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2017.1.1 「新しく踏み出す一歩」 (全文) ローマの信徒への手紙5:1-11

1:  患難は絶望を

 今日の箇所で、聖書は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みだす」(3-4)と教えます。この言葉に対して、宗教改革者でありますルターは、このように語りました。「患難から希望に至る階段は、地上的に自明の事柄ではないのである。すなわち患難は焦燥(しょうそう)を生み出し、焦燥は、強情を生み出し、強情は絶望を生みだす。」ルターと言えば、「信仰によって義とされる」とし、カトリック教会から宗教改革を起こしていった人物です。そのようなルターが「患難は焦躁を、焦躁は強情を、強情は絶望を生み出す」と語ったのです。

 ある時ルターは、宗教改革運動における激しい迫害のために意気消沈して、希望を失いかけていた時がありました。その時、妻のカタリーナが書斎に黒い喪服を着て黒い帽子をかぶって入ってきたのです。ルターは驚いて、「誰が亡くなったのか」と尋ねると、妻カタリーナは「神様です」と答えたのでした。彼女は「もし私たちの神様が生きておられるなら、なぜあなたはそんなにまで失望するのですか。私たちは生ける神様の御力にすがって、どこまでも戦ってまいりましょう」とルターを励ましたのです。ルターは、宗教改革の働きを起こしていったほどの人物ですが、それでも私たち人間の信仰は、誰もが変わらず、困難にぶつかる時に、歩く道を見失ってしまう。そのような弱さをもっているのです。

 ルターは、聖書の言葉「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みだす」ということは、弱さを持つ私たち人間にとって、当たり前のことではないと言うのです。むしろ苦難は希望ではなく、焦躁を、つまり焦りと強情を生み出し、最後は絶望に向かうというのです。これは確かにその通りだと思いました。私たちは突然の困難の中で、それでもその先に希望を見ることができるでしょうか。むしろ私たちは困難に立ち向かう時に、心は絶望という悲しみに囚われていくのではないでしょうか。それが、この世にいきる私たち人間の姿です。私たち人間の価値観の中にあって、本来、苦難や患難は希望に直結するものではないのです。むしろ、苦難は焦りや苛立ちを生み出します。困難にぶつかったときには、焦り、苛立ち、ストレスを生み出します。そして、苛立ちは、強情を、強情は絶望を生みだすのです。人間は困難の中、艱難の中、本来は絶望へと向かう者である。それが、私たちの本来の姿なのです。

 

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みだす」(3-4) これはイエス・キリストのために、何ものにも恐れず、命をかけて福音を宣べ伝えたパウロの言葉です。キリストのために苦難の中で生き続けた人物の言葉です。そのためにこの言葉には重みがあります。ただこの言葉から、「私たちも困難のうちにあっても、耐えて耐えて、頑張れば、いつか希望がみえるだろう」とだけ考えることが本来の意味なのでしょうか。もちろん、キリストを中心に生きるためには困難があります。その困難に立ち向かうことは、大切なことでしょう。しかしこの言葉は、そのような教訓的意味だけにとどまる言葉ではないのではないでしょうか。

 聖書はこのようにも教えます。マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)また別の箇所では「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)とも語ります。聖書は、疲れること、泣くこと、苦しむこと。いわゆる困難には「立ち向かいなさい!」とだけ言っているのではないのです。むしろ「休ませてあげよう」とそして「共に泣き、共に困難の中を生きていこう」と言っているのです。

 

2:  受け入れがたい出来事

 だいぶ昔の話となりましたが、わたしが大学生の頃、友人の家族が事故によって亡くなりました。この出来事は忘れることはできません。友人といろいろと思い出などをしましたが・・・どのように受けいれていいのかわからない。いつか帰ってくると信じていた。神様が守ってくださると信じていた。ずっとお祈りして待っていた。だからこそ、信じていたからこそ、どうしてもやりきれない思いでした。このような突然の出来事を受け取ることは、とても難しいものです。

 聖書は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(3-4)と教えるけれど、このような出来事、突然の困難のその先に希望が待っているとは思うことはできませんでした。

 

3:  わたしがあなたの痛みを担おう

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(3-4)という御言葉には続く言葉があります。

 ローマ5:6-8「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(6-8)

