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2016.12.18 「神を畏れる者」 (全文) マタイによる福音書2:1-12

1:  テキストを越えた話

 今日の箇所、いわゆる「東の国の博士」の話は、イエス様の誕生物語の中でも、特に多くの分析や解釈がなされてきました。そして後から脚色、色づけされた部分が多い話とされています。聖書が語る意味を少し超えて解釈することで、物語として面白さを加えるために、また、少し視点を変えて読み込むことで、違ったメッセージを得るために、いろいろな色づけがなされてきたのです。それが今日の箇所「東の国の博士」の話です。今日は、そのいくつかをまず紹介いたします。

 まず占星術の学者という、東の方から来た、よく「東の国から来た、3人の博士たち」と言われる人々についての考え方ですが・・・この占星術の学者は、「異邦人の魔術師」、または「星座を観察する人」であった、その数名が来たと理解されます。この占星術の学者がどのような人たちだったのか、いろいろな解釈がなされてきました。まず、この「3人」というのも、「黄金」「乳香」「没薬」という捧げた贈り物の数に合わせて3人となったのです。聖書には3人とは記されていないので、実際、何人だったのか、それは解釈の範囲になるのです。

 また、この話からイエス様に権威や名誉を付け加えるために考えられた、考えの一つに、「黄金」「乳香」「没薬」を献げたのは、3人の王様であったと考える、そのような考えがありました。このような考えは、7世紀ぐらいになって、キリスト教が国教となり、ローマ・カトリック教会に権威を与えるために付け加えられていったのではないかと、考えられるのです。3人の博士は、ペルシアの王メルキオール、インドの王ギャスパー、アラビアの王バルタザールと身分と名前がつけられたのです。そしてイエス・キリストに「黄金」「乳香」「没薬」を献げた者の身分も、王様という、この世における権力者であったと考えられたのです。

 また、さらに、このイエス・キリストは世界を治める方であることを表すために、ノアの箱舟に出てくる、ノアの子ども、セム、ハム、ヤフェトという人類の三つの民族の先祖とされる、その3人の子どもであったという考えもあるのです。また、様々な年齢、民族を表すために、3人は、こどもと大人と老人であり、また、白人と黒人と黄色人であったなどとも解釈することもあります。

 確かにイエス・キリストは世界を治められる方です。この世の牧者として、私たち人間を神様に導いてくださるのです。そのような意味では、このような解釈もおもしろいものだと思います。ただ、キリストが世界を治められている、だからこの東の国の占星学者が、この世の権力者であったという考えは、だいぶ本来の意味を飛び越えているような気がするのです。

 イエス・キリストはこの世において、仕える者としてこられた。私たち人間の罪のために、人間の弱さや、闇の部分を知ってくださるために、その一番下まできてくださった。弱い者、罪人と共に歩まれたのです。イエス・キリストは、その人間の弱さのうちに来てくださった。そして、だからこそ、本当のこの世の、牧者。私たちを受け止めてくださる方なのです。

 

 また、この「東の国の博士」の話では、その贈り物にもさまざまな解釈がなされました。本来、「黄金」「乳香」「没薬」とは王様に対する贈り物であったと考えられます。その枠を超えた解釈となる、一つの考えとして乳香と没薬を、キリストの埋葬の準備の時に使うものとして、十字架の時と結びつける解釈がなされました。イエス・キリストは生まれた時から、死と繋がり、拒絶された王であったと理解するのです。このような解釈は、私たちの十字架の理解を深めるための大切な後付けの意味です。この考えは、十字架を覚えながら、キリストの誕生を喜ぶためには意味のある一つの解釈です。ある意味、意味のある一つの聖書の聞き取り方だと思います。

 

 そして、最後に、星の出来事についての解釈ですが・・・。一つの考えとして、この「星」を紀元前12年に観測された、ハレー彗星と同一視する考えがありました。東の国の博士たちを導いた「星」。この星の導きを、人間が理解できる範囲での自然現象によって理解しようとした解釈です。

