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2017.11.12 「かけがえのない存在」 (全文) 詩編16:7~11

1:  喜び

 今日の聖書は、「わたしの心は喜び、魂は躍ります。」(9)「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(11)と喜び歌います。詩編16編の詩(うた)は、幸せ、信頼、そして「喜び」を告白する賛美の詩(うた)なのです。

 聖書は別のところではこのようにも教えています。今日、一番最初にお読みした箇所ですが・・・16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)「いつも喜んでいなさい」。それはもともとの言葉では「喜び続けていなさい」という意味となります。「喜び続ける」。それは根本的な喜びの基、変わることのない喜ぶべき事実があるからこそ、「喜び続ける」ことができるのです。

 聖書は、その喜びの基として「神の愛」を示しているのです。神様はあなたを愛してくださっている。それは変わることがないのです。だからこそ、「あなたは、どのような時にあっても、喜び続けることができることを忘れないように」と教えているのです。

 

2:  生きている意味が失われた社会

 皆さんは喜んで生きているでしょうか。毎日の生活は喜びのうちに満たされているでしょうか。現代社会は、食べ物、着る物があり、テレビ、車があり、パソコン、携帯電話があり、いつでも写真もビデオも撮ることができます。あらゆる物が溢れていて、物質的にはとても豊かな時代となっています。しかし、そのような時代でありながらも、現代社会は「生きる喜びを失わせていく社会」であると言われています。多くの物が溢れる中で、一番大事なこと、「生きる意味」を失ってしまっているのです。あらゆる物が溢れている時代。何かが壊れた時には、交換して直すことができる。壊れた部品を交換すれば、また同じように動き出すのです。そして同様に、このような社会の中では、わたしたち人間も、いつでも替えることができる存在と思ってしまっているのです。会社では誰かが休めば、他の人が代わりをする。一人の人間を機械の部品のように考えてしまう。一人ひとりの大切さや個性を尊重するのではなく、まるで部品の一部のように考えてしまう。今、私たちが生きる社会はそのような社会になっているのです。

 わたしたちは、このような社会の中で、「自分」が「生きる意味」を見失ってしまっていないでしょうか。自分が自分であること、他の誰とも替えることはできない、その喜びを失ってしまってはいないでしょうか。

 

3:  かけがえのない存在

 そのようなわたしたちに、神様は聖書の言葉を通して、あなたはかけがえのない存在であり、誰も替わりをすることができない、唯一、大切な存在なのだと教えてくれているのです。先ほど、幼児祝福式を行いました。この式典は、神様が子ども達一人ひとりの事を愛してくださり、命を祝福してくださることを再確認する式典です。神様にとって、子ども達一人ひとりは、その個性、その人格、心も体も魂も、すべてが喜ぶべき、愛するべき存在なのです。

 皆さんにとって、自分はどのような存在でしょうか。また子どもたちはどのような存在でしょうか。皆さんにとって、自分も、隣にいる方々も、子ども達も、その存在はどのような存在となっているでしょうか。

 私には二人の子どもがいますが、親にとって子どもはかけがえのない存在です。ときどき「宿題をしなさい」「片付けをしなさい」「早く寝なさい」と言いますし、それでも言うことを聞かなかったり、今では言い返して来たりしますので、そのような時にはイライラしてしまうこともあります。それでもその存在は、何かと取り替えることはできない存在です。それは、何かができるからとか、何かを持っているからではなく、ただただその存在が愛するべき、かけがえのない存在なのです。

 そして、そのような思い以上に、神様にとっての私たちの存在は、かけがえのない存在なのです。神様にとっては、わたしたち一人ひとりが愛するべき存在なのです。それは何ができるからとか、何かを持っているからとか、あれができるからとか、できないからとか、そのようなことはすべて関係なく、その心も体も魂も、すべてをそのままの姿で愛してくださっているのです。

 

