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2018.3.11 「イエスの命がこの体に現れるために」 (全文) Ⅱコリントの信徒への手紙4:7~10

 私たちは、「レント」のシーズンを過ごしています。通常、40日間を意味する「四旬節」と言われています。イエス様の苦難と復活を祝う「イースター」の前日から日曜日を除いて40日前からレントが始まり、今年は2月14日の「灰の水曜日」からレントが始まり、今年のイースターは4月1日となります。レントとは、「長いこと」を意味するラテン語から由来します。今年は寒かったせいか、2月の中旬位から、確実に日が長くなったと感じました。午後6時になってもまだ明るいので、長い冬が終わり、春が来るのだ、ということを実感しました。花粉症の方にはちょっと申し訳ありませんが、春が到来しつつあります。今年は、私自身、45年間の職業生活最後の2月でもあり、極めて忙しかったし、何より、ご病気や老齢化に直面されている教会の友人たちのことを祈り、想う時に、「永遠の朝」の来ることを待ち望むキリスト者にとって、このレントシーズンの素晴らしさをもう一度新たに思い起こしました。そのような祈りの中で、選んだ聖書の個所が今日、共に読んでいるIIコリント4:7~10です。

 

1.イエス・キリストの輝き

 この箇所の直前には、6節に、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」。と言われています。「輝く」と言う言葉が日本語では、三度登場します。その内2回は、「ランポー」という言葉で、「ランプ」の語源です。明るい太陽のイメージというより、闇の中にかがり火が輝くように、松明のように、イエス様の明るさが闇の中に輝いているという感じでしょうか。後一つの「輝き」は「光」から由来する言葉です。4節には、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」という表現が登場します。「光」、「輝き」、「栄光」という明るいイメージの比喩が重ねられています。このような考えの背後には創世記1:3、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」や、クリスマスの時に良く読まれるイザヤ9:1「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」を起こい起こさせます。そして、「神の似姿であるキリストの栄光に福音の光」の背後には、創世記1:26「神は言われた。『われわれにかたどり、我々に似せて、人を造ろう』というヘブライ語聖書の伝統があることは明白です。どこか、歪んでしまった、神の似姿である人間たちに対して、イエス・キリストこそが回復された神の似姿であるという、喜びの福音が語られているわけです。こうして、ここでは、栄光、「光」「輝き」が輝くという明るい、喜びの比喩が続いています。そして、7節では「宝」という言葉も語られています。この言葉は、元々は「あるものを安全に保管する場所」という意味で、そこから、大切に保管している「宝」という意味になったようです。「なんでも鑑定団」というテレビ番組を良く見ます。高価であると信じていたものが偽物であったり、安物と思っていたものが高価であったり、その落差が面白いのです。我が家には、つくづく「お宝」がないなあと夫婦で笑っています。しかし、私たちは、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知らされている」という、輝く、朽ちることのない「お宝」をいただいているのです。

 

2.土の器の中に

 パウロは、そのような宝を、私たちは、土の器の中に持っていると言います。このような考え方の背後にはやはりヘブライ語聖書の創世記2章が響いています。イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を、脆くて、壊れやすい土から造られた、いわゆる「土器」の中に持っているというのです。人は土の塵から造られ、鼻から息を吹きかけられて「生きる魂となった」と言われているように人は皆、土=アダマから造られたアダムであるというのです。男も女も、あるいは判別がつきにくい人を含めて、すべての人、各々の人はアダムに過ぎず、やがて土に戻る運命の中にあるのです。この世で、恵まれた才能があり、成功し、地位と財産を築いた人も、壊れやすい土の器に過ぎません。この世で、それほど才能もなく、失敗続きであり、地位も名誉も獲得できない人も、神から命の息を吹き込まれて生かされているのです。イケメンや美女もそうでない人もあまり変わりはなく、みな「土の器」です。イエス・キリストの栄光、光、輝きを受け取るのは、弱さ、貧しさ、様々な限界、度重なる病い、諸々の問題を抱えて生きる人たちであるのです。このことは、躓きに満ちた恐るべきことであり、同時に、恵みに満ちた言葉です。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。決して純金の器や水晶(クリスタル)の器ではないのです。

 

3.神の恵みが恵みとして現れるために

 しかし、いったい、なぜ、このような緊張、矛盾のようなものの中に私たちは生きるのでしょうか?わたしたちの人生は、多かれ少なかれ、過酷なものを背負わされているのでないでしょうか? その答えは、「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから(出た)ものでない(ことが明らかになる)ためである。」と言われています。

