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2017.2.18 「主に従う決断を迫られる時」 ヨハネによる福音書8:21-30

1.「わたしはある(エゴーエイミイ)」~「自分の罪のうちに死ぬ」

 「わたしはある」(エゴー エイミイ;マルコ136節では「わたしがそれだ」。ヨハネ1319節「わたしはある」)これは “イエスこそが”大切であることが言われていると思います。

 「罪」は、キリスト者にとっても受け入れることが難しいものです。聖書の伝える罪とは、自分の選択によって神のもとから離れてしまった人の罪です。その私たちの罪をイエス様はその身に負って十字架にかかってくださいました。私の罪の結果である死というものはイエス様の前に滅ばされてしまっているという喜びは、やはり罪をはっきり認めることと共にあるべきなのです。

 

2.わたしは去って行く~限られた地上での時間

 イエス様しか行けない場所、それは十字架上の死です。私たちすべての人のために十字架にかかりご自分の命を捨て私たちを贖うこと。これは私たち人が願ってそうなったというのではなく、神様が決断してくださったものです。私は去って行く(ego(わたしは) hyupago(去りゆく)=主語+現在形=相当に強い意思、神御自身の決断の強調)

 イエス様であってもこの地上での命は限られたものであったことから私たちひとり一人がこの世に命をいただき生きていることが、いかにかけがえのないことであるかが分かります。限りある命ですが、かぎりあるからこそ生きている瞬間瞬間を感謝して生きて行きたいと思わされます。

 

3.主に従って生きる

 イエス様は御自分が遣わされた者であると言います。そして御自分をお遣わしになった方から聞いたことを、世に伝えているのです。イエス様が天の父なる神に従っていたことが分かります。従うといっても主人と奴隷のような関係ではなくて、仕えることの中に豊かで対等な交わりが作られるような関係です。私たちはイエス様が父なる神に従順であったように、神に対して従順でありたいと願います。それは自分で何も考えずにただ従うというのではありません。神が私たちに下さった自由(意思)を、神様が望むような形で用いるということです。

 

4.今は分からなくても

 弟子たちはイエス様と共に生活をしていても意味の分からないことが多かったのですが、イエス様の十字架の出来事を経て、復活の主に会うことによって、イエス様が生きていたときにおっしゃったこと、なさったことの意味がそれまでにはなかった光に照らされて明らかに見えるようになったのです。

 今は分からなくても、あなたがたは後から理解するようになる、というイエス様の約束に私たちも信頼して歩んでいきたいと思います。

 

5.多くの人々が信じた

 今日の箇所全体を通してここを読む私たちが促されるのは、この信仰の“決心”であり、イエス様とお会いし、イエス様を信じ従う、という決意を促されるには、その決定的な時があるということです。主は私たちの決断を待っておられます。主に従って今日も、その時その時を生きて行く、という決断を新たにしていきたい、いついかなる時にもイエス様は共におられるということを確信して日々歩んでまいりましょう。(酒井朋宏)