私たちの罪を赦してくださっている、この恵みが私だけのものとならず、他の人へも与えられるようにと、私たちは祈る者となるのです。

 私が求道中の頃に感じていたのは、信仰とは個人的なものであるべきということでした。ですからキリスト者というのは非常におせっかいな人達、人を煩わす人達に見えました。あなたの信仰は尊重するから、私の心の中のことは放っておいてほしい、そう感じていました。

 しかし今は、私たちキリスト者は、信仰にある希望を他者と共有したいと望む者であると思っています。そうならざるを得ないのです。人と一緒にということは時に困難かもしれません。自分だけのこととしておいたほうが一見楽かもしれませんが、実はそうではない。私たちが主に置く望みは、ただ個人のものとだけしておくことはできないのです。この詩篇の祈りからそのように教えられますし、クリスマス、主なる神が人となって私たちと共に生きようと決断してくださった恵みの大きさを思えば、ますますそうではないでしょうか。

 自分がゆるされたという感謝と喜びの知らせ、すべての罪から私たちを贖ってくださる方がおられるという知らせを必要としている人々に、私たちは福音を伝えていく者にならざるを得ないのです。主の証し人になるのです。

 

 8節“主はイスラエルをすべての罪から贖ってくださる。”ヘブライ語の原文では、“主が”の主語が非常に強調される用法となっており、「彼こそが」すなわち主こそがイスラエルをすべての罪から贖ってくださる、と書かれています。すべての罪から私たちを贖うことのできる神、そういう神は他にはない、ということです。イエス・キリスト以外に、罪の贖いはないのです。イエス様にこそ豊かな贖いがあるのです。

 「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と言われたイエス・キリストが私たちを罪から救うためにお生まれになりました。ルカによる福音書2章でシメオンは、“イスラエルの慰められるのを待ち望んで”いました。そのシメオンは神殿で幼子のイエス様を見て「わたしはこの目であなたの救いを見た。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。シメオンの望みはイスラエルの民全体の望みでした。その望みが実現しました。

 

 個人の嘆きと祈り、そして救いの出来事が、私たち全員の出来事として共有される、そのような出来事がまず私たちの教会で起こることを願いたいと思います。そのために教会はあるのではないでしょうか。

 

 そして私に知らされたこの神の恵み、わたしたちの教会に知らされた神の恵みは、決して私たちだけのものとはしておけません。主の救いを必要とする人達が、一人でも多くクリスマスに教会に集ってくださいますように祈って、備えてまいりましょう。

 

 私たち共に今日、そして今週はまたどんな御言葉が与えられるのか、御言葉がどんな出来事になるのかと、聖書の御言葉に大きく期待し、御言葉の持つ力に信頼をしていきましょう。与えられる聖書の御言葉が私たちを生かし、私たちに力を与えます。

 そしてイエス・キリストを待ち望むアドベンドの期間、神様が私たちにして下さったこと、今もしてくださっている恵みの一つひとつを数えなおして、イエス様がこの私たちの世界にきてくださったことを感謝し、お祝いをするクリスマスに備えて参りましょう。

 

お祈りいたします。

 主なる神様、今朝の御言葉をありがとうございます。深い淵の底にいるような時にも、嘆きの時も、主なるあなたが私たちの祈りを聞いてくださり、私たちを慰めてくださることを信じます。

 どうぞ私たちが、私たちの傍らで嘆き、苦しんでいる人の痛みに寄り添うことができますように、共に祈る者となることができますように、導いてください。私たちは人の苦しみを完全に自分のこととして理解することはできませんけれども、それでも寄り添いと想いやりの心を持ち、できるだけの支えの手を苦しむ人に差し伸べることができますように。

 主なる神が御子イエス・キリストを通して私たちすべての者を救おうと決意をされ、イエス様を私たちへの大きな贈り物として贈ってくださいました。クリスマスの出来事に心から感謝し、喜びの内に、アドベントの期間の日々を過ごさせてください。

 今日共にあなたに礼拝を捧げることができましたお一人おひとりの心と合わせ、感謝をして、イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。

(酒井朋宏)