 そうではいでしょうか。私たちは余りにしばしば、全てが自分のものであり、自分の力で何とかなると考え、神の恵みの力を蔑ろにするのです。それが、わたしであり、皆さんの姿であるからです。しかし、この緊張の中に、矛盾ともいうべき現実に生きるからこそ、パウロをはじめ、キリスト者たちは証をすることができます。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。私の母は言ったものです。「俊、クリスチャンでも癌になるのか?!」と。私の応答は、ため息です。「はあ?」人は土から造られたものである以上、「四方から苦しめられることがあるのです。途方に暮れることがしばしばです。虐げられることもあり、打ち倒されることもあるのです。しかし、この土の器に、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を知らされている限り、この土の器に、聖霊の息吹を吹き込まれており、神の力は偉大である限り、私たちは、「行き詰らず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされることはない」のです。パウロ自身は過酷な障碍のゆえに、そして、癒されるようにとの祈りが聞かれないという厳しい経験の中で、主の言葉を示されたと言っています。IIコリント12:9「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。なぜ、このような緊張、矛盾のようなものの中に私たちは生きるのでしょうか?それは、「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから(出た)ものでない(ことが明らかになる)ためである。」私たちは、いのちと死のせめぎ合い、光と闇のせめぎ合いの中で生きています。それは、イエス・キリストの死が復活と結び付き、死なしで復活はないし、復活なしの絶望的死などないからなのです。神の恵みが恵みとして現れるためです。

 「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からです。

4.キリスト者の苦難

 パウロは、自分が使徒であり、伝道者であることの証拠を彼がキリストと他者のために苦しむことであると考えていたようです。彼は、10節では、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスのいのちがこの体に現れるために」と言います。これは、土の器に宝を持っているすべてのキリスト者のことを述べているのでしょう。しかし、同じようなことを11節では少し変えて表現しています。ここでは、特にパウロの生き方が強調されていると言ってよいでしょう。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスのいのちが現れるために。」10節では「からだ」(ソーマ body)という言葉が用いられているのに、11節では、朽ち逝く「肉体」(スネーテー サルキ mortal flesh)という言葉が用いられています。また、岩波訳の新約聖書では、「イエスの殺害をこのからだに負って歩きまわっている。それはイエスの生命もまた、私たちのこの体において明らかにされるためである」と翻訳しています。そして、その解説部分で、「原語はthanatosではなく、nekrosisなので「死」ではなく、イエスは殺されたのだと言う意識が明らかである。」と主張しています。確かにパウロは投獄され、殺害される危機に直面していました。もっとも、11節、12節では 通常死を意味するthanatosが用いられていることを考えると、「殺害をこの体に負って歩きまわっている」としなくても良いのではないかとも思います。むしろ、「からだ」と「肉体」の違いについて岩波訳が言及していないのが不思議です。しかし、パウロは、キリストと隣人のために苦難、殺害を、十字架で殺害されたキリストを背負っているという自意識を持っていたこと、それをコリントの信徒に向かって語っており、10節は、キリスト者一般について語り、⒒節では、特に、パウロ自身のことを念頭に入れていると言ってよいでしょう。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスのいのちが現れるために。」

 

5.共にいのちが輝くために

 11節の微妙な変化は12節においては、明確な方向に伸展していきます。パウロら福音宣教者たちは、いやパウロは、専ら死と苦しみを受け持ち、コリントの信徒たちには命が働いていると言うのです。このパウロの自意識は、果たして、私自身は、献身者、伝道者として、このように言えるような生き方をしているのかと厳しく問いかけてきます。あるいは、これは少し、言いすぎではないかとの思いもなくはありません。まあ、パウロという人間の自意識過剰です。パウロもまた、コリントの信徒たちによって生かされているからであり、パウロもいのちに預かり、コリントの信徒たちも死のゆな経験があったあずだからです。それはともあれ、パウロが言いたい結論は、14節にあるのでしょう。伝道者たるパウロとコリントの信徒たちとの、そのような区別、違いはあるのですが、パウロは死を受け持ち、コリントの信徒たちはいのちに預かるという区別と違いはあるのですが、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせて下さると、わたしたちは知っています」と言います。パウロに栄光を帰するのではなく、あくまで、神に栄光を帰するのです。

 そして、私たちは単に、いのちと死のせめぎ合い、光と闇のせめぎ合いの中で生きているだけではありません。いのちと光、イエス・キリストの輝きが圧倒的に勝利するのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、圧倒的に輝かせて下さるのです」。季節の移り行きだけであれば、春は夏となり、秋となり、再び寒く、暗い冬が来るでしょう。しかし、私たちは、その繰り返しと緊張の中に生きているだけではなく、復活の希望の中に、圧倒的ないのちの輝きの希望の中で、永遠の夜明けを目指して生きているのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださるであろう、引き上げてくださるであろうこと」をわたしたちは、「知っている」のです。(松見俊)