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2018.9.30 「キリストの言葉に信頼する」(全文) マタイによる福音書8:5-13

1:  イエス様のもとにやってきた百人隊長

 今日の箇所では、百人隊長の僕が癒されていきます。ここではまず、百人隊長がイエス様のところに来て、イエス様に僕の癒しを願うのです。私は両親ともクリスチャンで、いわゆるクリスチャンホームという家庭で育てられ、また小さいころから教会に通い、このようなイエス様の癒しの話を何度も聞いていました。そのような意味で、今日の箇所を読んだときも、特に違和感もなく、「やっぱりイエス様はすごい人だったんだな」と思っていました。しかし、この「癒し」の出来事は、単に「イエス様が病人を癒された」という出来事ではなく、もっといろいろなことを教えているのです。

 その一つに、まずこの百人隊長がイエス様のところに来たということ自体が、本来ありえないこと、また、僕のために懇願したなど、もっとありえないはずなのです。百人隊長とはローマの軍隊の小隊長のことです。当時ローマはユダヤの民を軍事的に支配していました。この時も百人隊長は、ここではカファルナウムとされていますが、その場所を治め、支配するように派遣された人物なのです。本来このローマの百人隊長からすれば、ユダヤ人は軍事的に支配している者たちであり、間違っても自分たちがやってきて、何かをお願いすることなどありえないことなのです。また、それだけではなく、ユダヤ人からしても、ローマ人は、異邦人という自分たちとは違う民族であり、ユダヤ人は、そのような者を差別して、受け入れることはなかったのです。つまりお互いに受け入れあうのではなく、お互いを拒否していた。そのような関係にあったのです。そのような関係にあるローマ兵、その百人隊長がユダヤの一人イエスのところに来て、「僕の癒し」をお願いしたのでした。

 なぜそのようなことが出来たのでしょうか。ルカによる福音書では、このことを理解するために、この百人隊長は「ユダヤ人を愛して、会堂も建ててくれた方」だとするのです。このルカにあるように、この百人隊長は実際に、ユダヤの民の事を大切に思っていたのかもしれません。ただ、このマタイによる福音書では、そのような言葉は記されていないのです。そこには、もともと仲が良かったというよりも、この百人隊長の、癒しの必要性に迫られた緊張感を見ることができるのです。この百人隊長はローマの隊長で、ある程度の権威の上に生きていたのです。そして今日の箇所にもありますが、部下に「行け」と言えば、その部下は必ず「行く」のでした。そのような意味では、大抵のことは自分の力、ローマの権威によって行うことができたのでしょう。

 しかし、この僕の病は違いました。このとき、百人隊長は「自分の力ではどうにもならないこと」に直面していたのです。もしかしたら百人隊長は、様々なお医者さんを呼んだかもしれません。有名な宗教家や預言者、魔術師なども呼び出し、「癒し」をお願いしたかもしれません。しかし、この「僕の病」はどうすることもできなかったのです。

 

2:  わたしが行って治そう

 イエス様はこの百人隊長の姿を見て、「わたしが行って、いやしてあげよう」(2)と言われました。 イエス様はこの百人隊長の「謙虚」で「優しい心」に心を動かされたのでしょうか。「わたしが行き、癒そう」と言われているのです。先ほども言いましたが、ローマ兵はユダヤ人からすれば「異邦人」とされ、ユダヤ人は異邦人と関わることを汚れることとして、家に入ることはもちろん、近づくことさえもしなかったのです。しかし、イエス様はそのような者のところに「行こう」と言われたのでした。ここにイエス様の愛の広さを見るのです。 イエス様は「異邦人」以外にも、「罪びと」「病人」という、当時の社会にあって差別されていた人々のところにも行かれたのでした。イエス様は、差別されている人のところに来られ、孤独な者と共に生きて、苦しむものと共に、その苦しみを背負われたのです。イエス様は「行こう。そして癒そう」と言われました。

 

 ここからイエス様の働き、癒しの出来事が始まるのです。最終的に、百人隊長の信仰により、イエス様が行くことはなく、むしろその一言で、癒しが与えられていくのですが、そこに、イエス様の行為「言葉」が与えられていくのです。ここに、イエス様の行為、その働きの大切さをみることができるのです。人間の「癒し」、つまり人間が人間として生きるための「命の救い」を与えることができるのは、イエス・キリスト、この方のみ、その働きのみによってなされるのです。イエス・キリストの働きがなくて、「命の救い」を与えられることはないのです。

