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2018.11.25 「共に福音にあずかるために」(全文)  Ⅰコリントの信徒への手紙9:23

 今日からバプテスト世界祈祷週間が始まります。世界に広がるキリスト教会のために祈るこの週、本日の礼拝の中で劉雯竹先生と徐連月さんが教会員に加えられたことは嬉しいことです。世界祈祷週間は中国に派遣されたロティー・ムーンという人が米国のバプテストの諸教会に呼び掛けて始まりました。中国との関わりということで、何か、神様のお導きのようなものを感じています。ロティーは、飢饉で食べるものの少ない中国の子どもたちのためにクリスマス献金を訴えたのです。ロティー・ムーンは、1840年12月17日ヴァージニア州ヴェーモント市で生まれました。私は、同じヴァージニア州で1年間留学生活をしましたが、南北戦争の激戦地リッチモンドという町でした。そこには米国南部バプテストの外国伝道局の大きな事務所がありました。そして町の中心から小さな谷を一つ越えるとその丘にはかつて病院があり、ロティー・ムーンのお姉さんが働いていたそうです。彼女も中国への宣教師を夢見ていたのですが、南北戦争中でもあり、過労や病気で中国に行くことはできませんでした。私はその丘に立って彼女らの国外伝道への思いを感じました。パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それはわたしが福音に共にあずかる者となるためです。」と語っています。イエス・キリストが私たちを愛し、そのいのちをかけて愛し抜いてくださった、いや、くださっている、という喜びのメッセージはだれか他者と共に与るものなんだ、と言っています。私がリッチモンドに到着した翌々日は日曜日でした。どこにバプテスト教会があるのか全く見当もつきませんでしたので道端の看板の掃除をしていた壮年に、「私はユニオン神学院に留学にきたのです。どこか近くにバプテスト教会はあるでしょうか」と尋ねました。すると彼は自分の自動車に乗せて町の郊外のバプテスト教会に連れていってくれました。そして、「今日、君にだれも声をかけず、食事に招いてくれなかったらこの番号に電話してくれ」と電話番号の書いたメモを渡してくれました。バプテスト教会の礼拝は700人くらいの会衆でしたが、残念ながら誰も声をかけてくれませんでした。そこで、朝お会いした男性に電話し、ご家庭で夕食を共にし、とうとう、その家に泊めていただきました。そして、次の日は「日本製だよ」と言ってホンダの車を貸してくれました。初めて出会った一人の日本人にここまで良くしてくれるアメリカのクリスチャンの懐の深さを覚えました。まあ、ユニオン神学院は長老派という教派の神学校であり、彼も長老派教会の長老のひとりであったからかも知れません。その年の長老派の教会は日本のために祈る年でして、数か所の教会で説教する機会がありました。こうして、バプテスト教会はもちろんのこと、教派を超えて、全世界の教会が日本と日本社会のために祈っているのです。わたしたちは祈られている。私たちは祈られている。その事実を知りながら生活できることは素晴らしいことではないでしょうか。「共に福音にあずかるために」という思いで、全世界のキリスト者たちが、私たちと日本のために祈っているのです。

 日本では戦争が終わって10年後1955年12月15日に調正路・清子夫妻を国外伝道として沖縄に派遣しました。施政権は米国にあったので沖縄に行くには、パスポートが必要でした。私の青年時代、沖縄からきた青年を我が家に招いたことがありました。彼もヤマト本土入国にはパスポートが必要でした。彼は我が家の庭に降る雪を見て、「初めて雪を見た」と驚いていました。そんなことに驚く彼に驚きましたが、本土の人は「沖縄では、日本語をしゃべるのか? 沖縄ではお米を食べるのか」と聞かれて随分傷ついたと言っていました。ヤマトの国からどこか切り離され、軍事基地を押し付けられてきた沖縄の悲しみを感じました。バプテスト連盟は1991年になって、沖縄を国外伝道として扱ったことを沖縄に謝罪しています。宣教師を送らないと見えてこない、日本社会の光と影を見た思いです。

 1964年、戸上信義・公子夫妻をブラジルへ宣教師として派遣しました。就学前の二人の子を連れての船の長旅は大変だったでしょう。私の父は貧しい学者の子でした。戦争ということもあり、祖父の三番目の妻の長男でした。貧しいけれど大家族でした。「貧しさから解放されるためブラジルへ移民に行きたかった。しかし、両親や大勢の兄弟姉妹を養うため高校を卒業後すぐ働かねばならなかっと」とある日ぽつりと言ったことがありました。その時から、ブラジルが日本人の多くの移民を受け入れてくれた国として心に残りました。移民の実際はかなり過酷な状況であったようですが、受け入れてくれた国であったことは事実でしょう。

 次に、1993年、インドネシヤに浅見祐三・鈴子夫妻を派遣し、1990年木村公一・オッチョ夫妻を送りました。木村宣教師の在任中、5~6名の青年を連れてインドネシアのセマランを訪問したことがありました。第一日目、インドネシヤで、してはいけないことを教わりました。「お土産を渡すなど、好意を示すときでも、不浄の手である左手を使わないこと、子どもたちの頭に手を置かないこと、侮辱されたように感じるのでしょうか。そして、飲み物など出されてもすぐ飲まないこと」。文化はそれぞれですね。また、ある男性に言われました。「お前は日本人なのに、なぜ坊主頭じゃないのか!」。かつての日本軍人はみな坊主だったのでしょう。過去の日本による戦争に対する嫌味です。ちょっと手を伸ばすとマンゴーやパパイヤが取れ、石油もある。インドネシヤに魅力を感じた先輩日本人たちの気持ちを分からないわけではありません。しかし、やはり、戦争は良くありません。

 タイや私の教え子が宣教師としているカンボジヤやミャンマー、そしてシンガポールのことなど、まだお話したいことが沢山ありますが、このくらいにしておきます。外国に宣教師を派遣し、福音を共に分かち合うときに、日本の社会のすばらしさと問題点、世界の国々の良い点と問題点も見えてきます。

 私たち、皆さんが、直面している問題は厳しく、重たいでしょう。そして、孤独でもあるでしょう。しかし、今朝、みなさん、お一人お一人がもれなく、神様から愛されていること、神のみ子イエス様が皆さんの傍らに居て下さること、世界のキリスト者から祈られていることを知って欲しいのです。そして、私たちも世界の隣人たちのために祈り、ささやかでも献金をしましょう。(松見俊)