 しかし、今日の箇所に出て来ます「星」というのは、神様の導きの象徴、つまり神様の御心と意志が、人間を導くものであると象徴としての「星」と信じたいのです。

この星の導きは、神様の御業によるもので、今、生きる私たちにとっては、「聖霊」による導きとして受け止めていきたいと思うのです。私たちを救い主、イエス・キリストに導く、神様の御業としての「星」の導きなのです。

2:  神を畏れない者 ヘロデ王

今日の箇所は、これほどに多くの脚色と、意味が付け加えられてきました。この中で、私たちは、今日、この箇所から何を学ぶことができるのでしょうか。今日の箇所では、マリアと幼子としてイエス様も出て来ますが、降誕物語のこの場面の中心的な登場人物。それは占星術の学者と、そしてもう一人ヘロデ王です。

この登場人物の、神様の導きに対する態度から、この箇所の一つの意味を読み取っていきたいと思います。占星術の学者はこの星の導きを喜びました。しかしヘロデは不安をいだいたのです。占星術の学者がこの星の導きを喜んだ。そのなかには、「神様への畏れ」。神様という存在を受け止めていたのだと思うのです。実際に、最後には、ヘロデの「見つかったら知らせてくれ」という言葉には従なかったのです。夢でのお告げにおいて「ヘロデのところに帰るな」という言葉に従ったのです。ここに、神様を畏れていた、その存在を信じていた、占星学者の姿を見ることができるのです。

それに対して、ヘロデ王は「神様を畏れてはいなかった」。そして「神様の福音、イエス・キリストの誕生を受け入れなかった」のです。ヘロデ王は神を畏れず、その存在を喜ばなかったのです。そしてそれは、この後の物語にある、ヘロデ王がイエス様をエジプトに追いやるという出来事につながっていくのです。ヘロデ王は、救い主イエス様の誕生を喜びませんでした。救いの出来事を受け入れず、ここではエジプトに、つまり自分の人生の外においやってしまったのです。

 

私たちはこのヘロデ王をどこかで、自分とは関係のない、悪い、理解のない王様、イエス様を受け入れない、頭の悪い王様と考えていないでしょうか。しかし、私たち人間の心には、時に、神様を畏れない心が生まれているのではないでしょうか。神様を一番にしないという心が、私たちの心の中心に来ていることがあるのではないでしょうか。「神様を一番としない思い」「神様の愛を受け入れない」これがいわゆる「罪」なのです。私たちの心の中にヘロデ王が住んでいること、「神様を畏れない」心です。私は小さい頃から教会で育ちましたので、小さい頃のクリスマスの時に、イエス様の生まれる降誕劇を毎年していました。その時に、何度かヘロデ王の役をしました。そのヘロデ王のセリフを言いながら、「ヘロデ王はなんて理解がないんだろう。」「なんでイエス様を受け入れないのだろう」と、いつも思っていました。

しかし、これこそ思い違い、傲慢だったのです。自分の心の中に、そしてそれは、すべての人間の心の中に、「神様を畏れない」そして「神様を一番としない」心があるのです。ヘロデ王、その「罪」の心は、私たちの心のうちにもあるのではないでしょうか。

 

しかしまた、同様に、私たちは、確かに神様を畏れる心も持っている者なのです。それが占星術の学者の姿によって表されています。神様を受け入れたのは、東の国の博士たち。つまり異邦人でした。私たちの心には、神様を喜んで受け入れる心も与えられているのです。

しかしそれは心の異邦人の部分。つまり心の外側に置いてしまっているのです。私たちは、神様を畏れる心、人間を超えた力を信じる時もあるのだと思うのです。しかしそれは、いつもは心の外側にあるのです。時々、心が辛い時、厳しい状況に置かれた時、悲しい時、助けてもらうためにだけ、外に置いてある。苦しいときだけ、神様にすがり「助けてください」と願っているのではないでしょうか。

私たちは必要な時にだけ、神様を畏れ、神様を受け入れているのではないでしょうか。これはキリスト教の神様に限定されない思いでしょう。つまり、私たち人間のために働く、下働きの神様。神様をそのような心の外側に置いていないでしょうか。外側に神様が置かれている状態でなら、受け入れるけれど、それ以上には入ってくることを受け入れない。そのように、私たちは、神様を外側に置いてしまっているのではないでしょうか。