 わたしたちは、そのことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは、自分で、自分の力で生きている、生きることができると勘違いしてしまうことがあるのです。日常生活を普通に過ごし続けているときに、私たちは明日もまた普通にやってくる、明日も、明後日も普通に生きていると、その命の大切さを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。このローマの百人隊長も、これまでは、そのように思っていたのだと思うのです。しかし、その中にあって突然「どうすることもできない」ことに出会った。どうすることもできない「病」を突きつけられたのです。

 

 自分では、どうすることもできない事。わたしたちもすべての者が、そのような出来事に出会うのです。最終的には「死」という出来事。自分ではどうすることのできないことに出会うのです。自然災害、病気、事故、そして死。私たち人間にはどうすることもできないこと、「限界」があるのです。どれほど権威を持っていても、どれほどお金を持っていても、どうすることもできない事があるのです。その一番の出来事が「命」の出来事です。私たちは自分の命を延ばすことも、ほかのだれかの命を一日、一秒も、どうにか引き延ばすことはできないのです。聖書のルカによる福音書では、多くのたくわえをした人間が、その夜、神様によって命が取り上げられるという箇所があります。どれほどのお金があっても、そのほか何か素晴らしいものをどれだけ持っていても、私たち人間には、「命」をどうすることもできないのです。ここに、わたしたちは、命の創造主なる方がおられること。神様の存在を知らされるのです。

 今日の箇所において、ローマの百人隊長は、「僕」の病をどうすることもできなかったのです。その中で、自分の無力さ、自分の弱さ、力のなさ、限界を知ったのでしょう。そしてそのうえで、このローマの隊長のすべてを捨ててでも「僕の癒し」を求めるのです。百人隊長は「もうどうすることもできない」と自暴自棄になるのでも、または、「どうしてこのような苦しみを与えるのか」と、神様を恨むのでもありませんでした。百人隊長は、この「どうすることもできない」ことに出会う中で、「命」を造られた方がおられるという思いを与えられたのです。そして自分の力の無力さを知り、人間の限界を受け止め、神様の前に謙虚に生きる道を選んだのです。百人隊長は自分のプライド、権威を捨てた。それでも「僕が癒されるために」、自分の支配するユダヤの人イエス・キリストに「懇願」したのでした。

 

3:  御言葉を信頼する

 イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。わたしが百人隊長の立場であれば・・・「よかった、早く来てください」と、来てくださることを喜んだでしょう。しかし、この百人隊長は違いました。百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(8:8)と、このように言うのです。百人隊長は命を掛けて「癒してください」と懇願したのです。それなのに「自分は、あなたを我が家に迎えることができるようなものではありません。ただ一言おっしゃってください。」と、とても矛盾したような言葉を語るのです。

 なぜ百人隊長はその一言だけを求めたのでしょうか。そこには、2つの意味がありました。一つは、百人隊長の言葉にあるように「自分は来ていただくのにはふさわしくない」ということです。このことばは「自分の弱さ」を理解した言葉です。ただ「自分はだめな人間だから・・・」といった自己否定した言葉ということではありません。百人隊長は、自分の無力さに出会い、自分の弱さを教えられたのです。その自分の弱さを知る者として、へりくだり、謙虚な者とされたのです。聖書では「神様の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)と教えます。そして「弱いときにこそ強い」というのです。「弱さを知ること」。それは私たちが「自分でできる」そして、「自分でしなければならない」「自分の力がすべてだ」というところから解放される事なのです。私たちは、神様の前にへりくだり、その力を求めたときに、本当の神様の恵みを知るのです。

 

 そして、百人隊長が、ただイエス様から一言だけを求めた意味の、もう一つには、なによりも、このイエス・キリストによる言葉を信じた、「信仰」があるということです。論理としては、9節に8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」このように言っているのですが・・・なによりも、この百人隊長は主イエス・キリストを信じたところに意味があるのです。百人隊長は、イエス様は「自分のところに来てくださる」と言った、そのイエス・キリストを信じたのです。本来、来ることなどありえない、差別や世間体、そのようなものに縛られ、来るはずがない。そのような民族間の問題も、病気や、異邦人といった問題も、まったく関係なく、「わたしが行こう」と即答されたイエス様を信じた、そしてその方の一言を信じたのです。

