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2019.7.14 「愛をいただき、愛する者とされる」(全文) マタイによる福音書12:33-37

1:  間違えてしまう人間

 先週学びました、12章22節からの「ベルゼブル論争」において、ファリサイ派の人々は、イエス様の癒しの業を「悪霊の頭ベルゼブルの力」(24)によるものだと非難したのでした。ファリサイ派の人々は12章10節において、「イエス様を訴えるため」に、片手の萎えた人を連れてきて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(12:10)と尋ねたのでした。このとき、ファリサイ派の人々は、片手のなえた人を「癒してもらおう」としてイエス様のところに連れてきたのではなく、「イエス様を訴えよう」と思って、片手のなえた人を引っ張り出してきたのでした。ファリサイ派の人々は、手が動かないため苦しい思いをしている人を、自分たちの主張のための道具としたのでした。このようなファリサイ派の人々を、イエス様は34節において【12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間である】と言ったのでした。

 そして、イエス様は【12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」】と言われたのでした。このような言葉を聞くなかで、私たちが、他者に向けて「あなたは悪い木であり、あなたの実は悪い実である」ということは、私たちが他者を断罪していることになります。確かにイエス様は、ファリサイ派の人々に向けて、そのように言われました。しかし、このイエス様の言葉は、人を断罪するためではなく、「あなた方は間違っている」ということを教え、正しい道に立ち帰るために、示された、救い主イエス・キリストの言葉であるのです。私たちは、このイエス様と同様の立場にいるのではありません。私たちもまた、イエス様に「あなたは大丈夫ですか」「間違っていないですか」「あなたは悪い実を結んでいないですか」と問われている者なのです。

 

 わたしは小さい頃から、よく父親から「人間は必ず間違いを犯す者だ。どれほど正しいと思っている道を進んでいても、社会的に正しいと思われることを主張していたとしても、人間は必ず間違えることがある。絶対に自分は正しと思ってしまって、他の意見を聞かないということがないように気を付けなさい」といわれました。「そしてそれは、特に、誰から見ても正しいと思う行為をしているときに、一番気を付けなさい。いつも自分を、そして自分が生きている社会を点検して。神様の御心、聖書の御言葉に従っているかどうかを、いつも点検していなさい」と言われました。

 それは、たとえばですが「戦争反対」とデモをする時だとしても、また教会で「伝道しよう」「互いに愛し合おう」として福音伝道を行うことも、幼稚園でいえば「キリスト教保育」として「ひとりひとりを大切にしよう」と、普通に聞けば正しいと思うことでも、・・・それでも人間が続けていく中では、間違えてしまうことがあるということです。

 

 実際に、日本は戦時中は、「天皇のために戦争をすること、死んでいくことが正しい」とされていたのです。日本にいて、そのことに疑問を持つ人はほとんどいなかったでしょう。また、9.11という大きなテロ事件の後、アメリカは報復行為として戦争を始めていきました。その時、戦争をしていくことが「正しい」と思った人は、数多くいたと思います。また、広島、長崎に原爆が落とされた行為も、「戦争を終わらせる必要なことだった」と言われているとも聞いています。日本では、日本の立場の価値観で教育をしています。それがすべて正しいわけではないのです。そして、今、自分が正しいと考えていることは、あくまでも、この時代、この場所における、人間の造りだした価値観によるものであるということを、覚えておきたいと思うのです。物事を立体的に見ることはとても難しいことです。一つの目線からしか物事を見ることができない者、そのような価値観に陥ってしまう者、それが人間です。そしてだからこそ、人間にはイエス・キリスト、そして神様の御言葉が必要なのだということです。

 私たちは間違ってしまう人間です。ただ、だからといって自分の存在を否定したり、悲嘆することはありません。神様は、そのような私たちのために、イエス・キリストを送ってくださった。私たちを愛し、どのような姿であっても、私たちの存在を喜んでくださっているのです。そして、そのような私たちに、イエス様を通して、歩むべき道を示されました。

