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2019.2.3 「新しい救いに生きる」(全文)  マタイによる福音書9:14-17

1:  断食すること

 今日の箇所では、まず、ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て、「断食」について問いかけました。ヨハネ、つまりバプテスマのヨハネですが、このバプテスマのヨハネについては、マタイの3章で、このように記されています。【3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。】(マタイ3:1-4)バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの福音の道を整える者として来たのです。ヨハネは、「荒れ野で宣べ伝え」、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」のでした。バプテスマのヨハネは、神様の前に悔い改め、もう一度、きちんと神様に目を向けるために、その生活としては、「荒れ野に住み」、「いなごと野蜜」を食べる生活、つまり質素で、貧しい生活を送っていたのです。この後、11章ではこのようにも言われます。【11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。】(マタイ11:18-19)このような言葉からも、バプテスマのヨハネの生活は、とても厳しい生活であったと考えられるのです。そして、今日の言葉もあるように、当然断食も行っていたのでした。

 もともと、ユダヤの民にとって、断食というのは、神様と向かいあう大切な行為の一つでした。基本的には、断食とは、罪を悔い改めること、神様の前にへりくだること、そしてそこから神様に目を向けていくために、行われていました。今日の箇所では「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに」(14)とありますように、バプテスマのヨハネと同様に、ファリサイ派の人々もしていたことがわかります。ファリサイ派の人々とは、律法を厳格に守る人々でした。バプテスマのヨハネも、ファリサイ派の人々も、律法を忠実に守り、そのことから神様に従う道を見出していたのです。

 今日の箇所を読みますと、イエス様が断食を否定されていたようにも聞こえますが、イエス様は、この断食自体を否定されてはいたのではありません。イエス様自身もマタイの4章で、伝道を始める前に40日40夜断食を行ったのです。イエス様もまた、断食をすることによって、神様にきちんと向きあい、自分自身の信仰を問い、悔い改め、へりくだる者とされていったのです。

 

 ただ、もちろんすべての人ではないと思いますが、当時のユダヤの中では、断食をすることで神様と向き合うことだけではなく、どちらかというと、自分の正しさを人に見せるために行う行為となってしまっていたのでもありました。断食を行うことは、律法を守っていることを表す、とても分かり易い行為でした。本来、神様と向き合うための行為「断食」が、いつの間にか、社会で認められるための行為となり、そこから今度は「断食」をしない人たちを非難する行為ともなっていってしまっていたのです。イエス様はそのような形だけの行為、神様を見上げるためではなく、ただ自分が正しい者とされるための行為、またはその行為を行わない人、または行うことができない人を罪人とするようなこと、そのような思いで律法を行うことを強く批判されたのでした。

 

2:  布とぶどう酒によるたとえ

 そのような断食についての理解、また当時の状況などを踏まえたうえで、今日の箇所では、イエス様は断食についてというよりは、そのことを通して神様に目を向けること、神様の愛に応答する新しい福音、新しい生き方について教えているのです。 

 今日の箇所で、イエス様はこのように言われました。【花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。】(9:15)イエス様は断食自体を否定されはしていません。しかし今は「花婿が一緒にいる時」だと教えるのです。ここから、イエス様はこれまで、神様に応答する行為として、断食、そして「律法」を守ってきましたが、もはや今はそのような形ではなく、もっと別の新しい形で応答することが始まることを教えているのです。

 ここから、イエス様は「布きれと服の継あて」について、そして「皮袋とぶどう酒」について語り、新しいことと、古いことについて話していくのです。

 

 イエス様は16節からこのよういに言います。【9:16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」】(9:16-17)この新しい布と古い服、そして皮袋とぶどう酒については、現代の私たちにはあまりなじみのない例話となってしまっているのかもしれません。現代でも、もちろん服の継ぎあてはすることはあるかもしれませんが、それでも、どちらかと言えば、服が破れてしまったら、それはすぐに捨てて、もう一度新しい服を買う。今は、そのような時代になってしまっているのではないでしょうか。それは、服だけではなく、なんでも壊れたら修理するというよりは、それは捨てて、新しい物を買う、また新しい物を買わせる、そのような社会となってしまっていると思うのです。

 また、ぶどう酒については、イエス様の時代の人々にとっては、とても身近な生活の一部としての事柄でした。ヨハネによる福音書で、イエス様が最初になされた奇跡は、水をぶどう酒にするという出来事でした。そのほかにも、イエス様は「わたしはぶどうの木」と言われたり、聖書に他の箇所にも、ぶどう、ぶどう園、そしてぶどう酒のお話しは様々な箇所に出てくるのです。ぶどうから、ぶどう酒を作るときには、ぶどうを発酵させるのですが、その発酵する時に、ぶどうから二酸化炭素が生じるのです。そのため、入れ物も、柔軟性のある新しい皮が必要だったのです。イエス様は、ここでは、古いものと新しい物は、違うものとして区別をする必要があること、分離をする必要があることを教えているのです。古い物と新しい物を同じものとしてくっつけると、そこでは、新しい物が古い物を引き裂いてしまうほどの力が生まれてしまうことを教えているのです。

 

