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2017.7.30 「福音の前進を喜ぶ」 (全文) フィリピの信徒への手紙1:12~18

 「どうしてこうなるの?!」と言いたい「損な役回り」を与えられる人がいます。ある人は、学生時代は、70年安保で大もめで、学生運動に顔を突っ込み、満足に就職ができず、風来坊、色々な仕事をやってはみた。ようやく久留米でパン屋になって成功したと思ったら献身の想いが与えられやむなくパン屋をしめた。そんな話を大学のチャペルでなさいました。「どうしてこうなるの?!」ところが彼が神学部を卒業し、牧師になった途端に病気になり、半年後に牧師を辞めざるをえませんでした。私は彼と彼の配偶者の「どうしてこうなるの?!」という、喜びと呻きが混ざったような言葉を忘れることができません。確かに「損な役回り」ばかりが回ってくる人がいるのでしょう。使徒パウロは現在、牢屋に繋がれています。投獄されることは、それがどのような理由にせよ、名誉なことではないでしょう。しかし、それを「福音の前進」という視点によって喜んでいる人がいるのです。今日読んでいる箇所には、パウロが監禁され、それがかえって、兵営においてキリストを証しする機会となったこと、パウロが教会に不在となった時に、ある問題は生じたのですが、しかし、パウロの替わりに伝道しようと立ち上がった教会員がいることを喜んでいる姿が描かれています。鍵になる言葉は「福音の前進」です。

 フィリピの信徒への手紙は、12節からいよいよ本文に入ります。

 

1.「わたしの身に起こったこと」

 パウロはまず、エフェソにおいて、彼の身に起こったこと、つまり、獄中で監禁生活を送っていることを報告しています。何年か前、エフェソを訪問しましたが彼が暴動に巻き込まれた円形劇場は残っていますが、牢屋の場所ははっきりしていないようでした。牢獄に監禁されることは、この世的には不幸なことであり、福音が妨害されている、福音が後退しているように思えます。私はいまだ投獄されたことはありません。戦争中、当時の軍国主義に妥協せずに投獄されていた安藤仲市先生の話を聴いたことがありました。キリストを証するため1日中正座をしていたそうですが、何と言っても恰好が悪いのは着物というか寝間着の帯がないことだったそうです。首を吊るといけないからです。そこで、彼は着物の前を押さえながら正座し、生活した。それがなんとも不便であったとのことです。「奇妙なことに拘るなあ」と思いましたが、歴史におけるキリストの証人の佇まいには襟を正されます。ともかく、監禁生活は大きな苦痛でしょう。私たちの人生もまた淳風満帆というわけにはいかずに、紆余曲折があります。嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。一体どこから生きる勇気、ささやかな努力をする力がもらえるのでしょうか?!投獄という「わたし(パウロ)の身に起こっていること」、そこからどのような意味を引き出せるのでしょうか?これがしばしば、私たちの問いであり、呻きなのです。

 

 

 

2.「福音の前進」

 しかし、パウロはこの投獄されるというマイナスに見える経験が「福音の前進」に役だっていると喜んでいます。パウロは彼の人生で起こるすべての出来事を「福音の前進」との関わりで考えているのです。「福音の前進。この言葉は私たちが、「福音を押し進めること」とも翻訳できます。「前進」「進歩」という言葉は、25節にも登場し、口語訳では、「あなたがたの信仰を進ませ」とあり、新共同訳では「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」と翻訳されています。また、Iテモテ4:15では「あなたの進歩(前進)はすべての人に明らかになるでしょう」と言われています。こうして、この「前進」という言葉は、パウロや弟子たちの努力が福音を前進させるとも解釈できます。しかし、13節では、「キリストにおいて明らかになる」と言われています。新共同訳では「キリストのためであると知れ渡り」と翻訳されていますが、ギリシヤ語では、「キリストにおいて」です。その言葉を考えますと、パウロがここで言っているのは、福音自体に力があり、「福音自体が前進」すると言いたいのであろうと思います。「福音の前進」。ことがらは、見方によって物事が違って見え、違って評価されます。転んでもただでは起きないパウロです。「福音は前進する」。すべてをこの視点で考えます。

 

3.「福音の前進」の具体

 福音の後退に見えるパウロの獄中生活は具体的には2つのことで「福音の前進」に繋がっているとパウロは言います。第一には、彼は、悪事を働いて投獄されたのではなく、福音を宣教したこと、キリストへの熱愛のために捕縛されているということが兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、良い証の機会となったからだと言います。なるほど、そういう面がありました。第二には、教会の兄弟姉妹たちが、パウロの確固たる姿勢によって励まされ勇敢にパウロに替わってみ言葉を語るようになった。パウロが、宣教活動ができないなら、自分たちで伝道しようじゃないかと考え、行動する信徒たちがいたのです。だから福音は後退しているのではなく、着実に前進しているとパウロは言います。私が神学校を卒業して赴任した瑞穂教会は、私が辞任してスイスに旅立ったあと、半年間の無牧師時代がありましたが、外部から説教者を呼ばずに、すべて信徒たちが説教し、礼拝を担ったと聞いています。これは教会員の力というより、福音自身の前進する力、推進力であると信じています。あらゆる出来事を福音との関係で理解すること、あるいは「福音の前進」と理解すること、ここに、私たちの生きる勇気、ささやかな努力をする力の根拠があるのです。

 