4:  神は共におられる

 今日の箇所8節では、16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいま」すと言うのです。主なる神様は、私たちの、右におられ、相対しておられるのです。相対する、つまり、神様は、私たちの目の前に存在され、私たち一人ひとりと向かい合っていてくださっているのです。 神様は「あなたと共にいる」「あなたを孤独にはさせない」「あなたを愛している」と言うのです。これが、私たちに与えられた神様の愛のメッセージ、私たちへの祝福の言葉なのです。ここで、「神様が共におられる」ことを表した一つの詩をよみたいと思います

 

『足あと』

ある人が、ある夜、夢を見た。

海辺を、主とともに歩いている夢だった。

大空に、自分の人生のいろいろな場面がつぎつぎにあらわれた。

その一つ一つの場面には、2組の足あとが砂浜にくっきりときざまれていた。

その一つは自分自身のもの……もう一つは、主のものだった。

最後の場面があらわれたとき、彼はそれまでの人生のいっさいをとおして、

砂に残っている足あとをかえりみた。

そして、気がついたのは、

人生のいろいろな場所に、足あとが一組しかないことだった。

そして、さらに気づいたのは、

それが、彼の思い出のなかで、一番悲しいときだったことだった。

これを見て、彼の心は大いに悲しみ、主にたずねた。

 

「主よ、

 私があなたについて行く、と決めたとき、

 あなたは、私と一緒に、

 ずっと終わりまで歩いてあげよう、とおっしゃってくださいました。

 それなのに、私がここまで生きてきたあいだ、

 一番苦しくさびしかったとき、

 足あとが一人分しかないではありませんか。

 私があなたを必要としていたとき、

 あなたはいったいどうして私を一人ぼっちになさったのですか。

 私にはあなたがわかりません」と。

 

主は答えられた。

「私のたいせつなたいせつな愛する子よ、

 私は、あなたを愛しています。

 決してあなたを一人ぼっちにはしません。

 あなたが試練にあい、苦しんでいるとき、

 あなたが一人分の足あとしか見えないという、そんなとき、

 私は、あなたを背負って歩いていたのです。」

 

 これは「足あと」という詩です。

 神様は、いつも私たちと共にいてくださった。そして本当に苦しいときに、人生で生きる希望を失うような時に、神様は私たちを背負ってまでも共に歩いてくださっていたのです。

 

5:  命の道

 最後に、「喜ぶ命の道」についてお話したいと思います。この詩編の詩(うた)を歌った人は、10節に「陰府」「墓穴」という言葉があることから、この詩(うた)をうたっているこのとき、死を見ていたと読み取ることができるのです。詩人は「死」を見ながらも、「喜び」「命の道」を歩き出したのです。

 つい先日、わたしが大学の時にお世話になった先生が、心筋梗塞で突然、天に召されました。61才でした。私がお世話になったのは、私が18才から22才の時ですので、20年ほど前になります。その時、先生は40才くらいですので、様々なことを生徒と同じ目線で考えてくださり、困ったことや悩みを一緒に悩んでくださる先生でした。わたしはたくさんの迷惑をかけ、そのぶん先生のやさしさに何度も助けられました。

 あれから20年。そのうちまた会えるだろうと思っていました。その時はいろいろと思い出話をしようと思っていましたが、一度もお会いすることも、話すこともできずに、先生は天に召されました。わたしは今、心の中に穴が開いてしまったような思いです。

 「死」は、私たち人間の心に痛みや悲しみ、恐怖や虚しさを与えます。しかし、聖書は、神様は死を打ち破られる方であることを教えます。神様は「死」を超えて、私たちを愛し、共にてくださるのです。神様は私たちと共に生きて「命の道」を導いてくださる。主なる神様が共にいてくださることを受け取る時、孤独や虚しさ、恐れと不安は打ち破られるのです。神様は私たちのことをかけがえのない存在として愛してくださっています。私たちは今、神様が私たちに手を差し伸べ、愛を注いでくださっていることを受け取りましょう。私たちは神様の愛による道を喜びましょう。そして心から喜び、魂が躍るほどの恵みをいただきましょう。(笠井元)