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2016.12.25 「神の示された愛」 (全文) Ⅰヨハネの手紙4:7-12

1:  注がれた愛

 先ほどお読みいただきましたが、今日の聖書、最後の11-12節をもう一度、お読みします。Ⅰヨハネの手紙4:11-12「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(11-12)

 神様は、私たちの間にイエス・キリストを送ってくださいました。尽きることのない愛を送ってくださったのです。私たちは、お互いを信じあい、愛し合うなかで生きたいと願っています。しかし、私たちは、時に、他者と自分の違いを喜ぶことができなくなる。愛し続けることができなくなる。そんな弱さを持ち合わせた者でもあります。それが人間なのです。愛したいのに、信じたいのに、信頼したいのに・・・愛し続けること、信じ続けること、これはとても困難な道なのではないでしょうか。時に、このことに自分の心が疲れてしまう時もあるでしょう。私たちは、本当は、一緒に歩いていきたいのに、その関係に疲れてしまうことがないでしょうか。

 神様は、私たちの心にイエス・キリストを送ってくださいました。それは神様からの尽きることのない愛です。溢れ出る愛です。私たちが愛したい、愛されたいという思いを持ちながらも、自分ではどうにもならないような心の疲れのうちに、神様は来てくださったのです。

 クリスマスは、イエス・キリストがこの世界に、そして私たちの一人ひとりの心のなかに、そして私たちの間に来てくださった出来事を喜ぶ時です。イエス様の誕生は、神様が溢れるほどの愛を、私たちに与えてくださった事を表すのです。

 

2:  最初のクリスマス

 神様の愛の出来事としてイエス様はこの世に来られました。その最初のクリスマスの時、イエス様がこの世に来られた時、それは、マリアとヨセフという二人の間に来られたのです。この世において、イエス様を最初に迎え入れたのは、このマリアとヨセフの二人でした。クリスマスはイエス・キリスト救い主が、この世にお生まれになった、喜びの出来事です。しかし、イエス様の母親となったマリアと、イエス様の父親となったヨセフにとって、イエス様がこの世に来られたことは、手を挙げて喜び祝う出来事であったのでしょうか。

 むしろ、二人にとって、この出来事は、驚きであり、戸惑いと恐れであり、困惑の出来事であったでしょう。二人のうちに神様の御業がなされた。しかし、それは、すぐに、そのまま、受け入れられるほど簡単な出来事ではなかったのです。

 二人はすでに婚約をしており、間もなく結婚する予定の二人でした。そのような結婚を待つ間に、突然、マリアが妊娠したのです。当時の社会において、結婚の前の妊娠はゆるされないことでした。この現実に二人は戸惑い、これまで考えてきた、これからの人生の計画も崩れ去っていたのではないでしょうか。これからどうすればよいのだろうか。どのようにして生きていけばよいのだろうと、悩み、恐れたでしょう。

 そして、そのうえで、マリアとヨセフは、この現実を受け止めていったのです。生まれてくる赤ちゃん。イエス様を育てていこうと決心していったのです。悩み、苦しみ、自分たちの描いていた計画が崩れ去っていく中で、マリアとヨセフは、その現実を受け止めていったのです。この二人の決心によって、イエス様がこの世に来るという、恵みの出来事が起こされていったのでした。

 

3:  マリアとヨセフが選ばれた

 この時、なぜマリアがイエス様の母親に選ばれ、そしてなぜヨセフが父親と選ばれたのか。それは本当のところは、だれにもわからないのです。ただ、それが神様の御心であり、神様の御心の選びの中にあって、マリアとヨセフが選ばれたとしか言いようがないでしょう。

 二人が選ばれた理由は、こう言っては、マリアとヨセフに失礼なことかもしれませんが・・・二人が何かとても素晴らしい人間であったということではないでしょう。何か特別に頭がよかったということでも、財産をたくさん持っていたわけでもないのです。確かにマリアは天使からの言葉をそのまま受け入れていきました。そのような意味では神様を信じ、神様を信頼する信仰を持っていたということはできるでしょう。また、ヨセフを考えますと、ダビデの子孫とされるヨセフです。

 二人には少なからず選びだされる、理由があったといえば、このマリアの信仰と、ヨセフの家系があったかもしれません。しかし、これだけのことで、マリアとヨセフが、救い主イエス・キリストの父親と母親に選ばれたとすることはできないでしょう。ダビデの子孫とされる者はヨセフだけではなかったでしょうし、マリアの信仰は、当時ユダヤ人が持つ一般的な信仰であったと考えられるのです。

 

4:  新しい関係を作る時

 マリアとヨセフという二人は、いわゆる普通の人間、普通の二人です。ただ、一つだけ何か特徴があったとするならば、この二人は結婚を前に、婚約して、これから新しい人間関係を造り出そうとしていたということができるのです。そのへんにいそうな普通の人間である二人ですが、これからお互いに向き合い、近づき、そこに新しい、夫と妻という関係を生み出そうとしていた。その時であったと言うことができるのです。

 マリアにもヨセフにも特別な特徴はありません。しかし、そのような普通の人間が向かい合い、新しく人間関係を作ろうとしていたのです。イエス・キリストはこの二人の間に来られたのでした。イエス・キリストは、そのような関係を作ろうとする、お互いに向き合う人間の間にこそ、来られる方なのです。