4.「兄弟たち…知って欲しい」

 パウロは、「兄弟姉妹たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役だったと知ってほしい」とパウロは書きます。「知って欲しい」。パウロがここで言うのは、パウロがすべてを「福音」との関係で、「福音の前進」との関係で考えるように、フィリピの信徒たち、そして、私たちも自分の人生、自分の身に起こること、それが何かの後退、マイナスに思えることでも、それらを福音との関係、「福音の前進」との関係で考えて欲しいと願っているのです。福音はこのように、私たちの人生の価値基準を根底から覆すのです。パウロが捉えられれば、福音が後退するのではなく、「福音はさらに前進」すると理解して欲しいということでしょう。パウロの関心は自分がどうこう、他者がどうこうということではなく、「福音の前進」であり、福音はそれ自身の力によって前進するのです。13節には、「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と言われています。原文は、「キリストのために」というより、「キリストにおいて」であす。もし、「キリストのために」と理解すれば、捕縛の理由は何か罪を犯したからではなく、キリストを宣教したために逮捕されているということでしょう。これを原文のように、「キリストにおいて」とそのまま翻訳しますと、監禁というマイナスの出来事、パウロの人生で起こるあらゆる出来事をキリストの光の下で」、「キリストの愛と義の支配の下で見る」ということになります。パウロが良いたいことは、フィリピの信徒たちもパウロのように、すべてのことをキリストにおいて解釈、理解して欲しい」、「兄弟たち、このことを知って欲しい」ということになります。私はこのような解釈が良いと思います。この世的には後退しているように見える現実で、しっかり、落ち着いて生きることは大変でしょう。日本社会は人口も減り、超高齢社会に突入しています。今までの経済成長から少しずつ後退していくことは難しく、今ではほとんど聞かれなくなりましたが、アベノミクスとやらで、依然と経済成長をさせようとした無理が来ているようです。私自身で言えば、来年4月からは年金生活で今までの収入の3分の1あるいは4分の1で生活するのはちょっと難しいでしょう。体力も気力も衰えてきます。でもそのような一見「後退」にみえる状況の中でも、豊かに生活する「術」があるに違いありません。「福音は前進する」、その確かさが確認されれば、少し後退することもさらに豊かに生きるきっかけとなるに違いありません。「兄弟姉妹たち…知って欲しい」とパウロは祈ります。そうであれば、私達も、たとえ後退していくように見える人生を豊かに生きることができることを知りたいと思います。

 

5.「主にある」こと、そして、2つの反応

 同じような問題が、14節の「主にある」にも言えます。新共同訳は「主にある」を兄弟にかけて、「主に結ばれた兄弟」と読んでいます。口語訳は「主にある」を確信にかけて、「主にある確信」を得、恐れることなく、と理解しています。パウロと同じ主にある兄弟姉妹たちだからパウロの捕縛にめげずかえって、一層、恐れずにパウロの代役を果たしたという意味か、あるいは、「主にある確信」とすれば、このような理解を与えてくれたのは人間的確信ではなく、主イエスから与えられた確信であるということになります。

 いずれにもせよ、パウロが捕縛された出来事に対して2つの反応があったようです。「鬼のいぬ間に洗濯」ではないですが、パウロがいないのを良いことに、妬みや争いから盛んに伝道する者たちがいた、いまこそパウロに奪われた失地回復のチャンス到来と考えて伝道した人たちがいました。自分の利益を求めて、獄中のパウロをいっそう苦しめる「不純な動機」からしているというのです。

 他方、パウロへの「善意」あるいは福音、神への「善意」から、パウロへの愛、神への「愛の動機」から、「なんかせにゃらんばい」とパウロに替わってなんとかしようと立ち上がった人達もいたようです。こうして福音は着実に前進しているとパウロは喜ぶのです。

 

6.「それがなんであろうと」福音の前進

 驚くべきことに、パウロはそのような不純な動機からキリストを宣教することさえ喜んでいるのです。

 「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされ、福音が前進している」。パウロはそれを喜んでいるし、これからも喜ぶであろう」といいます。パウロは不純な動機からする宣教さえも喜んだのです。これはなかなかできるものではないでしょう。しかし、実は、この事実に根差していないなら私たちは、起こる出来事に、一喜一憂、波風に揉まれて翻弄されてしまうでしょう。東福岡教会、東福岡教会は、このようないわば「大局観」に立てるでしょうか?人のため、子どもたちの成長のためなど色々な使命はあるでしょうが、「福音の前進」のためという共通の目的というか、私たちのマイナスの出来事、弱さ、問題を通しても、「福音が前進」するというという共通の信仰を持てているでしょうか? あるいは、嫉妬心、ライバル心が私たちの行動を、私たちを支配しているでしょうか?フリードリッヒという人は言います。「キリストはその使者たちよりも偉大であり、福音はそれを宣べ伝える者たちよりも力強い。福音は、宣べつたえる者たちの誠実であること、模範的であることに依存しない」。「誠実に依存しない」と言われるとちょっと「む」とする感じもありますが、パウロはその人たちの動機にかかわらず、「人を用いて宣教に従事させる神の意志に服従し、個人的な感情を乗り越えて神に信頼していた」ということは確かなことであり、私たちが、生きる姿勢を教えていることは確かです。私達もまた、パウロのように、「それがなんであろう」と言えるでしょうか。そう言いたいと願います。(松見俊)