3:  本の紹介

 

 ここで、本の言葉を紹介したいと思います。ウイリアム・バークレー一日一生の言葉、「切符をどうぞ」という題の言葉です。

 

 人生の旅は、どこまで切符を買ったかによってきまる。知識についてもそうである。知識を得るための切符代は勉強である。ほんとうに勉強をする気持ちがなければ、うわっつらのなまかじり程度の外面的な知識をちょっぴり手に入れることができるだけである。勉強という金を払って切符を買えば、知識の世界を遠くまで旅することができるのである。きびしい勉強というという犠牲を払わなければ、知識を得るわけにはいかないのである。

 友情についてもそうである。真の友情は犠牲をともなう。ある金持ちについてこう言った人がいる。「彼はなんでも与えるが、白分自身を与えようとはしない」。友情はそれによって利益をうることではない。他者を利用することではない。友情とは自己を与えることである。これが友情の要求する切符代である。

 人生についてもそうである。われわれは人生の浅瀬にいつまでもとどまっていやすい。なぜもっと多くのことを人生から獲得できないのか、なぜもっと進歩できないのか、なぜもっと価値のあるものを創り出せないのか、とみずからいぶかる人たちがいる。だが人生は、それほど厳密にではないが、とにかく公平である。つまり、われわれは与えた分だけ与えられるのである。自分はなにも与えずに、ただ与えられることばかり期待していたのでは、結局なにも与えられないのである。

 クリスチャン生活についてもそうである。イエスはいった、自分のいのちを救おうとするものはこれを失い、自分のいのちを捨てるものはこれを得るであろう、と。あなたは切符代を払う用意はありますか。

(ウイリアム・バークレー『希望と信頼に生きる W.バークレーの一日一生』柳生直行訳(ヨルダン社 1974))

4:  キリストに繋がる

私たちは、神様の愛を得るために、イエス・キリストに心の中に来てもらうために、自分の心を開く準備ができているでしょうか。自分の一番の暗闇も、絶望もすべてを神様に差し出して、神様を「畏れて」生きる準備ができているでしょうか。神様を畏れること、それは本当の命を得ること、本当の生きる道を知ることになるのです。

朝の祈祷会で、先週は「恐れるな」というテーマでした。その中で、「神様を畏れることによってこそ、他のあらゆるものから解放されると学びました。」箴言1:7ではこのようにも記されています。「主を畏れることは知恵の初め。」今日の箇所において、東の国の博士たちは、ヘロデ王ではなく神を畏れたのです。神様を信じたのです。

イエス・キリストは、人間として、この世に来られて、神様との関係をきちんと整えてくださいました。人間と神様の関係を結びつけてくださったのです。私たち人間の「罪」の部分。「神様を畏れない心」、「神様を一番としない歩み」、そのすべてをイエス・キリストは受け入れてくださったのです。

私たちは、このキリストに繋がることによって、神様を畏れる者とされていきたいと思います。それは、イエス・キリストとの正しい関係の中に入れられて、神様との正しい関係の中で生きる者とされていきたいと思うのです。

私たちが神様と繋がる。それは、私たちが正しいからではないのです。ただイエス・キリストが神様を畏れる者として生まれて、生きて、それは十字架の死に至るまで、神様を畏れ生きて、その関係を造り出してくださったのです。私たちは、このイエス・キリストが私たちに繋がってくださる中にあって、神様と生きることが赦されているのです。そしてまた、主なる方キリストを見て、救いを見るという行為は、天を見上げていく行為ではないのです。イエス・キリストは、この世に生まれました。この地上に、この世に来られたのです。私たちは、今、この地上に、私たちの隣に、そして私たちの間に来て下さっている、イエス・キリストを見ていきましょう。私たちの間にキリストは来ています。このイエス・キリストが私たちと共に、今、歩んで下さっているのです。私たちは、イエス・キリストが私たちの痛みも、苦しみも、受け止めてくださることを信じて、主イエス・キリストと共に歩んで行きたいと思います。そして、私たちに繋がり、私たちの隣で歩んで下さる、イエス・キリストを信じて歩んでいきましょう。(笠井元)