 この時、マリアとヨセフが作りだそうとしていた人間関係の形は結婚という形です。しかし、それは一つの関係のかたちであります。イエス様が来られるのは、それが親子という形であっても、友達という関係であっても、また教会員としての兄弟姉妹としてという形であっても、人間が関係を造り出そうとするところに、イエス様は来られるのです。

 

 マリアとヨセフの二人は、これから新しい関係を作っていこうとしていました。二人は、これから共に歩んでいこうとしていたのです。新しい関係を作ろうとしていくときに、私たち人間は、時に、足を踏み外してしまうこともあります。お互いを理解せず、お互いを傷つけることもあるのです。そして人間関係を作っていくということは、お互いに傷ついても、そこから関係を修復して、もう一度向き合う。そんなことを続けて、少しずつ関係を作り上げていくのです。私たちは、時に道を踏み外し、間違えながらも、お互いに助け合い、支えあいながら歩いていくのです。

 それが弱さを持った人間の関係の造っていく道です。人間は、弱さを持つ、不完全な者なのです。何回も間違えを行うのです。特に、お互いを受け入れること、お互いに関係を作りだすということは、間違え、足を踏み外し、お互いを傷つけてしまうものとなるのです。

 イエス様は、そんな弱さを持ち合わせている、不完全な人間の間に来てくださったのです。イエス様は、そのような二人の人間がお互いを受け入れようとする中で、衝突する未熟さと、弱さに、そのような人間の間に来られたのです。

 

5:  神様に委ねる関係

 お互いに向き合う、新しい関係を作りだす中、そこにイエス様が来てくださった。その中でマリアはこのように言いました。ルカによる福音書1:38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

 「お言葉どおり、この身になりますように」。マリアのこの言葉は、自分でどうにかしようとするのではなく、自分の弱さを認め、そして、その弱さを、神様へと委ねていく祈りです。マリアとヨセフという二人の間に、イエス・キリストは来られました。それは、イエス様が人間の弱さの中に来て下さったという出来事なのです。

 

 私たちの生きる現代の社会は、お互いに対する愛、そして、お互いの信頼が、とても伝わりにくく、分かりにくい世の中になってしまったのではないでしょうか。ラインやメールのやりとり、フェイスブックやインターネットの掲示板といったものによる関係。それだけのやりとりで、信じている、信じていない、裏切った、無視をした、憎んでいる、ということが、簡単に突き付けられるのです。現代では、携帯電話のメールが返ってこないと、無視をされたと思い。そのために、メールを返すことにも、必死になっている。どこにいても、メールが打てるようにしているそうです。いつの間にか、メールのやりとりが、人間の信頼関係になってしまったのです。携帯電話をはじめとする様々な道具は、本来、人間の生活を豊かにするために作られていった道具です。人間が、豊かに生きるためにさまざまな道具があるのです。しかし、実際にはそんな道具によって、人間は縛られ、息苦しい生活を送ることになっているのです。

 テレビによって、パソコンによって、携帯電話によって、私たちは、豊かになったでしょうか。確かにとても便利になりました。しかし、便利にはなりましたが、それによって私たちは心の底から豊かな生活を送っていると言えるのでしょうか。私たちは、それら機械や道具一つ一つの使い方を間違えることによって、トラブルに巻き込まれ、信頼を失い、裏切られ、憎しみの渦に引き込まれていくのです。

 電波に乗せては、私たちの、信頼や、愛といったものはなかなか通じません。 

 

 今日、クリスマスの時に、私たちは、この世界に、そして、私たちが関わりあい、関係を作りだすために、その間に来られた方、イエス・キリストを覚えたい、そしてキリストに祈り、委ねていきたいと思うのです。イエス・キリストは私たちの間に来られました。キリストは、私たちがお互いの弱さを理解し、お互いに信頼し、愛し合うために来てくださったのです。わたしたちは、機械や道具を使う前に、まず、このイエス・キリストが、その関係の間に来てくださっていることを覚えたいと思うのです。そして、マリアが「お言葉どおり、この身になりますように」。と祈ったように、私たちも主に委ねて、おびえることなく、お互いに向き合っていきたいと思うのです。

 

6:  神様の願い

 神様は、私たちの間にイエス・キリストを送ってくださいました。神様は、私たちが、一人で生きるのではなく、他者と関わり、お互いを愛することを願っているのです。私たちは、お互いを信じ、愛し合うなかで生きるのです。そして、そのように関係を作っていくことを、神様は望まれているのです。神様はそのためにこそイエス・キリストを送ってくださったのです。

 クリスマスは、イエス・キリストがこの世界に、そして私たちの間に来てくださった出来事を喜ぶ時です。神様は私たちを愛されたのです。そして、私たちがお互いに愛し合うことを願い、その愛を、永遠の愛を、注ぎ続けてくださっているのです。私たちが、お互いに向き合い生きるということ。それは、もはや私たちが「わたしとあなた」という二人だけの関係として生きるのではないのです。イエス・キリストを通して、神様の愛を通して、お互いに向き合うのです。そこに神の愛が表されるのです。

 私たちは、このクリスマスの時に、今一度イエス・キリストによる愛を、共に、受け取りましょう。そして、その愛を共に喜び、共に分かち合い、新たな関係をもって歩き出したいと思います。(笠井元)