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2018.4.29 「手を上げて祝福するイエス」 (全文) ルカによる福音書24:50-53

映画の中のイエスの昇天

 2016年に公開された、『復活』という映画をご存知でしょうか。他2つのキリスト教映画と共に、連続公開された映画です。

 この映画は、十字架に付けられたイエスを「本当にこの人は神の子だった」と言った100人隊長の目線で、イエスの十字架から復活、昇天までを描いた作品です。私はそれを見ることができました。当時の様子が現実的に伝わってきて、引き込まれる映画でした。

 しかし1点だけ、私が引っかかるシーンがありました。それは、イエスが天に上げられる場面です。その場面では、イエスが弟子たちから少し遠くに立ち、急に爆発したかのようにピカッと光って、すごい爆風が吹き、イエスの姿が見えなくなりました。

 最後の最後、私は色々な意味で驚かされました。

 イエスの天に上げられる姿が、そのようにド派手なものだったとは、聖書に記されていません。もちろん、その可能性もあります。しかし、イエスは復活したときも、弟子たちと再会したときも、言うなれば地味でした。いつの間にかお墓からいなくなっていたり、弟子に現れても、イエス様だと気付かれなかったり。

 そんなイエス様ですので、「天に上げられる時だけ、映画のようにド派手であってほしくないなぁ」というのが、私の個人的な思いです。

 今日は、イエス様が天に上げられた時の様子を、共に見ていきたいと思います。

十字架を示すイエス

 十字架にかけられて死に、3日目に復活して弟子たちに現れたイエス様は、最後に弟子たちをベタニアの辺りに連れて行きました。ベタニアは、オリーブ山にある小さな村です。

 ベタニアやオリーブ山は、イエスと弟子たちにとって馴染み深い場所です。イエスはエルサレムに入る時、このベタニアからロバに乗って行きました。また、イエスが死んだラザロを生き返らせたのも、ベタニアです。ある女性が、非常に高価なナルドの香油を、イエスの頭に注いだのも、このベタニアでした。

 また弟子たちは、イエスが捕らえられるまでは、ベタニアがあるオリーブ山でイエスと共に過ごし、イエスの教えを聞いてきました。

 復活したイエスは弟子たちを連れて、そんな思い出深いオリーブ山、ベタニアの方へと、もう一度むかいました。その歩みは弟子たちにとって、イエスがオリーブ山で語ったことや、ベタニアで教えてくれたことを思い返す時であったでしょう。

 

 イエス様がオリーブ山で教えてくれたこと、それは「終末」、「神の国」、そして「十字架」についてでした。イエスが天に上げられる前に、弟子たちをオリーブ山のベタニアへと連れてきたのは、彼らに十字架を思い起こさせ、さらにその先の「神の国」、「終末」へと目を向けさせるためでした。

 そしてベタニアの辺りに来るとイエスは、手を上げて弟子たちを祝福しました。ギリシア語本文ではこの「手」という単語は、複数形になっています。それは、1つの手では無いということです。つまりイエスはここで、両手を上げて弟子たちを祝福したということです。両手を上げるイエス。その姿は、あの十字架にかけられたイエスの姿に重なります。

 

 十字架にかけられたイエスの姿を、それを型どった造形や絵画などで見たことがあると思います。十字架の上では、広げた両手に釘打たれ、それにぶら下がるような姿勢になります。それはちょうど、両手を広げて上に上げた姿です。イエスは両手を上げ、弟子たちに十字架にかけられた姿を見せたのです。

 イエスが捕らえられた時、弟子たちは皆、逃げて行きました。おそらく彼らは、イエスが十字架にかけられる姿を見ていません(中には、遠くから眺めた者もいたかもしれませんが)。そんな弟子たちをイエスは、両手を上げ、十字架にかけられた姿で祝福しました。これは、十字架の上からの祝福です。

 

 「十字架の上からの祝福」を考えるとき、私は、イエスが十字架上で、一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人を祝福したことを思い出します。イエスは、隣で十字架にかけられている犯罪人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。「わたしと一緒に楽園にいる」。この祝福は、救いの宣言です。赦しの言葉です。

 

 復活したイエスもここで、弟子たちに十字架を示し、十字架の上から彼らを祝福しました。弟子たちは、確かにイエスが十字架にかけられて死んだということを、思い返しました。そして、このイエスの十字架の死によって、自分の罪が赦されたということを知ったのです。

 私たちも今一度、イエスの十字架を思い起こしましょう。そして、イエスが十字架にかけられて死んだ意味を、胸に刻みたいと思います。

 

