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2017.4.2 「キリストに結び合わされて」 (全文) エフェソの信徒への手紙4:7-16

 今日から新しい年度が始まります。今年度はまだ案ですが、教会の標語を「キリストに結びあわされて」と考えています。そして主題聖句として、今日、読んでいただきました箇所の最後の聖句、エフェソの信徒への手紙4章16節を考えています。もう一度お読みします。

 「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(16)

 昨年度の標語は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という言葉でした。そして主題聖句としてⅠコリント12:27~28「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」という聖句だったのです。今年の標語は、昨年度の「キリストの体としての教会」というイメージを残しながら、もう一度「キリストという頭」を見上げて、「キリスト」という方向性に力点を置いていきたいと考えました。また、聖句は、今年はコリントの信徒への手紙からエフェソの信徒への手紙へと移ります。今年の聖句を考えているときに、イメージとして「一致」「教会の体」という思いを残すという意味で、もう一度コリントからということも考えたのですが、何度も考えた結果、エフェソの信徒への手紙に変更しました。

 このエフェソの信徒への手紙は、一つには、エフェソの教会に向けて記されたとも考えられていますが、また別の解釈としては、この手紙のあて先は、小アジアのいくつかの教会で回覧された手紙だとも考えられています。そのような意味で「キリストの体としての教会」とされていくということは、コリントの教会においても、また、エフェソの教会においても、またその他小アジアにおける教会、キリスト者に向けて大きな課題であるということを教えられるのです。ある意味、キリストの教会にとってはいつまでも続く壮大な目標、方向性、それが「キリストを頭とした体としての教会とされていく」ということなのだと感じるのです。

 今年は、このエフェソの信徒への手紙の言葉、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(16)という聖句を土台に、「キリストに結びあわされて」いくということを、特に中心において共に歩んでいきたいと思います。

 

1:  一つとなること

 今日の箇所は、今日は7節から読んでいただきましたが、内容としては1節から続く言葉となります。その意味で、まず1節からの言葉について見ていきたいと思います。

 一度お読みします。エフェソの信徒への手紙4:1-6

 「1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

 ここでは「一つ」となることが語られます。中でも「体は一つ、霊は一つ、一つの希望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」という言葉は、教会として、そしてキリスト者として、一つとなることを強く教えています。この言葉の後として、今日の箇所となりますが、今日の箇所の最初となる7節では「しかし」という言葉から語られるように、これまで「一つ」と教えていたところから、「ただ単純に同じもの、一つ」となることではないことを知らせるのです。今度は「一人ひとり、それぞれの恵みが与えられている」と語るのです。 ここで「一つとなること」は、ただ同じ者となることではないということです。むしろ「キリストを頭として一つとなる」ということを土台としながらも、それはそれぞれに違う「恵み」「賜物」が与えられていることを教えるのです。

 この後、11節からそれぞれに違う賜物として、使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師という具体的な賜物が示されます。一致するためにこのようにそれぞれの賜物が与えられているということです。教会がキリストの体とされていくためには、使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師という教会における組織的役割が必要だということでしょう。教会が「キリストの体」となるという一つの目的を目指して働いていくために、そこには固定された職務が必要なのです。指導する者、伝える者、痛みを分かち合う者、教える者、学びを深める者と、それぞれに大切な職務があるのです。

 私たち東福岡教会では先週任命式を行いましたが、牧師、協力牧師、執事、教師、教会学校教師、またその他各会のリーダーを指していると考えられるでしょう。そしてまた、任命式のときにも言いましたが、なによりも、大切なのは、このような職務に選び出した方は神様であり、同時に、教会員の一人ひとりであるという自覚をもつことです。わたしたちは、それぞれがそれぞれに応じて神様から賜物を与えられているのです。それは「キリストの体を造り上げる」ための賜物です。教会は様々な働きの上に成り立っていますが、その目的は、礼拝すること、祈ることです。たしかに組織として動いていくための役割として、様々な職務を必要とするのですが、その組織自体が、なによりも礼拝すること、祈ることのためにあるということを覚えましょう。

 

2:  奉仕の業 祈り

 この奉仕の業として、一つの具体的例として、今日の箇所の直前の箇所となります、3章14節からの箇所から学ぶことができます。

 3章14節からの箇所を読みたいと思います。「14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

 今日の箇所、それぞれの賜物をいただいて「一つとなる」というテーマの手前にここで、祈りが記されています。ここに祈りがあることはとても大きな意味があると思うのです。わたしたち人間は「一つとなる」ことができるのでしょうか。それぞれ違う者でありながら、その豊かな個性を理解しあい一致するということは、言葉で言うのは簡単ですが、実際には、わたしたちは目の前にいる隣人一人とでも、理解しあうことの難しさを感じるのではないでしょうか。ここでは、その「一つとなる」ために、そしてそれは「奉仕の業を行う」ための土台として、まず「祈り」が必要だと教えているのです。祈りのうちに教え、祈りのうちに励まし、「一つとなる」ように勧めているのです。

 

