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2017.1.22 「悔い改め:イエス・キリストを受け入れよ!」 (全文) マタイによる福音書3:1-12

1:  先駆者ヨハネの登場

 マタイによる福音書では、これまで1章、2章とイエス様の誕生について語られてきました。そして今日、3章においてバプテスマのヨハネが登場します。

 バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者として、3節に「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とありますように、「主の道」を整える者として、この世に来たのです。このバプテスマのヨハネの存在が、初期キリスト教においてどれほど大きなものであったのかは、様々なところから見ることができます。その一つとして、実は、イエス様の誕生については、マタイとルカという2つの福音書にだけしか記されていないのに対して、バプテスマのヨハネについて、またバプテスマのヨハネからイエス様がバプテスマを受けたということは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つすべての福音書に記されているのです。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたのです。また、実際イエス様の一番弟子、ペトロの兄弟アンデレは最初はヨハネの弟子でした。そしてヨハネからイエス様に従う者とされていったのです。

 4つの福音書のすべてに登場するバプテスマのヨハネですが、その中でも今日読みました、マタイによる福音書では、イエス様とのつながりを強く記しているのです。

 

 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)と教えました。この言葉はイエス様の福音の初めに語られた言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)と全く同じ言葉なのです。このようなことからも、イエス様を救い主、キリストと信じる者たちにとっても、このバプテスマのヨハネの存在は重要なものであったのです。確かに、このバプテスマのヨハネがイエス・キリストの先駆者であり、道を整える者なのでした。 ヨハネの行った「道を整える行為」の、その一番の出来事として、水によるバプテスマ、「罪の悔い改め」の行為を見ることができるのです。この悔い改めのバプテスマは、実際イエス様も受けられたのです。

 罪の悔い改め、罪に対する清めは、当時のイスラエルにおいて、それは昔からの律法にある行為としても行われていたものでした。しかし、それは、人生において何度も行われる行為だったのです。つまり、罪を犯せば、そのたびに、清めの儀式を行うということでした。それは、簡単に言えば、罪の赦しは、人間の行う儀式によるものによって、神様からの罪の赦しが与えられるというものとなっていたということです。そこにはもちろん「悔い改め」が心のうちにあったでしょう。しかし、あくまでも人間の行い、儀式によって罪の赦しが与えられるものとなっていたのです。

 清めの儀式は、確かに罪を犯した人間の心を癒します。わたしたちが罪を犯した時に、一番苦しいのは、罪を犯したということに対する自己嫌悪。自分を受け入れられなくなっていくことではないでしょうか。自分で反省し、だれかが「あなたはもう赦されている」と言ってくれても、自己嫌悪、「自分はまだ赦されていない」「こんな自分に価値があるのか」という思いから抜け出せない時に、その心は罪から解放されないのです。そんな自己嫌悪の思いに囚われているときに、清めの儀式は、とても心を軽くしてくれます。「このようなことをすれば」「この儀式があなたを清めます」と言われる時、私たちの心は、少しは解放された気持ちになるでしょう。

 しかし、今日の箇所において行われる、バプテスマのヨハネによるバプテスマの行為は、そのような一時的な、何度も行われる人間の心の解放のためのものではなかったのです。バプテスマのヨハネの行うバプテスマは人生において決心の「悔い改め」の行為でした。バプテスマによる「悔い改め」は、人間が自分の人生のうちにあって、一つの決断をして、決心して、新しい道を選びとり生きることを教えているのです。

 このバプテスマによる悔い改めの行為は、人間の行為によって何度も何度も清められるという行為とは、根本的に違う行為なのです。バプテスマによる悔い改めは、生き方全体を変えることなのです。基本的に人間が自分の思いや行いで自分を清めるという、いわゆる自分を主体とした生き方から、神様の愛と赦しを人生の中心にいただく行為。つまり神様が主体となった生き方に変えていくこと、そのための悔い改めなのです。バプテスマのヨハネとイエス様の一番のつながりは、ここにあるのでしょう。

 

2:  さまよっている者 

 バプテスマのヨハネは「悔い改めよ!」と叫びました。これは新しい道への招き、歩く道の方向転換を勧める言葉です。

 私たちは、自分の人生において、今、自分がどこにいるのか、見出しているでしょうか。最近では、歩きながらでも、スマートフォンで、地図を検索して、今、自分がどこにいるのか、ここからどのような道を進めばいいのかということは簡単にわかるのです。しかし、人間の人生において、自分の位置や進むべき道は地図やGPSなどによっては見つけ出すことはできないのです。

 私たちは、自分の価値観において、喜びに満たされているときには、幸せだと思うでしょう。そして、何か困難や壁を乗り越えたときには、自分は力がある者だと思うのです。また、困難にぶつかっているときには、自分は不幸な者だと思い、自分が何かに失敗したときは、自分は無力だと感じるのではないでしょうか。ある意味、わたしたちは、そのような道を繰り返して歩いているのでしょう。このような道を歩んでいるとき、その立ち位置は、なんとも不安定で、不透明なものと言えるのではないでしょうか。私たちは、自分がどこにいて、これからどこに進めばよいのか、わかっているのでしょうか。バプテスマのヨハネは、そのような者に「悔い改めよ」と叫んでいるのです。

 

 ヨハネは荒野に現れました。この荒野とは、聖書では様々な意味を表します。荒野はもともと「さまようところ」、「乾ききった場所」であり「孤独」の象徴としての場所です。荒野にいることは、「心が乾ききった心」であり、「孤独」に生きることを表すのです。荒野は確かになにもなく、乾ききった場所なのです。私たちが生きている場所。それは分かっているようでわかっていない。明確なようでとても不明確なものです。つまり「さまよい歩いている」、荒野のようなところにいるのです。そして心は乾ききっている。これが現実のわたしたちの生きている立ち位置、生きている場所「荒野」なのです。しかも、これに加えて、もっと大変なのは、自分がそのようなところにいるとは気づいてもいないということ。むしろ、私たちは、自分は自分がどこにいるのかよくわかっている、自分のことは自分がよくわかっていると思い込んでいるのです。