 

 現代は、本当に「言葉」が溢れている時代です。携帯をもっていると、何もしなくてもそこにニュースが送られてきます。私は携帯ではスポーツのことを良く調べているのですが、そうするといつの間にか、あまり関心のないスポーツのことまで勝手に送ってくるようになりました。インターネットで、検索をすれば、ほとんどのことは調べることもできます。ただ、その「情報」「言葉」がどれほど正しいのかはとても疑わしいことが多いのです。テレビ、ラジオ、インターネット、本当に、私たちのこの時代は「情報」が溢れています。ただ、そのため「言葉」の重みがなくなっている時代ということもできるでしょう。

 

 そのような中で、今日のこの百人隊長の言葉は、言葉の重みを教える言葉でもあるのです。ただ一言、イエス・キリストの一言さえあれば、命は癒される。救いが与えられるというのです。ここに私たちに与えられている、聖書の御言葉の重み、御言葉の力を見るのです。聖書の一言は人間に新しい命を与える言葉であり、救いを与える言葉です。私たちがへりくだり、心から求めていただくときに、御言葉は私たちに命を与えてくださるのです。神様の御言葉には命があるのです。神様の御言葉は、私たちが生きるための力、生きていく勇気、希望、そして愛を与えて下さるのです。

 

4:  イエス・キリストによる執り成し

 最後に、今日の会話、出来事は「百人隊長」と「イエス様」のやりとりでした。その中で、確かに百人隊長は大きな恵みをいただいたでしょう。確かな救いの主、命の方、イエス・キリストとの出会い、その御言葉の力に出会ったのです。そこに生きる希望、本当の愛に出会ったのです。ただ、実際に癒されたのはその「僕」でした。ある意味、この僕は何もしていません。しかし、癒されたのです。

 それはただこの百人隊長の「執り成し」によるものでした。百人隊長は、自分のプライドを捨ててまでイエス様にお願いしたのでした。この百人隊長の執り成しから、私たちのために執り成してくださっているイエス・キリストを見るのです。イエス・キリストは、自分がいた「神」という立場から、「人間」となられ、持っているものすべてを捨て、最後には、その命を捨ててまで、私たち人間に命が与えられるようにと、執り成してくださった。そして今も、祈ってくださっているのです。イエス・キリストは私たちのために、命をかけて救いを懇願されているのです。私たちはこのイエス・キリストの執り成しによって、今も、命を与えられ、今も生かされているのです。

 

 わたしたちはこのイエス・キリストによって執り成された者として、新たな命を得て、歩き出したいと思うのです。「僕」の病は癒されました。同じように、私たちは、生きる救いの命を与えられたのです。私たちは、百人隊長の「僕」のように、イエス・キリストの懇願、命をかけた願いによって癒されたのです。新しく生きる命を与えられたのでした。

 私たちは「僕」として癒されました。そのうえで、今、「百人隊長」のように生きる者とされていきたいと思うのです。つまり、執り成す者。隣人のために祈る者です。

 イエス様は百人隊長に、最後に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(8:13)と言われました。この言葉は口語訳では「行け、あなたの信じたとおりになるように」(8:13)新改訳では「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」(8:13)となっています。「帰りなさい」。それは新しく生きる道を「行きなさい」という意味です。また一歩新しく踏み出しなさいという意味を込めた言葉です。この言葉が言われたとき、僕は癒されたのです。

 ここには記されていないのですが、おそらく百人隊長は「帰り始めた」つまり、「新たな道を歩き出していたのでしょう」。わたしたちもまた、今、新しく、キリストの僕として歩き出したいと思います。イエス・キリストは、私たちのために執り成して祈って下さっている。私たちの生きているこの命は、このイエス・キリストの執り成しによって与えられているのです。わたしたちは、このイエス・キリストによって執り成され、いただいている命をもって、今度は私たちが、執り成す者として歩き出しましょう。(笠井元)