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2018.2.18 「神の愛が表されるために」 (全文) マタイによる福音書6:9

1:  主の祈り

 現在、マタイによる福音書から続けて学んでいますが、今日の箇所から「主の祈り」が始まります。主の祈りとはイエス様が弟子たち、そして私たちに教えてくださった祈りです。まず、この主の祈りを学ぶにあたって、この主の祈りは一言一言の解説、研究も大切ですが、なによりも、この主の祈りの一言一言には、イエス・キリストの命が込められている、ということを覚えたいと思います。

 宗教改革者ルターは「教会史上の最大の殉教者は主の祈りである」という意味のことを言いました。それは、この主の祈りが、あまりにも私たちに親しく、時には一日に何度も祈るため、ただ、なんとなく、とくに意味も考えず、祈ってしまっていることがあること指摘した言葉です。主の祈りは、主イエス・キリストから教えられた、神様に出会い、キリストを通して祈る者とされる、まさにイエス・キリストの命が込められた祈りなのです。

 昔から、この主の祈りによって多くの人間が、慰めを与えられ、生きる勇気と希望を与えられてきました。第二次世界大戦の時に、独房に入れられたある先生は、「空腹と不安の中で、最後に支えられたのは、この主の祈りであった」と語っています。またあるお母さんが、小さな命を先に亡くされ、絶望のただ中にある中で、ただただこの主の祈りを祈ることしかできなかった。誰が何を言おうとも、慰めることも励ますこともできない中、唯一の支えとなったのは、主の祈りだけであったという証も聞きました。実際、私自身、厳しい現実の苦しみの中で、祈る言葉を失ってしまったときに、最後はこの主の祈りにより頼み、祈って生きてきました。

 主イエスは「だから、こう祈りなさい。」(9)と言われました。これは主による祈りへの導きです。この導き、主の祈りは、キリストの命の込められた祈りです。わたしたちは、この主の祈りを殉教者として、つまり、意味なく、心を無くして祈ることのないようにしたいと思います。祈りの一言一言を大切に、心を合わせて祈っていきたいと思います。 そして、だからこそ、その一言一言を大切に祈っていくためにも、これから主の祈りを共に学んで、理解していきたいと思います。

 

2:  天におられるわたしたちの父よ

 主の祈りはここでは、9節「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉から始まります。主の祈りは、ルカによる福音書にも同じように記されています。ルカによる福音書における、主の祈りの呼びかけは、「父よ」という言葉だけとなっています。「父よ」という呼びかけ。それは、イエス様の使われていたアラム語では「アッバ」という言葉で、ユダヤ人の家庭において、まだあまりよく話すこともできないほどの幼児が、父親に使う言葉として、とても親しみに満ちた、家庭用語なのです。ルカによる福音書では、「アッバ」「父よ」と、幼児が父親を信頼して呼びかけるように、神様を近い存在として、呼びかけ祈ることが記されているのです。

 そのような中で、マタイは「天におられるわたしたちの父よ」となっており、「天におられるわたしたちの」という言葉が追加されているのです。このマタイにおける呼びかけは、「天」「わたしたち」「父」という三つの言葉に分けることができます。

 

 ここで使われている「天」とは、どこか銀河系の果ての果てといった場所を意味しているのではないのです。「天」は神様の超越性を示します。神様は私たちの想像を超えた方、私たちの理解を超えた、愛と慰めと恩寵に満ちた方であるのです。 そのことを示す言葉、それが「天」であり、神様の超越された愛の支配にあることを「天の国」ともいいます。神様は私たちの想像を超えた愛の恵みのうちにおられ、そのことを「天におられる」と語るのです。

 そしてまた、「わたしたちの父よ」と呼びかけます。「私たち」それは、「イエスと私」としての「私たち」と理解することもできれば、また兄弟姉妹としての共同体としての「わたしたち」とも理解することも出来るでしょう。「私たち」。主イエスは私たちのために祈って下さっているのです。時に、祈りを失い、時に神様に目を向けることができなくなってしまう、その私たちのために、まず、主イエスが祈って下さっているのです。たとえ私たちが躓いても、イエス様の祈りは失われことはないのです。「わたしたち」という言葉を「イエスと私」と理解するとき、私たちはイエス・キリストという愛に満ちた信仰に生きていることを教えられるのです。

 そしてだからこそ、わたしたちは、「わたしたち」つまり共に生きる兄弟姉妹のために祈り合うことができるのです。私たちが祈る時、それがたとえ一人での祈りだとしても、その背後には必ず多くの兄弟姉妹の祈りがあるのです。わたしたちが、祈ること、祈られること、祈りを合わせることを「わたしたち」と記していると理解することもできるのです。

 そして、私たちは「父よ」と呼びかけるのです。「父」は先ほどルカによる福音書において「幼児がお父さんに呼びかける」言葉と言いました。マタイも「父よ」と信頼をもって呼びかけるように教えるのです。この「父」という呼び方については、キリスト教の内外から、様々な問いかけがあるのです。神様を「父」とすること。それは男性中心の社会、その文化を正当化する言葉にもなってしまうのです。「父なる神」と呼びかける時、神様が男性であるかのように聞こえるのです。そのため、現代では「母なる神」「親なる神」と呼ぼうとする人々もいます。

