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2019.3.3 「人生に関わるイエス・キリスト」(全文)  マタイによる福音書9:27-34

1:  ダビデの子

 今日の箇所では、二人の盲人がイエス様に向かって「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのでした。この「ダビデの子」という言葉の意味ですが・・・ダビデとはイスラエルの王様です。しかも、その子どもソロモンの時代も含めて、イスラエル王国の一番の繁栄の時の王様でした。ダビデ王、そしてソロモン王の時代が、イスラエルが一番繁栄した時代だったのです。イスラエルはその後、ソロモンの子どもの時代から、北イスラエル王国と南ユダ王国と二つの国に分裂し、北イスラエルはアッシリアに、そして南ユダ王国は、バビロニアに征服され、人々は奴隷として連れて行かれることになるのです。イスラエルの人々にとってみれば、ダビデはイスラエルの英雄であり、繁栄の象徴、希望の姿です。イスラエルの人々は、このダビデの子孫から、いずれ救い主、メシアが生まれると信じて、その救い主の誕生を待ち続けていたのです。つまり、「ダビデの子」とは「救い主」を意味していました。ここで二人の盲人は、イエス様を「救い主」と叫んだということになるのです。「ダビデの子」としての「救い主」とは、基本的には、他の民族を力で支配し、イスラエル民族の栄光が回復する、そのような民族の繁栄のためにこられる「救い主」を意味していました。そのため、この盲人二人がどのような思いでイエス様を「ダビデの子」「救い主」と叫んだかといえば、たぶんそのようなイスラエル王国の回復をしてくれる「救い主」として叫んだのだと思います。そのような意味では、実際の救い主イエス・キリストの存在とは少し意味が違うのかもしれませんが、ただ、それでもこのマタイによる福音書において、イエス様を「救い主」と叫んだ最初の人間となるのです。

 このダビデの子、救い主が来られたときに、何が起こるのか、それはイザヤ書ではこのように言われていました。【35:5 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。】(イザヤ35:5-6)このイザヤ書の預言が、このマタイによる福音書では実現しているのです。この二人の盲人の思いは、どちらかと言えば、少し本来の意味とは違う意味での「救い主の到来」を叫んだ言葉だったかもしれませんが・・・マタイによる福音書の著者は、確かに、このイザヤ書による「救い主」の到来、旧約の時代から待たれていた救い主が来られたことを理解して、ここに記しているのです。今日の箇所では、盲人が癒され、その後、口の利けない人が癒されていきます。つまり「ダビデの子」「救い主」は、力によって他の国を支配する方ではなく、「見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開く」、そのような方として来られたことを、教えているのです。

 

2:  信仰の問い

 さて、ここで盲人は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(27)と叫びました。「憐れんでください」。盲人は精いっぱいイエス様に救いを求め叫んだのでしょう。ただ、この言葉は、二人の盲人が何を求めていたのかがとてもわかりにくい、あいまいな言葉となっているのです。この箇所ととても似た場面が、マタイの20章にもあります。そこでは、「憐れんでください」と言われたイエス様は「何をしてほしいのか」(20:32)と問いかけるのです。その問いに対して、20章で二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と明確に、肉体的な癒しを求めているのです。では今日の場面において「憐れんでください」と叫んだ、二人の盲人は、ここで一体何を求めていたのでしょうか。

 盲人の叫びに対して、この場面でイエス様が言われたのは、「わたしにできると信じるのか」(28)という言葉でした。イエス様は20章では「何をしてほしいのか」と問われました。しかし、ここでは問われず、「わたしにできると信じるのか」と問われたのでした。この「わたしにできると信じるか」という問いかけは、肉体的な癒しだけを問いかけているのではないでしょう。この問いは「信じるのか」という問いかけ、つまり「あなたはわたしを信じているのか」という信仰の問いかけです。

 イエス様はこの二人に「わたしをダビデの子・救い主として信じているか」という信仰を問われたのでした。この信仰の問い、この問いは、私たち人間にとって、一番必要な問いかけなのではないでしょうか。「あなたはイエスを救い主として信じているか」。それは「あなたは何を救いとして信じているのか」ということであり、言い換えると「あなたはどうして生きていて」「何を求め、何のために生きているのか」。そして「あなたはどこに向かい、何を必要としているのか」という、そのような人生の根本についての問いがなされていると言うことができるのです。「あなたは何を土台として生きるのか。イエス・キリストを主と信じて生きるのか、それとも、別の何かを中心に生きるのか。」その人生の土台、生きる意味を、どこに置くのかが問われているのです。

