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2018.9.16 「痛みを知る方~本当の痛みとは?~」(全文) マタイによる福音書8:1-4

1:  社会からの排除

 私たちは、これまでマタイによる福音書を読んできました。先日、「山上の説教」と呼ばれる箇所、5章から7章を読み終えました。今日の箇所は、その直後となります。

 イエス様はまず「山から下りてこられた」のです。そして、山から下りてきたイエス様が一番最初に出会ったのは「一人の重い皮膚病を患っている人」(2)でした。当時のイスラエルの社会における、皮膚病の者の立場については、旧約聖書のレビ記に記されています。その一部にこのように記されています。

 レビ記13:45-46「13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

 当時、重い皮膚病にある者は、自ら「汚れた者です」と言わなければならなかった。しかも町の外に一人で住まなければならなかったのです。なんとひどい扱いでしょうか。この差別の根底には、この「皮膚病」というものが「罪」に対する「罰」として考えられていたこと、つまり、宗教的に「汚れた者」であると考えられていたというところにあるのです。重い皮膚病の者は、宗教的に「汚れた者」とされ、社会的に差別され、排除された存在でした。病気であるということで、すでに肉体的痛みを持っているのに、その上に、宗教的にも、社会的にも痛みを持つ者とされていたのです。

 

 皆さんも、考えてみてください。何か病気や痛みを持つと、そのことを他者に「あなたは汚れている」「近づかないで」と言われるのです。これほどの苦しみがあるでしょうか。これまで仲良く暮らしていた家族、友人からも「出て行きなさい」と言われるのです。このような痛みに耐えることができるでしょうか。私自身も先天的な病気をもっていますが、そのことで、多くの人が離れて行ったという経験をしたことがあります。病気であると知ったことで、親しくしていた友人、信頼していた先生も、多くの人々が離れていきました。

 今日の箇所での、この「重い皮膚病」を持つ者は、本当に苦しい中にいたのです。病気という肉体的な苦しみ、そして宗教的な断罪、社会との断絶、他者との関係の断絶という非常に大きな苦しみを受けていたのです。

 

2:  御心ならば

 そのような苦しみの中にあって、この者は、イエス様に近寄ってきたのです。本来、誰かに近づくことは許されていないのであり、むしろ自分から「わたしは汚れています」と言わなければならない者でした。そのような立場にありながら、この重い皮膚病の人はイエス様に近寄ってきたのです。この一歩は、決心の一歩であったでしょう。この人がもし、これまでと同じように「わたしは汚れた者です」と言っていれば、何も起こることはないのです。確かに「苦しい」。だけど何もしなければ、そのままでいられる。自分が我慢すれば、それで済むことなのだ。そのように考えることも何度となくあったでしょう。この一歩によって、これまで以上の差別、迫害を受けることになるかもしれないのです。この人は、そのうえで、大きな決心の思いを持って一歩を進み出たのです。

 そしてこの人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2)と言ったのでした。この言葉は、なんだか変な言葉です。この人は「御心ならば、癒してください」「私を清くしてください」と言うのではないのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。つまり、イエス様は「清くすることができる」。それは前提としてすでにあり、そのうえで、それが「御心かどうか」、「わたしを清くすることは、イエス様、あなたの御心でしょうか」と問うているのです。ここで言う「御心ならば」という言葉は「欲しているか」という意味でもあります。この重い皮膚病の者は、これまで本当に多くの裏切り、差別を受けてきたのでしょう。ある意味、もはやこの苦しみを受けて生きていくことが「神様の意志」であり、癒されること、苦しみ生きることが神様の意向なのではないかと思っていたのかもしれません。 「御心ならば」。それは、「神様は欲するのか。神様は癒そうと思われるのか。もしかしたらこの苦しみが自分に与えられた神様の御心なのではないか。」という不安と疑いの言葉でもあるのです。重い皮膚病の者は、そのような不安と疑いの中で、それでもイエス様に近づいていったのです。心に痛みを持ち、誰も信じられない、もはや神様をも信じることができないという疑いの中で、それでもなお、一歩前に進み出たのです。

 

 この一歩に、この者の大きな決心を見ることができます。 差別の中に生きることに留まるのか。差別されていても、それで仕方がないのだと生きるのか。それとも・・・不安を振り切り、一歩、歩き出すのか。この者は自分の人生のすべてをかけて一歩前に出て行ったと言ってもいいでしょう。

 

3:  手を差し伸べられた

 イエス様は、この重い皮膚病の者に、手を差し伸べられ「よろしい。清くなれ」と言われました。もともと、隔離され、町から追いだれていたのは、その病気が「感染する」からという考えがありました。当時の医療知識では、原因も、感染力も、その経路もわからなかったので、「自分もこのようになるかもしれない」という大きな恐れがあったのです。実際は、その感染力はとても低いもので、現在では、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」である「感染症法」の対象でもなくなっています。ただ、当時の知識では、そのようなことは分かっていませんでした。そのような中で、そのものに触れるなどはありえないことです。近寄らないのが当然の常識だったのです。

 イエス様は、そのような当時の常識の中で、その者にイエス様は手を差し伸べ、「触れられた」のです。この行為は、その身体や病気を癒すこともですが、何よりも、この人の心の痛みに触れられたと言うことができるでしょう。イエス様は、この人が一番苦しんでいる、一番の心の痛みに手を差し伸べてくださったのです。イエス様は、ただ言葉で「あなたは癒された」と言われたのではないのです。イエス様はその心の痛み、社会との断絶、他者と関係を持つことが許されない、だれも隣に来てくれない・・・孤独という心の痛みを知り、その痛みに手を差し伸べ、触れてくださったのです。 