 先日、ちょっと自分が熱っぽいと思って、熱を測ってみたことがありましたが、佳子さんに「これは風邪だな、自分の体は自分が一番よくわかるんだ。これは熱がある」と言って、実際、測りおえると、まったく熱はなかったということがありました。「自分のことは自分がよくわかっている」。そのように豪語していただけに、とても恥ずかしかったですが・・・これが人間なのでしょう。自分の事は自分では全然わかっていないのです。私たち人間は、だれもが本当は「さまよい」、「乾ききった心」を持ち、「誘惑」の中でどこに進んでよいのかわからないでいるのです。

 

3:  荒野からの道

 バプテスマのヨハネはこの「さまよいの場、荒野」において「悔い改め」を叫んだのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫んだのです。荒野は、「さまよい」、「孤独」で「乾ききった場所」です。バプテスマのヨハネは、その乾きの場にあって「悔い改めよ!」と叫んだのです。それは、「自分のいる場所に気が付きなさい」という叫びでもあります。「自分がどれほど弱っていて、さまよい、心は乾ききっていることに気が付きなさい。」その「自分の弱さを認め、そこに目を向けなさい」と教えられているのです。それが「悔い改めよ」という言葉の意味です。そしてこの叫びこそが、新しい道への招き、歩く道の方向転換を勧める言葉となるのです。

 バプテスマのヨハネは荒野に現れました。しかし、荒野が終点ではないのです。荒野はずっと留まり続けるところではなく、希望の地、約束の地へ向かう道なのです。神様が共に歩き、神様の御許へと歩む道。それが荒野なのです。聖書では、この「乾ききった荒野」からの解放を教えているのです。神様は荒野にいる人間を導き、荒野から抜け出し、解放する場所として記されているのです。荒野は確かに、さまよい、孤独を感じ、乾ききった心の道です。しかし、神様は、そこに留まることを教えているのではありません。この道を歩き、希望へ向かうことを指し示しているのです。

 

 ヨハネは、「悔い改めよ!」と叫びました。それは、荒野をさまよい歩く私たち人間に、その生きる方向と、目的を示しているのです。わたしたちは自分がどこを歩いているのかもわからない弱き者です。神様はそのような私たちに、歩く道を示されているのです。今日の箇所7節から、このように記されています。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(7-10)

 ファリサイ派とサドカイ派といえば、当時のイスラエル・ユダヤの大きな二つの勢力でした。つまり、「我々の父はアブラハムだ」と信じていた者、「自分たちはアブラハムの子としてふさわしい」、「自分たちは神様の前にあって正しい者である」「自分たちこそが救われるのだ」と考えていた人々を表すのです。当時のイスラエルの社会において、ファリサイ派とサドカイ派の人たちは、自分たちこそが救いに与るのにふさわしいと信じており、だからこそ、そのほかの人たちは罪人だと考えていたのです。聖書では徴税人や罪人と関わるイエス様を批判したように、罪人と関わることすらしなかったのです。バプテスマのヨハネは、このような者に対して、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(8)「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(9)と言うのです。

 これはファリサイ派やサドカイ派の人々に対する警告であり、新しい道を歩き出す必要を求める言葉でした。それは「自分は救われている」と信じて疑わず「あの人は罪人だ」と考えるのではないのです。むしろ自分の弱さや乾ききった心と、きちんと向き合うことを教えているのです。

 そして11節からこのように教えます。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(11-12)イエス様の先駆者としてこの世に来たバプテスマのヨハネは、救い主イエス・キリストを指し示すのです。バプテスマのヨハネは「わたしよりも優れた方がこられる」と教えます。これが、ヨハネが指し示した、罪よりの解放のための道、荒野からの解放の道でした。

 

4:  悔い改めよ! イエス・キリストを受け入れよ!

 バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しました。バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者として「悔い改め」を語りました。そのうえで、バプテスマのヨハネとイエス・キリストの最大の違いは。ヨハネは、その道を指し示し、イエス・キリストは、その道を造られたということです。イエス・キリストは、自らを投げ捨てて、すべての人間の救いの道を造られたのです。

 

 私たちがどれほど悔い改めても、どれほど悔やんでも、得ることのできない心の安らぎ、平安。乾ききった心に注がれる愛。イエス・キリストは、私たちの乾ききった心にその愛を注いでくださったのです。「悔い改める」ということ、それは乾ききった心に注がれている愛をいただくことです。そして、さまよい続ける私たちのところまで来てくださり、その道を共に歩かれる方を知ることから始まるのです。悔い改めは、神様の出来事であり、イエス・キリストを先頭として開かれた道なのです。私たちが歩き出す新しい道、悔い改めの道は、主イエスの十字架によって造りだされた道なのです。主は、自分の身を投げ捨ててまで、私たちを神様に導く道を造られたのです。

 神様は、イエス・キリストによって悔い改める道を作られました。私たちは、この道を歩き出したいと思います。それは、ただただ注がれている愛をいただく道。主イエスが共に生きて、歩いてくださっていることを信じて歩き出す道なのです。神様はさまよい歩く私たちに希望の光を示してくださったのです。私たちは、このイエス・キリストを心に受け入れましょう。そして渇ききった心に来てくださる主と共に歩き出しましょう。そこに生きる道を見出すことができるでしょう。