 ただ、なによりも、神様を「父よ」と呼びかけることは「男のお父さん」という意味ではなく、その関係の「親しさ」、「近さ」を表しているということを理解していきたいと思います。

 

 この「天におられるわたしたちの父よ」(9)という言葉はとても不思議な言葉だと思うのです。「天」という、すべてのものをはるかに超え、私たちが近づくことができない方でありながらも、私たちが「父」と呼びかけることができるほどに、私たちに親しく、近くにいてくださるのです。「遠くの神様」がそのままで「近くの神様」となってくださった。それはまさに神の御子イエス・キリストという存在を通して理解することができる言葉なのです。この「天におられるわたしたちの父よ」という言葉のなかに、神であり、人であるイエス・キリストの存在を知ることができるのです。

 私たちは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えられているのです。それは想像を超えた深い愛と恵みのうちにおられる方であり、それでありながらも、わたしたち人間の一番近くにいてくださる方に呼びかけることが、許されている、そのことを覚えて呼びかけるように教えられているのです。

 

3:  御名が崇められますように

 続けて、主の祈りは「御名が崇められますように。」(9)と祈るように教えています。「神の御名」、イスラエルでは神様のことを「エル」「エル・シャダイ」「エル・ヨン」「エロヒーム」「ヤーウェ」と、様々な言葉で呼んでいました。しかし、十戒の第三戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20:7)という教えから、だんだんと神様の名を口にしないようになり、「アドナイ(主)」と呼ぶようになっていきました。

 名前はその者が誰なのか、ただ識別するだけの番号ではないのです。少し前ですが、「きらきらネーム」という言葉が流行っていました。こどもの名前にすごい当て字をして、漢字からは予想もできない読み方をする、そんな名前のことを「きらきらネーム」というのです。東福岡幼稚園には、それほどすごい名前の子どもは今のところいませんが・・・それでも、それぞれ保護者からすれば、いっぱい考えて、その漢字に込めた思いがあり、その読み方に込めた意味があるのだと思うのです。

 その名はその本性、人格、立場、権威を表すのです。その名が尊ばれるということは、その人自身が尊ばれることでもあり、また、その名が汚されるということは、その人自身が汚されるということ、その人格が傷つけられるということなのです。

 そして、「崇められる」とは、ヘブライ語において「聖とする」という言葉にさかのぼります。つまり、「御名が崇められますように。」(9)とは、「神様の人格、本性が聖とされますように」、という意味であり、それは「神様ご自身が、聖なる者として、私たちのうちに明確にされますように」、そして「私たちの内にあって神様が神様とされますように」と祈ることになるのです。「主なる神様が、自らの生きる人生の中心にあるように」。「神様が心に来てくださって、生きることができるように」これが「御名が崇められますように。」(9)という祈りに込められた意味です。

 わたしたち人間は、どこまでいっても自分中心に生きてしまう者です。その根底には、まず、「自分の命は自分のもの」という思いがあり、「自分が自分で生きている」と思っているからでしょう。そういう私自身も、「自分が自分の力で生きている」と思いから逃れることはなかなかできません。時に、自分ができる者だと、その力に傲慢になることもあれば、時に、自分には何もできないと、自分の力のなさに絶望してしまうのです。

 この自分は自分で生きている、自分の命は自分のものだという傲慢な思いが。私たち人間の罪であり、「神様の御名を聖とする」ことの反対「神様の御名を汚す」生き方なのです。そして、「神様の御名を汚すこと」。それは「神様が私を愛してくださっている」という、神様による恵みの出来事「愛されている」ことを受け入れないことです。

 私たちは神様に愛されています。神様に愛されて、大切な存在として生かされているのです。「神の御名を聖とする」。それは神様によって愛されて、生かされているということを、ただ受け入れることなのです。

 

4:  神様の愛が表されるために生きる

 主イエスは言われました。6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』

 神様は私たちを愛しておられるのです。「神様の御名を聖とする」。「神様の愛を表す」。この生き方、生きる道をイエス・キリストご自身が、人間となり、この世で生きて示されました。主イエスは、神様の愛をこの世に実現されたのです。主イエスは、罪ある者の隣で生きて、病に苦しむ者と共に生きたのです。当時は、神様の御名を聖とするために律法を守ることにこだわり、本当に隣で苦しんでいる人と生きることよりも、律法を守ることが大切にされていたのです。そのような中で、イエス様は本当に隣人を愛して生きてくださった。それは律法に囚われることなく、そしてむしろ律法の本当の意味、神様の愛に生きることを表すために生きてくださったのです。そして、その最大の愛の姿として、私たち人間のために十字架で死に、そして復活なされたのです。私たちが「御名を聖とする」祈りを献げること、それはこのイエス・キリストによって表された愛をいただくことから始まるのです。わたしたちは今、この主イエス・キリストが命をかけて表してくださった、愛をいただきましょう。そしてその愛を表す者として祈り、生きていきたいと思います。

 イエス・キリストの愛をいただいて生きることは、その愛を隣人のとの関係の間に表すことです。

 聖書はこのように教えます。

 Ⅰヨハネ4:7-12

 「4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」

 

 神様は、私たちを愛してくださいました。そして神様は、わたしたちという関係のうちに神様が来て、その愛を表してくださるというのです。わたしたちは今、この主イエス・キリストが命をかけて表してくださった、愛をいただきましょう。そしてその愛を表す者として祈り、生きていきたいと思います。(笠井元)