 ここにイエス様の救い、そして癒しがあるのです。病気や障害を持つ者にとって、もちろんその病気が癒されることは大切なことですが、一番必要なものは、病気を持っていても、障がいを持っていても、受け入れてくれる存在、一緒に生きてくれる人がいれば、それでよいのです。ただ、自分を、ひとりの人間として、その人格、存在を受け入れてくれれば、それこそが一番の救いであり、癒しとなるのです。

 イエス様は「差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ」(3)ました。ここでの「よろしい」という言葉は、忠実に訳すると「私は欲する」という言葉となります。イエス様は、「わたしが清くされることは、あなたの欲するものでしょうか、神様の意志でしょうか」と問う者に対して、その応答として「私は、あなたが癒されること、あなたが差別されず、みんなと喜んで生きることを、その存在を欲している」と語られたのです。先ほども言いましたが、この時、重い皮膚病の者は、「不安」と「疑い」、そして「恐れ」の中で進み出たのです。イエス様はその「疑い」や「恐れ」に、「わたしはあなたというその存在を認め、愛している」と答えてくださったのです。イエス様は「わたしはあなたを愛している」、「あなたが心から喜び生きることを求めている」と答えてくださったのです。

 

 主イエス・キリストは、私たち人間の、その心の「本当の痛み」に手を差し伸べてくださるのです。そしてその痛みに目を向け、共に担い生きてくださるのです。重い皮膚病を持つ者の根本的な痛みは、人間不信、一人ぼっち、孤独でした。そのように生きている者の「だれも触れてくれない」という苦しみの中にあって、イエス様は、手を差し伸べて、触れてくださったのです。このイエス様の行為は、当時の知識で言えば、もしかしたらイエス様ご自身もまた、この病気になるかもしれない行為なのです。それでもイエス様は触れられたのです。イエス様は「神の子」として、そのような感染力はないと知っていたから触れることができたとも考えることもできます。しかし、むしろ、イエス様は、人間としてこの世にこられ、当時の知識の中で生きて、その危険性を持つ中で、「触れられた」と考えたいと思うのです。主は、その危険性も顧みず、愛をもって触れてくださった。それがイエス・キリストの共に生きることなのです。「あなたは一人ぼっちではない、孤独ではない。」「私があなたと共にいる」ということを、その行為をもって示してくださったのです。これこそ最大の癒しとなるのでしょう。

 イエス様は、私たち人間の心を知り、その本当の痛みを知り、手を差し伸べ、その痛みに触れて、共に生きてくださるのです。

 

4:  どのように生きるのか

 イエス様によって、重い皮膚病の者は癒されました。そしてイエス様は「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(4)と言われたのです。このイエス様の言葉、「だれにも話さないように」・・・しかし「祭司に体を見せ、人々に証明しなさい」と、この言葉は、矛盾しているようにも聞こえます。「誰にも話さいように」と言っても、見ればわかることなので、あまり意味のないことに聞こえます。このイエス様の言葉は、ただ体の回復、イエス様の奇跡の出来事が一番ではない。それが「癒し」の行為が一番に言われることではないと教えているのです。

 そして、ここで言う「祭司に見せる」ということは、当時のイスラエルの社会においての回復を意味していました。レビ記14章ではこのように記されているのです。14:1 主はモーセに仰せになった。14:2 以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、14:3 祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、14:4 祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。・・・14:20 祭司は焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇で燃やしてささげる。祭司がこうして、彼のために贖いの儀式を行うと、彼は清くなる。」

 ここでは祭司に見せること、贖いの儀式をすることによって、清い者とされると記されているのです。イエス様は、自らがその者の心の痛みに触れるだけではなく、その人がこれから一人の人間として、この社会で喜んで生きるための指示をなされたのです。イエス・キリストは「私はあなたを愛している」「私はあなたと共に生きる」と語ると同時に、この世の社会において、希望を持って生きる道を指し示しているのです。

 この重い皮膚病の者は、このあとどのようにして生きて行ったでしょうか。それは記されてはいません。ただ、イエス様が言われた言葉を見て想像するならば、祭司に見せて、当時の社会における、社会復帰をし、社会の一員としていったでしょう。だ、その社会に生きるにあって、この人は、これまでに自分が受けたような差別を認める生き方はしなかったのではないでしょうか。「イエス・キリストはわたしと共にいてくださる」「神様はすべての者を愛してくださっている。すべての人間の存在を認めてくださっている」と「神様に愛される者」として生きた。それはこの社会における価値観、「差別」する生き方を選ぶのではなく、差別されている者と共に生きる道を選んでいったのではないでしょうか。

 

 私たちは今日、今、どのように生きるべきか考えたいと思います。この重い皮膚病の者は、新しい一歩を歩き出しました。不安や疑いの中でも、差別や迫害に生きることから、新しい一歩を歩き出したのです。主イエス・キリストは、私たちの心の痛みに手を差し伸べてくださっています。皆さんの心の中にある、本当の痛みは何でしょうか。皆さんは一番に、何を求めているのでしょうか。

 イエス様は、私たちの心の奥の奥にある、本当の痛みを知ってくださいます。そしてその痛みに触れてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストによる、神の愛という喜びに満たされて、新しい人生を生きていきたいと思います。私たちの痛みを知り、孤独からの解放を与え、共に生きてくださっているイエス様の愛をいただいて歩みだしたいと思います。 イエス・キリストは私たちを愛して手を差し伸べて、その心の痛みに触れてくださっているのです。その愛の出来事を受け取り、一歩前に、歩んでいきましょう。(笠井元)