 この祈りを見てみますと、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(17)」そして「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(18-19)という祈りの言葉があります。このキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、それは私たちの思いを超えている、どこまでも広く、どこまでも長く、どこまでも高く、どこまでも深いものであるのです。そしてこのキリストの愛は「仕える」という姿で表されたのです。キリストは完全に奉仕する者として生きられました。私たちが仕える者となるということは、このキリストの愛を心にいただくことから始まるのです。キリストによって与えられている愛、仕える思い、奉仕の心をいただくのです。そして祈りは、私たちの思いを超えた神様の思いに委ねること、苦しくても、自分の無力を感じているときでも、神様の働きは偉大であることを信じる信仰の行為、それが祈りです。わたしたちは、最後にはキリストの愛に信頼して、祈るしかないのです。

 

3:  成熟する

 そして、このキリストの体を造り上げる、信仰共同体の祈り、お互いを思い、祈ることは、神様がこの世に神の国を創造する偉大な計画につながるのです。

 13節ではこのように語ります。「13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」ここでは神の子に対する信仰と知識において一つのものとなることを成熟した人間と語ります。信仰と知識とは、キリストが与えてくださる信仰であり、知識であります。人間が成熟した者となることは、キリストによる信仰をいただき続けること、そしてその知識を受け続けることになるのです。

 成長には、様々な姿があります。この東福岡教会には、附属の幼稚園がありますので、幼稚園の子どもたちと、毎日、顔を合わせています。先日年長さんは卒園しました。今週の土曜日には入園式行い、新しい子どもたちを迎えます。幼稚園の子どもたちを見ていると、本当に、それぞれに成長するということがまったく違うことを教えられます。 ある子は、年齢を重ねることで、座ること、話を聞くことが上手になり、他者の心を理解しようとする子もいれば、これまで自分らしさを出すことができなかった子が自分らしさを出すことができるようになり、その姿が「わがまま」に見えることもあります。また、子どもが嘘をついたり、隠し事をすることも一つの成長です。うそをつくことができることは、先生や親が何を考えているのか、わかっているということです。ある意味、大人から見れば、良い子に見える子となっていく子どももいれば、言うことを聞かない子になっていくこともあります。しかし、どちらも確実に成長しているのです。

 そのような意味で、キリストによる成熟も、またさまざまな形があるでしょう。それこそ、その賜物によって違うのだと思います。しかし、その目的は一つです。「キリストの体を造り上げること」、そのために仕える者とされていくことです。そのために、ある者は教え、ある者は聞き、ある者は伝え、ある者は、ひたすら祈り生きていく。ただただ生きていることでも、心にキリストを迎え入れる時、十分に「キリストの体を造り上げる」その一人とされるでしょう。

 

4:  補い合う

 最後に、今年度の主題聖句となります16節を読みたいと思います。「16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

 私たちの頭はキリストです。私たちはこのイエス・キリストに向かって歩き続けるのです。そして、頭なるキリストは、お互いに愛し合いなさい、仕えあいなさいと自らの人生を通して表してくださいました。そして、ここでは「補い合うこと」を教えます。

 この東福岡教会の今年度の目標のひとつとして「補い合うこと」を考えたいと思うのです。「補い合う」こと。それは他者の弱さを知り、そのために祈ること、そして支えあうことです。そして同時に、祈っていただいていること、支えて頂いていることを知り、感謝することでもあるのです。私たちは隣人の弱さを知ったときに、その弱さをどのように思うのでしょうか。そして、自分の弱さを知る時に、何を考えるのでしょうか。「礼拝に来ることができていない」「祈祷会に来ていない」「話しにくい」「奉仕をしていない」など、このようなことだけが人間の本当の弱さではないと思うのですが・・・わたしたちは他者がどうこうということもそうですが、まず「自分はできていない」と感じて負い目をおっていないでしょうか。

 私たちは、まず神様に愛されていることを心にいただきましょう。何もできなくてもいいのです。ただ、それでも、何もできないと負い目を感じるのではなく、そのために祈っている兄弟姉妹がいることを、何よりもイエス様が祈ってくださっていることを、感謝しましょう。そういう意味では、何もできないということではない。感謝しましょう。私たちは補いあうことによって生きるのです。補い合って信仰を持ち続けるのです。そして補おうとしている兄弟姉妹がいるのです。わたしたちは、神様に信頼し、そして兄弟姉妹を信じて、自分の弱さを支えて頂きましょう。そしてこのような関係を感謝しましょう。そしてそのために、自分の弱さを伝えていきたいと思うのです。弱さを知らせる勇気を持ちましょう。

 

 私たちはそれぞれ、「分に応じて」賜物をいただいています。できることもあれば、できないこともあるのです。だからこそ私たちは、お互いに足りないところを補い合うことによって、キリストの体とされ、成長する教会とされていくのです。私たちは新しい1年、「補い合うこと」を考えたいと思います。「補い、支えあう」ことの大切さ、そして「補ってもらうこと、支えていただくこと」の喜び、感謝、祈りを覚えたいと思うのです。そして、その土台にキリストがいてくださるということを日々、覚えて、このキリストに信頼して祈っていきたいと思います。(笠井元)