終わらない祝福

 弟子たちを祝福したイエスは、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられました。それは映画のように、ド派手なものではありません。むしろ、人の目には最も愚かな姿だと言えます。罪人とされ、ムチ打たれ、人々に罵られて張り付けにされた、その十字架の姿でイエスは、天に上げられました。

 

 51節にはこうあります。「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた

 

イエスは弟子たちを祝福しつつ天に上げられました。つまり、イエスの祝福は終わっていないということです。イエスは十字架にかけられた姿で、今も変わらず、弟子たちを祝福し続けています。

 

 そのイエスの弟子たちとは、聖書に登場する人物だけではありません。私たち一人ひとりも、イエス・キリストの弟子です。イエスを自分の主と信じる全ての人は、イエスの弟子なのです。

 

イエスは弟子である私たちを、今までずっと、今も、そしてこれからも祝福しておられます。その祝福は、十字架の上からの祝福です。イエスは私たちを、十字架の上から祝福し続け、ゆるし続け、招き続けています。

イエスが私たちを祝福するのは、私たちが正しい行いをする者だからではありません。イエスと共に歩んだ弟子たちも、いつも正しかったわけではありませんでした。彼らはイエスの思いとは反対のことをしたり、イエスの教えを守れない時もありました。

私たちも同じです。イエスの教えとは反対のことをしてしまったり、神の思いが理解できないこともあります。様々な思い悩みで、いつの間にか神を見失うこともあります。また、心にもなく、イエスを否定してしまったり、時には神を呪うことさえあります。キリストの弟子である私たちもまた、そのような弱さを持っています。

しかしそんな私たちをイエスは、絶えず祝福しておられます。私たちが何度つまずいても、その度に励ましてくださいます。私たちがどんなに離れていっても、イエスは両手を上げて、いつまでも私たちを待ち続けています。

私たちは何度でも、このイエス・キリストに立ち返ることができるのです。私たちは何度でも、イエス・キリストに立ち返り、イエス・キリストの祝福を受け取ることができるのです。

 

 

イエスを礼拝する

 イエスの祝福を受けた弟子たちは、イエスが天に上げられた後、まずイエスを伏し拝みました。

 ルカによる福音書では、人がイエスを拝んだという記述は、ここにしかありません。これまでずっと、人々が賛美し、礼拝を捧げる対象は、「神様」として描かれています。イエスによって重い皮膚病が癒された人も、目が見えるようにされた人も、神をほめたたえています。

 ところが弟子たちはここで、イエスを拝みました。弟子たちは、イエスが神の子であり、神そのものであることを知って、礼拝をささげたのです。

 「彼らはイエスを伏し拝んだ」とあります。これは、恐れおののいてひれ伏した、という事ではないと思います。むしろ弟子たちは、喜びに満たされています。彼らは心からの感謝と、悔い改めの思いで、イエスを伏し拝んだのです。

 私は、今までで1番嬉しかった時、天を仰ぐのではなくて、椅子に座り、頭を抱えるようにして神に感謝した記憶があります。

 人は、悔い改めるときだけでなく、心の底から「ありがとう」と神様に言う時にも、かがみ込み、神の前にひれ伏すのだと思います。

 

 弟子たちもここで、言葉にならないほどの思いで、イエスを伏し拝んだのでしょう。

「イエス様・・・こんな私のために・・・本当に、ありがとう」

 

 それから弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神をほめたたえます。彼らは180度変えられました。イエスが捕らえられた時、恐れて逃げていった弟子たちが、今や大喜びでエルサレムに帰ります。彼らに恐れはありません。イエスが引き渡され、ムチ打たれ、人々に嘲られながら十字架にかけられた、そのエルサレムに弟子たちは帰ります。しかも祭司長や律法学者たちの集まる神殿で、絶えず神をほめたたえるのです。

 弟子たちは、主なる神、イエス・キリストの祝福を受けて、喜びに満たされ、恐れることなく主を賛美する者に変えられました。

 イエスの祝福と、この弟子たちの姿に、私たちも励まされるのではないでしょうか。

 

 

まとめ

 十字架にかけられ、3日目に復活したイエスは、十字架の姿を弟子たちに示し、彼らを祝福しました。そのイエスの祝福は終わることなく、今も、私たちに与えられています。私たちは何度でも、このイエス・キリストに立ち返ることが許されています。イエスはいつまでも十字架の上から、私たちを祝福しておられます。

 このイエス・キリストの祝福をもう一度、また何度でも受け取りましょう。そしてあの弟子たちのように、喜びに満たされて、恐れることなく主を賛美し、キリストを証しする者へと変えられていきたいと思います。(安里道直)