 イエス様の教えられた道。それは「神を愛し、人を愛する」道です。そしてまた、イエス様の生きられた道。それはどこまでも「神様に従順であった道」です。イエス様は「神様に従い、神様に仕え、そして他者に仕え続けた」のでした。これが、私たちに与えられている生きる基準、判断する基準です。私たちは、自分が今、神様に与えられた基準に従い、「良い木」として「良い実」を結ぶ者として生きているか、問いなおしてみましょう。

 

2:  口から溢れ出る言葉

 イエス様はここで【12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。】また【12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。】と言われました。ここで、イエス様は、明らかに、人間が発する、その言葉について語られています。「言葉」。それは、神様からいただいている大きな恵みの一つです。

 聖書では、ヨハネによる福音書の1章1節から【1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。】(1:1-3)と語り、「言」は神と共にあり、「言」は「神」であった。そしてこの「言」によって、世界は造られたと教えるのです。また創世記では【1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。】と言います。神様の世界の創造の時、最初に「光あれ」という言葉をもって、世界は創造されたのです。世界を造り、光を造り、私たちの日々を守っていてくださっているのです。

 私たち人間には、この「言葉」が与えられています。ただ、気を付けたいのは、この前の箇所にある「ベルゼブル論争」においては、「口の利けない人」が現れますが・・・口が利けること、言葉を発することができることだけが、神様からの恵みだということはありません。神様は、すべての人間に、様々なかたちで恵みを注いで下さっているのです。そのうえで、私たちに与えられている「言葉」というのは、神様からの一つの恵みの形だということができるのです。

 

 わたしたちは、この言葉を通して、様々な恵みを得ることができるのです。ただ、今日の箇所にある【つまらない言葉】という言葉は、別の訳では「不注意な」「軽率な」「無益な」言葉と訳されます。つまり、この【つまらない言葉】とは、「不注意で、軽率で・・・愛を生み出すことがない言葉」ということです。「言葉」は、人を癒し、支え、励まし、希望、愛を与えるものともなれば、間違って使えば、人を傷つけ、陥れ、惑わし、苦しめるものとなっていくのでもあります。

 最近は、特に政治家の方の失言がニュースとなっています。ある人は、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と言ったり、「戦争で北方領土を取り返すこと」を言った政治家もいました。様々な言葉が報道されていますが、このような多くの失言は、その心の中から溢れ出た言葉なのではないかと思うのです。そして、これはまさにファリサイ派の人々と同じ姿なのではないかとも思うのです。

 【つまらない言葉】。その心の中にあるのは、自分が正しい、自分は間違っていないという思いです。ファリサイ派の人々は、イエス様の福音の言葉「悔い改めなさい」という言葉を聞いたときに、「自分は間違っていない」「律法の専門家である私たちが、なんで大工の子どもであるあなたなんかに。そんなことを言われなければならないのか」「あなたは何の権威をもって神様のことを語っているのか」と感じたのでしょう。ファリサイ派の人々は、「自分が正しい」「悔い改める必要はない」という思いから離れることができなかったのです。

 

3:  悔い改める

 イエス様は【4:17「悔い改めよ。天の国は近づいた」】と言って、福音を宣べ伝え始められたのです。 この言葉は、自分の心に間違った思いがあること、そして悔い改めること、つまり、新しく本当の正しさを迎え入れる必要があることを教えているのです。

 みなさんは、今、自分の心のうちを確かめてみてください。心の内側はどのようになっているでしょうか。特に、クリスチャン、一度神様を信じた方は、「自分は正しい」と思っていないでしょうか。また、クリスチャンではなくても、この社会において、権威やプライドを持っている人、ある意味、子どもから大人になっていくうちに、「自分は正しい」と思っていくようになってしまう、「自分は間違っていない」という誘惑に陥ってしまうものです。 そして、ファリサイ派という人たちは、まさにそのような立場にあったのです。律法を守り、神様に従い、神様に仕えて生きていたのです。だからこそ、「自分たちは間違っていない」という思いが余計に強く持っていたでしょう。

