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2018.12.24 「神に信頼せよ、力が力を生むことに心を奪われるな」(全文)  詩編62:8-13

 今宵、2018年のクリスマス・イヴ、私たちはどのような気持ちで、ここに集まっているのでしょうか? 神様が私たち、一人ひとりをこよなく愛し、その独り子イエス様を与えて下さった!この喜びと感謝に溢れた出来事を賛美し、もう一度心に刻み付けるためにここに集まっているでしょうか。あるいは、日本社会でもハロインを祝うようになり、その脱線が東京の渋谷で問題になりましたが、同じようなお祭り騒ぎ、憂さ晴らしを求めてクリスマスを祝うのでしょうか?あの騒ぎの裏には、実は、どう仕様もないような行き詰まり感、閉塞感があるとしたら悲しいです。青年たちだけでなく、私たちもどこか同じような想いを心に抱いていないでしょうか?

 

1.私たちは、何に、誰に「信頼」を寄せているのか?

 今晩、選んだ聖書箇所では、親しい者の裏切りと敵意、偽りに直面し、信仰の詩人は魂の底からその信仰を絞り出します。「わたしの救いと栄えとは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」(8~9節)であると。詩人は「力と頼み、避けどころは神に」「神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」と言います。キーワードは「信頼」です。今宵、皆さんの信頼しているものは何か、「私はこれに信頼する」と告白するものは何でしょうか。

 今年一年を振り返り、私たちは何を思うでしょうか?今年の世相を表す漢字は「災」だそうです。「災」が選ばれたのは、二回目ですが、日本漢字能力検定協会が公募し、多数決で決めることに批判もないわけではなりません。それでも今年も清水寺の貫主が揮毫した、この「災」の文字をテレビでご覧になった方もあることでしょう。確かに今年は、北海道、大阪、島根の地震、西日本豪雨、大型台風の上陸、記録的猛暑など「自然災害」が頻発した一年でした。また、「自然災害」だけではなく、深く「人災」というか、「人間性の崩壊現象」もいうべきものが進行したのかも知れません。スポーツ界のパワハラ・暴力問題、行政の「忖度」と文書改竄問題、立法府で行われている議論の余りの酷さ。弱肉強食の競争社会で、人のことなど考えられないという余裕のない社会が世界的に広がっています。まさに、今まで信頼していたものが崩れかけているのではないでしょうか。人間にとって大切な「平和」「心の平安」が本当に脅かされている。それはまさに、これまで信頼してきたものが崩れそうになっていることから来ているのではないでしょうか?私たちは、何に、だれに信頼を寄せているのでしょうか?

 

2.暴力、搾取、富に頼るな

 世知辛い世の中、私たちはどこかで「暴力」、「搾取」あるいは「富」に頼ろうとしていないでしょうか? 詩人は語ります。「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」(11節)。この警告の言葉は、昨年からずっと私の心に響いています。毎月第四土曜日に天神の米国文化センターの下で1時間ひたすら讃美歌を歌っています。沖縄に軍事基地を一方的に押し付け、辺野古への埋め立ての土砂が投入されています。心を痛めながら、ではどうしたら良いか分からないのです。そのような中で、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」という言葉を聞いています。「力が力を生むことに心を奪われるな」。この世界は、暴力や軍事力の競争の世であり、危うい、狂気のような力の均衡の中にあります。報復には報復を、まさに、力はそれに対抗する力を生み出すだけで、それに心を奪われると、大変なことになるのではないでしょうか? もっとも、この個所のヘブライ語の原典をはじめ、英語の翻訳などを読んでみましたが、この3番目の警告は、「富が富を生むことに心を奪われてはならない」ということを言っているようです。口語訳聖書は、「あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。」と翻訳しています。スイスの若き牧師カール・バルトは第一次世界大戦前夜、1913年、スイスの田舎町での説教で、スイス国民に呼びかけています。「たとい小さな群れでも、そこにまだ本当の・仮借なき祖国の友がいるかぎり、私たちの民族の健康と純粋性について何ら心配する必要はない」(283頁)あるいは、「私たちがもはや何の理想も持たない民族になる危険が非常に大きいのである」(292頁)と訴え、「力は神だけのものである。これが私の朗読した短い聖書の言葉である」と言います。バルトは、随分祖国スイスを愛した人だったのだなあと感心します。私たちの社会は、お金のこと以外に興味がない。いや何とかわずかな「おこぼれ」にあずかるため、束の間の平穏と引き換えに、体制に迎合する、一度多数をとれば何でもできると勘違いし、人の痛みを思わない社会、バルトの説教で言えば「何の理想も持たない民族」になっていないかと恐れています。 「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。富が富を生み出す魔力に魅了されてはならない。」「人の子らは空しいもの、人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い」それらは、土から造られた人間のことがらに過ぎないのだというのです。人の子らは空しいものである! 

