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2018.1.21 「神が報いてくださる」 (全文) マタイによる福音書6:1-4

1:  偽善としての施し

 イエス様は、今日の箇所から6章18節までにおいて、「偽善」について3つの事柄を通して教えます。一つ目が今日の箇所である「施し」であり、あとの二つは、「祈り」と「断食」となります。イエス様は「施し」「祈り」「断食」を通して、「偽善者のようではならない」(6:5)と教えているのです。偽善者とならないように。イエス様がここで問われているのは、「善い行い」をしてはいけないということではなく、私たちの生き方、生きる目的、「なぜ生きるのか」ということです。

 みなさんは生活の一つ一つの行いを、何のために行っているでしょうか。私たちは、なぜ・・・働き、勉強し、遊び、・・・そして喜び、悲しみ、生きているのか。今日の箇所では、そのような生きていることの、根本的意味が問われているのです。

 偽善とは、「うわべではよく見せているが、実際にはそれが本心ではない」ことです。偽善者となっていく、その要因には、「自分をよく見てもらいたい」という心、虚栄心や利己心、自己顕示欲や名誉欲、金銭欲や権威欲などによるものだと言うことができます。人間は、自分を本来の自分以上に、よく見せたいと思う時に偽善者となってしまうのです。

 「偽善者」という言葉は、もともとは「俳優」「役者」を意味する言葉です。「役者」は人に見せるための演技をする「見てもらおう」として演じるのです。「役者」はそれが仕事です。しかし、実際の生活において、そのように「よく見てもらおう」として、本来の自分の本心とはかけ離れたことをするとき、偽善者となってしまうのです。

 イエス様の時代では、「施し」「祈り」「断食」の、この3つの行為は、「善い」行いであり、為すべき行為とされていました。ユダヤの民にとって「施し」「祈り」「断食」は、神様との関係をつなげるため、他者との関係をきちんと持つための、大切な行為として、律法に記されている行為でした。それはある意味、神様の民として生きるための良い行いでもあり、また神の民として、当然の行為であったということです。間違っても、何か悪い行いをしているときに「偽善者」とは言われないのです。「施し」「祈り」「断食」など「善い」行いをするとき、それをどのような思い、なぜするのかが問われているのです。

 

 今日の箇所で教えられている「施し」という言葉は、「あわれみの心を持つ」という言葉に由来します。聖書では「憐れみの心を持つ」ように教えているのです。

 「12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:12-15)

 神様に愛されて、愛をもって生きる時、そこには憐れみの行為がつながっていくのです。神様に愛されている、その愛を受け取った者として、ある意味、それが当然、あたりまえのことなのです。

 しかし、憐れみの行為をすることが、すばらしいことであると思う時、そのとき、すでに偽善という誘惑にのみ込まれ始めていると言えるのです。神様は人間が、神様と正しくつながって生きることができるために、律法を与えられました。そしてその律法によって「施し」「祈り」「断食」が示されているのです。それは、ただ守っていれば、それでよいということでもなければ、守ることができないから、神様から見放されるということでもないのです。律法は愛に生きる道筋です。「神様の愛に生きるため」に与えられたのです。つまり、「神様の愛に生きるために」当然とされる行為として「施し」「祈り」「断食」があるのです。しかしそれが、いつの間にか、特別「善い行為」、「すばらしい行い」となっていくことに、まず問題があるのです。

 

2: 称賛を得ること

 確かに、人間は褒められること、評価されることによって、成長する者でもあります。褒められること、称賛されることはやる気を引き出します。逆に、怒られ、非難ばかりされていれば、努力をする気力を失い、また何をするにしても畏縮してしまうようになり、能力を引き出すことができなくなります。

 子育てにおいて、子どもがより成長するためには、褒めることがよい、褒めることで、自己肯定感を強め、頑張ろうという気持ちを持たせることが大切だと言われます。だれでも、褒められ、その存在が認められていると自信を持っていくときに、大きな成長をすることができるでしょう。そのような意味で、人に認められること、認めてもらいたいという気持ちは、大切なことだと言うことができます。

 イエス様はマタイの5:16では・・・「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(16)と「立派な行いを見せるように」とも教えられているのです。ただそれは「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたがあがめられるようにではなく、天の父をあがめるようになるため」なのです。ただ「神様のため」「愛され愛し合うことを表すため」という根本的な行動理由がなく「立派な行いを見せよう」とするときに、致命的な落とし穴に堕ちていくことになってしまうのです。つまり偽善者となってしまうのです。

 「褒められたい、認められたい」。そのためだけに生きる時、それは結局のところ自分自身が褒められるためだけに生きる者となり、自分自身の名誉や権威のためだけに生きる道を歩き出してしまうのです。

 