 そのような人間に、イエス様は「悔い改めなさい」と言われたのです。 悔い改めること、それは、自分の心に、イエス・キリストを迎えいれることです。

 この後の箇所43節からの箇所では、「掃除をして、整えた家に悪霊が住み着いた」お話が語られています。これは、心を清くし、整えた中で、その心にイエス・キリストではなく、悪霊を迎え入れてしまった人の姿を表します。正しく生きようと思い、聖くなろうとしていくときに、私たちが陥りやすいのは、心に「自分は自分の力で正しくなれる」という誘惑、悪霊を迎えてしまうことです。私たちは、どんなに自分の心を整え、きれいしても、自分の力のみでは、心の底から聖い者となることはできないのです。むしろ、そこには、「自分は間違っていない」という悪霊を迎えることになってしまうこともあるということです。私たちは、心にイエス・キリストを迎えいれることによってのみ、その心は本当の意味で、清められるのです。

 

 旧約聖書に出てきます、イスラエルの一番栄えたときの王様、ダビデ王の優れていたところは、この「悔い改める心」を持っていたことです。ダビデ王は、自分の欲望の為に、部下が死ぬように仕向けていきました。そして、その部下の妻を自分の妻としていったのです。そのようなダビデの罪を、預言者ナタンが指摘したのです。王様という権威に立つダビデであれば、そんな言葉を聞かないで、ナタンを殺してしまうこともできたでしょう。しかし、ダビデは、この指摘を神様のことばとして受け取ったのでした。そしてダビデは悔い改めるのです。

 このダビデの悔い改めた言葉として、詩編51編では「神よ、わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)という言葉があります。ダビデは、神様に、「清い心を、新しく造ってください」と祈ったのでした。このときの「創造する」という言葉は、創世記の「1:1 初めに、神は天地を創造された。」という言葉と同じ「創造」という言葉を使っており、それは、まさに無からの創造、ただ神様の御心と御業によって造られるものを意味する言葉なのです。 ダビデは、罪を犯した時、自分では持つことができない、新しい心、聖い心を創造してくださいとお願いしたのでした。 

 私たちの心が清くされること。それはただ、悔い改めること、イエス・キリストを迎えることによってなされるのです。 エス・キリストは、私たち人間の心に、聖い心、神を必要とし、悔い改め、従う者として生きる心を、創造されるために、来てくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストを心に迎えいれていきたいと思うのです。

 

4:  愛をいただく

 イエス・キリストは、私たちの内に来てくださいました。私たちが心にイエス・キリストを迎える時、そこに愛が注がれているのです。そして、そこには心から溢れる言葉が与えられるのです。私たちが他者を励まし、愛し、支えていこうとすることは、とても大切なことでしょう。しかし、頑張れば頑張るほど、自分の心が枯れてしまうことがあります。私自身もですが、幼稚園の保護者にも、子どもを愛したい、愛そうと思いながらも、自分では、なかなか愛し続けることができないことを、悩んでいくこともあります。皆さんも、自分を愛して、他者を愛して、神様を愛していこうと、すればするほど、心が苦しくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

 愛は、神様から注いでいただくものです。愛を神様の注いでいただかなければ、その愛は、いずれ枯れてしまうのです。ダビデは、「自分の心の中に、新しく聖い心を創造してください」と言いました。私たちもまた神様によって、心のうちに聖い、愛の心を創造していただきましょう。

 

 そして、私たちは心のうちに愛をいただき、その愛を隣人と分かち合っていきたいと思うのです。 愛は、一人で生きるところには存在しません。自分ひとりで生きて、自分を愛していたとしても、それは本当の愛とは言えないでしょう。愛すること。それは隣に愛する人が必要なのです。神様は愛を表すために、父なる神と、子なるキリスト、そして聖霊なる神と、その関係において、愛を表されたのでした。そして、神様は、イエス・キリストを通して、私たちに愛を示され、溢れるほどの愛を注いでくださっているのです。

 私たちは、共に生きて、共に生活するときに、神様の愛をいただくことができるのです。そして神様の愛を本当に心から感じることができるのでしょう。今、私たちは、イエス・キリストを心に迎え、その愛をもって、共に愛をもって生きていきたいと思います。(笠井元)