3:  新しい救い、十字架と復活

 イエス様は、この布とぶどう酒の例話から、一つの新しい生き方を表しています。断食の問題はその一つの象徴的な事柄なのです。イエス様が言われた古い物。それはこれまで教えられてきた生き方。つまり律法を守ることによって恵みを得るという生き方です。そして、それに対して、新しい物、それは新しい生き方、つまり福音を受け取ることによる生き方です。この箇所を読むときに、まず、間違えてはならないのは、イエス様は律法を守ることを否定しているのではないということです。イエス様はこのようにも言われました。【5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」】(マタイ5:17)イエス様は律法を完成するために来られたのでした。

 そのうえで、イエス様は新しい生き方を示されたのです。これまで人々は断食を行うことによって、つまり、律法を守ることによって、神様に向かっていこうとしていたのです。それは、ある意味、人間が自分たちの力で神様に目を向け、神様と共に生きようとしていた。つまり、人間の行為によって、神様の恵みをいただくという生き方、思いがあったのです。このような生き方は、私たち自身にも問いかけてみたいと思うのです。自分で正しい生き方をしなければならない・・・と思っていないか。私たちは自分が神様に従わなければならない・・・そうしなければ、恵みをいただけない、と思ってしまっていないでしょうか。しかし、イエス様が教える新しい生き方は、その真逆です。それは、人間が神様のもとに向かうのではなく、神様が私たち人間のところに来てくださったことから始まる生き方です。事実、神様は、イエス・キリストによって、私たち人間のところに来てくださり、共に生きる方となられたのでした。ここに神様の一方的な救いの恵みの出来事が起こされたのです。私たち人間が神様に向かうのではなく、神様が私たちのところに来てくださったのです。ここに新しい救い、福音の出来事が起こされたのでした。ここに、これまでの生き方、つまり律法を守ることによって恵みをいただく生き方ではなく、神様の慈しみによる恵みをただ信じて、受け取り、その恵みを受け取った者として、そこから神様に従って生きるという生き方が示されたのです。

 

 イエス様はこのように言われました。【9:15 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」】花婿が奪い取られる時。それはイエス・キリストによる十字架を意味しています。イエス様はこの時から、その十字架の出来事を見据えておられました。この十字架によって、ある意味、本当に花婿とされるイエス・キリストは奪い取られたのでした。イエス・キリストの十字架の出来事。それは、これまでの律法を守る行為、つまり私たちが何かを行い、自分を清めて、神様に向かっていく行為から、神様が、私たちのために、自らがその汚れ、罪、痛みを受けてくださったという出来事なのです。このような「救い」はファリサイ派の人々にとっても、ヨハネの弟子たちにとっても、誰であっても人間には考えられない「新しい」救いの出来事でした。神様が、人間のために、命を捨てられる。このようなことが考えられるでしょうか。キリスト教では、イエス・キリストの十字架の死によって、救いが与えられている。私たちの罪のために、イエス様が死なれたと教えます。そして教会に来て、長くなる方は、もうその福音の出来事が当たり前のように聞いてしまっているかもしれません。しかし、全知全能であり、この世界の創り主、そして私たちの命の創造主であり、今も、その神様の計画のうちに、私たちが生かされている。その神様が私たち人間のために、命を捨てられたのです。

 そして、それ以上に新しい出来事、新しい福音。それは復活です。イエス・キリストは十字架で死なれ、そこで終わったのではありませんでした。十字架の上で死なれたイエス・キリストは、その後、神様から新しい命を与えられ、復活されたのです。この復活を通して、本当の新しい救いが始まったのです。イエス・キリストは、痛みや死、その苦しみと罪を受け止められ、そこからその死と罪を打ち破られたのでした。それが復活の出来事です。

 主イエス・キリストは十字架によって、罪と死と汚れを受け取られ、復活によってそのすべてを打ち砕き、救いを成し遂げられたのです。この復活の出来事が、私たちに本当に生きる生き方、命を与えてくださっているのです。

 

4:  新しい生き方

 今、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちには新しい救いの出来事が与えられました。このキリストの恵みを受け取る私たちがなすべき、新しい「断食」。すなわち、イエス・キリストに従う道は、どのような道となるのでしょうか。それは、ただこのキリストによる福音、救いの出来事を土台として生きる道です。自分で何かをするのでも、他の何でもなく、ただ神様の慈しみによってなされた救いを受け取り、その恵みのうちに生かされていくことです。

 イザヤ書にはこのような言葉があります。イザヤ書58:4、6-8【58:4 見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。】【58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。】

 神様が求められている断食、それは「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまない」ことだと教えるのです。イエス・キリストこそ、まさにこのことを実行なされた方でした。このイエス・キリストの無償の愛によって、私たちは生かされているのです。神様は、私たちを愛してくださっています。わたしたちはまず、この愛を喜んで受け取りましょう。そして、神様が私たちを愛してくださっているように、私たちもお互いに愛しあっていきたいと思います。愛すること、マザー・テレサは、それは「分かち合うこと」だと言っています。私たちは、今、誰と、何を分かち合うことができるでしょうか。考えてみましょう。まず、私たちだれにでもできることは、祈り合うことだと思います。自分の時間を割き、隣人のことを知り、そして祈ること、それはだれにでもできることです。

 私たちはまず、隣人のために祈ることから始めていきましょう。そのように相手のことを考えていくときに、もっとお互いに何かを分かち合うことが見つかっていくと思うのです。

 私たちは、このイエス・キリストに生かされている恵みを受け取り、私たち自身も、この神様の求める断食、つまり「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまない」道、つまり、隣人を愛する道、隣人と分かち合う道を、歩き出したいと思います。(笠井元)