 私たちが、苦難の中にあって、希望に向かって歩いていくために、神様は私たちを愛された。それはイエス・キリストが死なれるというかたちで表されたのです。これが、神様から与えられた、希望です。私たち一人一人のためにイエス・キリストは死んで下さったのです。そしてその十字架の上で、神様の愛を表されたのでした。イエス・キリストは「私が共に泣こう」と語ってくださっているのです。私たちが苦しみ、困難の中で立ち尽くすときに、絶望の中で、もはや生きることすらできないと思う中で、イエス・キリストは、その苦しみを共に受け取り、共に苦しんでくだっているのです。キリストは、私たちの心が苦しみで壊れてしまいそうなときに、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語ってくださっています。

 「あなたは一人ではない。私があなたの痛みを担おう。あなたは、ここから一人で立ち上がるのではなく、私が共に生きていく。だから、一緒に生きていこう。」「わたしはいつもあなたと共にいる」と言ってくださっているのです。

 

 この世には理不尽なことがたくさんあります。突然の死。突然の病気。また東日本大震災や熊本の地震など自然災害による苦しみ。これら「なぜですか」と思う、出来事に対する何か納得できる答えがあるでしょうか。また様々な理由を教えられても、私たちは心から納得できるのでしょうか。主は、私たちが自分では理解することができないような痛みの中にあるときに、「なぜだろう」と思う私たちに、その理由を教えて納得させられるのではなく、一緒に痛み、苦しんでくださるのです。これが、神様が私たちに与えてくださった愛であり希望なのです。

 

4:  新しい一歩を踏み出す

 わたしたちは、苦難に出会う中、焦り、苛立ち、ストレスを感じ、頑固になり、強情になり、絶望へと落ちていってしまうことがあるでしょう。このとき私たちが落ちていく絶望の着地点は、「私は自分一人だ」と、「誰にも理解されない」と、「私の痛みはだれにもわからない」という孤独感なのではないでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、ガリラヤ湖の真ん中で、突然の嵐が襲ってきた時に、イエス様が一緒にいるのに、イエス様に助けを求めませんでした。必死になって、水をかきだしたり、帆を畳んだり、船がひっくりかえらないように、自分たちで努力をしたのでした。また、ペトロは、イエス様を信じて、湖の上を1歩2歩、歩いていくうちに、足元を見て、イエス様から目を離してしまい、沈みそうになってしまったのでした。

 私たちが自分の力により頼んでも、自分の力で一歩進みだそうとするときに、そこには、挫折と、焦りと、苛立ち、最後には、絶望という筋道しかないのです。

 そのような私たちに聖書は語ります。ローマ5:9-11「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(9-11)

 

 神様は私たちを愛されています。私たちはこの愛につながりましょう。神様の愛は、不信心な者、罪人であった時に、すでに与えられた、神様による恵みです。イエス・キリストが共にいてくださるということすらも、信じることができない、そのような私たちを受け止めてくださっているのです。イエス・キリストは、私たちのために、祈り続けてくださっています。私たちが困難の中で苦しみ、嘆きの中で生きる時に、イエス・キリストの十字架の苦しみは続いているのです。イエス・キリストが血を流されながら、私たちのために祈る、祈りも続くのです。私たちは、このイエス・キリストの祈りの中で生きるのです。私たちの希望は、イエス・キリストの十字架と復活に基づくものです。この希望が失望に終わることはないのです。「希望はわたしたちを欺くことはない」(5)のです。私たちは、ただただ、イエス・キリストが共にいてくださることだけを、信じたいと思います。

 そのときに、わたしたちは人間としての当たり前の価値観、困難が絶望を生み出すという価値観から・・・困難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望をうみだすという、神様の愛、キリストを土台とした希望の道を見出すのです。希望への道を見出すのです。希望への道。その一歩一歩を主イエス・キリストは支えて下さっています。この希望に向かうための忍耐は、イエス・キリストが共に痛み、悲しんでくださっているという十字架の上にあるのです。私たちは、ただ十字架の主イエス・キリストの愛にしがみついていきたいと思うのです。イエス・キリストにしがみついて、痛みの中であっても、新しい一歩を踏み出しましょう。キリストは私たちと共に生きて、共に歩き、必ず新しい道を開いてくださるのです。

 

 私たちはこれから新しい1年を歩き始めます。その中では、毎年のことですが、いろいろな困難や痛みがあることとなるでしょう。それでも、私たちは、そこに主イエス・キリストが共にいてくださる。祈っていてくださっている。一緒に苦しんでおられるということを覚えて。どれほどの困難に出会うことになっても、一歩一歩、神様に向かって確実に進んでいきたいと思います。私たちは、ただイエス・キリストの十字架と復活に希望を持ち、そして確信を持ち、委ねて、新しい一歩を踏み出していきたいと思います。(笠井元)