 この問いかけに対して二人の盲人は「はい、主よ」と答えます。二人は、イエス様こそが「自らの主、救い主であると信じる」と答えたのでした。この二人の答えは、本当にたった一言ですが、二人にとっては大きな一言、人生を左右する大きな決断の言葉であったのです。

 

3:  決断

 二人の盲人は「はい、主よ」とイエス・キリストを自らの主として信じて、その道を歩き出す決断の応答をしているのです。二人はなぜこのような大きな決断ができたのでしょうか。当時、病気や障害は、自分の罪、または家族、先祖の罪によるものだと考えられていました。つまり、この盲人は、罪を犯したからこのような状態であると考えられた。この二人が人々にどんなに叫んでも、だれに助けを求めても、手を差し伸べられるのではなく、社会にさげすまれるだけだったのでしょう。

 二人の盲人は「憐れんでください」と求めました。もしかしたら、二人は、これまでもいろいろな人に「憐れんでください」と叫んだのかもしれません。しかし、だれにも相手にしてもらえなかったのでしょう。今日の箇所において、この叫びに対して、イエス様は「家の中に入られた」とあります。イエス様は、その叫びを聞きながらも、お家の中に入ってしまったのです。本来はここで、話が終わるのかもしれません。しかし、この二人の盲人はイエス様のそばに寄っていったのです。ここに二人の盲人がどれだけ強く救いを求めていたかがわかるのです。そこにはある意味、誰にも相手にされず、社会からさげすまれてきたその痛みの大きさとしても見ることができるのです。二人の盲人は「ダビデの子よ、憐れんでください」と自分の命をかけて求めたのです。

 「憐れんでください」。イエス・キリストはこの二人の叫びを聞き、その言葉を受けて、向き合ってくださったのでした。そこにすでに、イエス・キリストの憐れみがあるのです。この会話のやりとりの中に、イエス・キリストが二人の人生に関わり、寄り添い、生きておられることが表されているのです。イエス・キリストは二人を憐れまれた。そしてそれはイエス・キリストが、この二人の人生に関わってくださったということです。この出来事が二人の盲人の心を開いたのではないでしょうか。どんなに叫んでも、だれに求めても、さげすまれるだけの自分たちに、真正面から目を向けて、言葉を交わしてくださった。このイエス・キリストに、憐みをいただいた。ここに、神様の愛を感じたのでしょう。

 ここに二人は「はい主よ」と「自分は、主イエスを救い主として信じます」と告白し、そしてこの主イエスこそが自分の中心におられ、イエス・キリストを心の土台にして生きるという決心をしたのでした。このとき、二人の盲人の目は開かれたのです。

 

 先ほども言いましたが、マタイ20章では、「主よ、目を開けていただきたいのです」と肉体的な癒しを求めています。しかし、ここではイエス様は「信じるか」と、肉体的なところというよりも、むしろ信仰的な部分を問いかけている。そしてその問いに、二人の盲人は「信じます」と答えたのでした。この後、イエス様は二人の目に触れ、「あなたがたの信じているとおりになるように」(29)と言い、二人の盲人の目は開かれていったのです。二人の目は開かれました。ただそれは、肉体的なものだけではなく、信仰的な部分での盲目も開かれたことを意味するのです。 

 神様による癒し。それは肉体的な癒しだけではなく、その人の人生に神様が関わり、その人生に生きる希望を与える出来事なのです。神様は私たちの人生に向き合い、歩んでくださる。私たちが苦しむときには、共に苦しみ、私たちが喜ぶ時は、共に喜んでくださるのです。神様は私たちの人生に関わってくださるのです。ここに神様の愛があるのです。

 