 ここに来る前、私は北海道の教会にいましたが、北海道では、ちょうど今、たくさんの雪が降っています。北海道にいた時は、11月くらいから、雪の準備を始め、12月からは本格的な雪かきが始まりました。そして1月、2月と大雪や吹雪が多くなるなかで、雪かき、そして屋根からの雪下ろしとなっていくのです。北海道での教会の仕事は、まず、雪かきから始まります。たくさん雪が降った日は、牧師館から教会までの道を、掘らなくては教会に行けませんでした。まずドアが開かないのです。そしてストーブの空気がきちんと出ていくために、ストーブの外を掘り、そのあと凍ったトイレの水を溶かしていきます。トイレに手をつっこんで、氷を取り除き、ドライヤーで水を溶かすのです。そんなことを毎日続けていると、「時々、だれか褒めてくれないかな」と思うことがありました。特に何時間も雪かきをしたり、トイレに手を突っ込んだりしたときは、しょうがないので、自分で自分に「よくがんばった」と独り言を言っていたこともありました。実際このような作業はほとんど誰かに見られるものではなかったので、誰かに褒められることはほとんどありませんでしたが、時々、だれかに、「ご苦労様」「ありがとう」「がんばってるね」と言われると、とても嬉しかったです。

 確かに、人に褒められること、人を褒めることは、その人間を成長させる素敵な言葉にもなります。私も、北海道での雪かきの作業の時に、一言褒められると、その一言で、頑張る気になりました。自分が頑張っているときに、「ありがとう」とか「よくがんばっているね」と言われると、それはとても嬉しいことだと思います。この思い自体は悪いことではないと思うのです。しかしそれでも、それだけを求め始めてしまうようになる時、こんどは、褒めてもらえなければ、頑張ることができない、やる気をなくしてしまうと、最終的には、やっても意味がないのではないか・・・と大きな落とし穴、偽善という誘惑に陥ってしまうのでもあると思うのです。

 

3: 称賛を得る苦しみ

 称賛されること、褒められることは、気分の良いことです。しかし、それは一時的なものです。それだけを求めるようになる時、それはむしろ、とても苦しい人生になってしまうと思うのです。 褒められたい。褒めてほしい。人生の中心がそれだけになるとき、何をするにしても、人目を気にすることになってしまうのです。

 スポーツ選手などで、よくあることですが、よい成績を残したあとは、次の時には、期待されて、それがプレッシャーとなり、良い成績を出すことができないということがあります。ただ、楽しく、自分が喜んでしていたことが、他者の目を気にするようになっていくことで、とても苦しくなることがあるのです。

 

 他者が自分のことをどのように思うのか、びくびくして生きることになってしまう。これをしていなければ認められない。何か偉いことをしていなければいけない。すごいことをしなければ認めてもらえないとなってしまうのです。この思いはとても苦しいものだと思います。

 わたしたちの生きる社会は、計算される社会です。何のために生きるのか。それは「褒められるため」「認められるため」。そのために何をすればよいのか計算するのです。この計算がよくできる人のことを、立ち回りの上手な人とさげすむひともいますが、その人もまた、自分と他者を比較し、計算しているのです。そこに本当の善い行いが生まれることはないと思います。計算され尽くしたうえでの自分がよくみられるための「施し」。自分が認められるための「憐れみ」。本当に関心があるのは、貧しく困っている人のことではなく、自分自身のことばかり。「施し」をするのが、他者とどのように関係を持って生きるのかではなく、自分のため、自分が愛されるためになっている。それは、まさに自己愛、自己中心という罪の根源となるのです。

 

4: 神の報いを得る

 聖書は、3節からこのように言います。「6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 「隠れたことを見ておられる父、神様が報いてくださる。」神様はその愛をもって、私たちを見てくださっているのです。わたしたちは、何かをする、している、していないではなく、ただただその存在が愛されて、認められているのです。

 「神様の与えてくださる報い」。まず神様が私たちを愛して下っている。その愛に生きる時、私たちは、他者の目を気にすること、「自分を良く見せよう」と計算して生きることから解放されることです。それは本当の自由を得るということができるのです。神様の愛を知る者は、失敗など、他者に卑下されることを畏れる必要はないのです。神様に愛されて、認められているからです。ここに本当の心の解放、自由を得ることができるのです。自由は、自分がしたいことをすることではなく、神様の愛を知り、その愛に従うことを本当の自由というのです。

 神様の報いを得るということは、神様に従って生きるという自由を与えられているということです。愛されている。そしてだから愛された者として生きる。この自由さ、解放された生き方が、まさに神様から与えられている本当の報いです。何のために生きるのか、その答えとして、「愛されている者として、神様に従い、他者に仕えていくために、生きるのだ」と答えることができるとき、私たちは自分のため、自己顕示欲などから解放されるのです。偽善とは、ただ自分のためだけに生きるということに縛られていることであり、そこから解放されるためには、神様のため、そして他者のためにいきることへとつながるのです。

 私たちは、今この神様の報いを受けとりたいと思います。本当の愛で包んでくださる方と向き合い、本当の生きている意味をいただきましょう。(笠井元)