 

3.神の力は憐れみと結合されている

 人はどこまでも人に過ぎない。詩人は、「力は神のものである。人間のものではない」と言います。「人はどのように賢く、強く見えても所詮、空しい息のようなもの、それよりも軽いものに過ぎない」と語ります。だから、神に信頼せよ。神への信頼、そこにこそ私たちの生活を築かねばならず、築くことができるのです。それが絶望的経験を味わい尽くした人の結論です、素晴らしいことは、「力は神のものである」と共に、「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものです」(13節)と歌われていることです。「力の伴わない慈しみだけでは、それは、脆弱とおうものでしょう。「慈しみの伴わない力は単なるまさに暴力です」。聖書が証言する、神においては、力と慈しみ(ヘセド)が一つに硬く結ばれているのです。ここに救いがあります。

 

4.飼い葉桶の乳飲み子とその笑みの力

 今年もまた、イエス様の誕生の次第に耳を傾けました。そのような讃美歌を歌いました。主イエスのお誕生の話ですから「赤ん坊」のイエス様が語られるのは当然でしょう。聖書は、飼い葉桶に寝かされている、「幼子」に神は宿っておられるといいます。飼い葉桶に寝かされている幼子イエス、そこにこそ神が共におられる。なんという慰めと喜びに満ちたメッセージでしょうか!私たちに平和を来させるしるしは飼い葉桶に横たわるイエスである。乳飲み子というのは、全く無防備であり、無力に見えます。人から踏みつけられたらひとたまりもありません。しかし、人が自己武装や敵意から解放されるのは、このような無力で、無防備で横たわるイエスに出会うときなのではないかと思います。今こそ、人類が立ち帰るもの、日本社会が希望を託すもの、私たちが信頼を置くべきお方はこの幼子姿のイエスなのではないでしょうか。それ以外の処では、暴力と欺き、富が支配するではないでしょうか。しかし、そのようなものは一見、力があるように見えますが、人間の力であり、息のように軽いものであることが必ず暴露されるでしょう。

 「赤ん坊」には人を癒す力、平和をもたらす力があるのでしょう。無防備、無力さこそ人を和ませる力がある。「赤ん坊」の前で「腕組み」をして自分を守る必要はありません。その微笑にはこちらも微笑んでしまいます。先日、NHKの「ダーウィンが来た」でベニガオザルの話をしていました。サルの群れの中でオスたちが激しい戦いを始めるとアカチャンサルが出動するそうです。すると喧嘩していたオスサルがアカチャンを抱っこし、優しく、おだやかになる。このことでベニガオザルは群れとして生き延びてきたというのです。皆さんをサルに譬えて申し訳ないと思います。しかし、有名な「きよしこの夜」において、「きよしこの夜 星はひかり、救いのみ子は まぶねの中に 眠りたもう いと安く」「きよし この夜 み告げ受けし 牧人たちは み子のみ前に むかずきぬ かしこみて」「きよしこの夜 み子の笑みに 恵みのみ代の あしたの光 かがやけり ほがあらかに」由木康先生の名訳でありまあすが、本当に「和やかな場面」ではないでしょうか!西欧の名画のようにイエスの上に後光を描かなくとも、そのほがらかな笑みには平和な輝きがあるのではないでしょうか。なぜ、クリスマスがこれほど日本社会はじめ全世界に定着したのでしょうか? 寒い冬、長い夜の中で、光が輝き、この時以来日が長くなりはじめる時だからという理由もあるでしょう。プレゼントを贈り合うということも素敵なことでしょう。しかし、人は自分の子どものころを思い出し、こどもたちのことを思うからではないでしょうか? 無防備で、無力な乳飲み子にこそ平和を来らせる力があることを思いださせるからなのです。私たちが信頼すべき方は、飼い葉桶の乳飲み子に現れた神とその笑みの力です。

 

5.十字架への道:復活の希望

 この方は、その生涯を幼子のように、無力で無防備な仕方で始められましたが、その生涯を父なる神に信頼し、また、弱く、貧しくされた隣人たちに寄り添って生きられました。その最後は十字架において、まさに、無力で、無防備で、裸で殺されたのです。しかし、神はこのお方を死者の中からよみがえらされ、二千年に亘って人々の心に生き続けておられるのです。そのような運命を担うことになるお方は赤ちゃんとして飼い葉桶に横たわっておられる。十字架で殺され、よみがえられたお方から遡ってこのようなクリスマスの物語が描かれています。「日本国憲法」はその前文において「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と告白しています。

 現在の社会は、余裕を失い、人などかまっていられない。自分のことで勢いっぱい、アップアップです。分からないわけではありません。しかし、どこか自分の首を自分で絞めていることはないのかと問われていないでしょうか。日本国憲法の「前文」はまるで赤ん坊のような言葉の連なりのようです。暴力と搾取と富の加速度的な偏在が進む世界においては、無力で、無防備な宣言かも知れません。しかし、非暴力で、十字架で殺され、無力で、貧しく、無防備な幼子としてお生まれになったお方にこそ「平和」の道が開かれるという聖書の教えと響き合うものがあるように思います。私たちは一つの決断の前に立たされています。だれもが選びそうな広い道:「暴力に信頼し、搾取を誇り、富が富を生み出すからくりに心を奪われる」道か、あるいは、乳のみ子の笑顔を見て、心安らぎ、心癒され、「にこっ」と笑顔を返す道。乳飲み子は、他者なしでは生きられないことを知っています。それは、十字架に至る狭い道であるかも知れません。しかし、よみがえりの道、永遠のいのちの道は、十字架への道のかなたにあります。(松見俊)