 先日、あるテレビ番組で、自分の好きな人に振り向いてもらうために、いわゆる整形手術を何回も繰り返した。しかし最終的に振り向いてもらうことができず、絶望したというようなお話がされていました。私は、整形することが全部いけないとは思いませんが、何のためにか・・・ということはきちんと考える必要があると思うのです。それは、整形手術だけではないでしょう。何をするにしてもです。なぜ、今このことをするのか、何のためにするのか、私たちはいつも問われているのです。そしてその最終的な答えは2つしかありません。一つは自分の欲求のため。もう一つは神様のため。私たちが選ぶ最終的な選択基準はそれしかないのです。そして、この二人の盲人は、神様のために生きる。イエスを救い主として生きる決心をしたのでした。イエス・キリストの愛に触れ、イエス・キリストに目を開かれて、これからは、自分のためではなく、ただイエス・キリストを救い主として信じて、この主イエス・キリストのために生きるという決心をしたのです。

 イエス様は二人の盲人の人生に関わってくださったのです。共に生きて、共に苦しみ、共に喜ぶ道を選ばれたのです。このイエス・キリストが、私たちの人生に関わってくださっているのです。イエス・キリストは私たちを愛し、私たちの痛みを知るために十字架に架かられたのです。私たちは、このイエス・キリストの愛に触れたいと思います。

 

4:  御言葉に忠実である大切さ

 この癒しのあと、イエス様は二人に「このことは、だれにも知らせてはいけない」(9:30)と言われました。イエス様はなぜこんなことを言われたのでしょうか。

 その理由は二つあると考えられます。一つは、ファリサイ派の人々が「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(34)と言っているように、ファリサイ派などの人々に敵意が生まれるということです。この思いは、このあとのマタイ12章で「ベルゼブル論争」へと発展し、そしてその敵意は殺意へと変わり、最終的にイエス様が十字架に向かうこととなる出来事となっていくのです。もう一つは33節に【悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。】(33)とあるように、群衆が間違った期待をもってしまうということでした。

 群衆はイエス様の癒しから、イエス様はまるでなんでもできるスーパーマンのように勘違いをしてしまう。それは最初にお話ししたように、イスラエルを支配しているローマを打ち破り新しいイスラエル王国を作る方としての「ダビデの子」「救い主」を期待してしまうこととなるのです。しかし、その期待が裏切られていく中で、群衆もまたイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになっていくのです。

 

 目を開かれた二人は、イエス様を裏切る気などなかったと思うのです。むしろこのイエス様の御業を知らせることが、みんなにとっても、イエス様にとっても良いことだと思っていたのかもしれません。しかし、イエス・キリストの御言葉に従わないで、自分たちの自分勝手な判断で行ったことは、結局イエス・キリストを十字架に向かわせることとなってしまったのでした。ここから、わたしたちは、どこまでもイエス・キリストによる御言葉に忠実であることの大切さを学ぶのです。私たちが自分の知恵や知識だけで判断するのではなく、神様が今、どのように思われているのか、神様の御心がどこなのか、私たちはいつも、求めて生きてく必要があるのです。

 

5:  疑う心と信じる心

 最後に、今日の二つ目の癒し、口の利けない人の癒しから学びたいと思います。この癒しを見て、群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」(33)と驚き、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(34)とイエス様を敵視するようになったのでした。ここに、私たち人間の姿を見ることが出来るのです。私たちがイエス・キリストの癒し、解放の出来事に出会ったときに、私たちの心の中には、イエス様を主として驚き、そして喜んで受け入れる心と、その行為に疑い、反抗し受け入れない心とが生まれるということです。 わたしたちがこのような二つの心を持っていることは、ある意味とても健全なことだと思うのです。なんでもかんでも何も考えず、素直に受け入れていくことだけというのも問題がありますし、またすべてのことを疑い、何も受け入れないだけにも問題があると思うのです。 

 私たちには「疑う心」も、また「信じる心」も必要なのです。そして、問題は、どこにその基準をもつかということです。わたしたちが持つべき基準は、それが人間から出ているのか、それとも神様から出ている事柄なのかを見極めることが、私たちの持つべき基準なのです。そのために、私たちは目を見開いていなければなりません。いつもイエス・キリストに触れていただき、そしてそのイエス・キリストの言葉に耳をかたむけておく必要があるということです。つまり、目の見えない者の目を開き、話すことができない者の口を開く方イエス・キリストに、私たちの人生に関わっていただくということです。私たちは、道を踏み外すこともあるでしょう。それでも、イエス・キリストは共にいてくださいます。私たちを愛し、私たち人間の生活の一つ一つに関わることを決心されたのです。私たちはこの神様の愛の御言葉に耳をかたむけ、その目をイエス・キリストに向けて生きていきましょう。(笠井元)