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2019.8.25 「神は排除ではなく忍耐される」(全文) マタイによる福音書13:24-30、36-40

1:  神様に創造された世界

 今日の箇所は「毒麦」のたとえと、その説明の箇所となります。この「毒麦」のたとえの説明部分、37節からは良い種を蒔く人は「人の子」つまりイエス・キリストであり、「畑は世界」と教えます。私たちが生きているこの世界は、イエス・キリストによって良い種が蒔かれた世界であるということです。先週も種のお話をしましたが。神様はどのようなところにも、その福音の種、御言葉を蒔いてくださっている。神様の愛から外れる者はいないのです。わたしたちはすべての者が神様に愛されているのです。 

 聖書の、一番最初、創世記1章では、この世界は神様が創造されたことを教えます。【1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。】(創世記1:1-3)これが世界の創造の初めです。この後、神様は創造された世界を見て、このように言われました。【1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。】(創世記1:31)世界の創造の場面で、神様は、創造したこの世界のすべてを見て「それは極めて良かった」とされたのです。

 この創世記の言葉は、イスラエルの民がバビロン捕囚にあった時に書かれたものだと言われています。つまりイスラエルの人たちが、自分たちの国から、奴隷とされ連れて行かれて、国も、自由も、すべてを失った中での言葉だったのです。イスラエルの民は、すべてを失ったのです。そのような絶望の中で、この世界は、神様が「光あれ」という言葉をもって創造された、「極めて良い」とされた世界だと、告白したのです。この信仰告白には、強い神様への信頼を感じるのです。もはや自分には何もない、プライドも権力も、財産も、家も家族も、その他、多くの人間関係も、すべてが失われた時に、それでも生きている自分が、「どうして生きているのか」「今、自分は何のために生きているのか」と考えさせられたのではないでしょうか。そして、そのなかで、「神様が『命』を創造された」、だからこそ「神様は必ず『光』を創造される」「闇で終わることはない」という強い信頼と希望の言葉として見ることができるのです。

 この世界は、神様が創造されました。それは「極めて良かった」ものであり、今日の箇所では、その世界はイエス・キリストが良い種を蒔いておられる世界であると教えているのです。わたしたちは、まずこのことを覚えたいと思うのです。日々の生活において、私たちの周りでは様々なことが起こります。良いこともあれば、受け入れられないほどの、悲しい出来事も起こります。それでも、何があろうとも、この世界は、神様が創造され、今もイエス様が良いもの、愛の種を送ってくださっている、素晴らしい世界なのです。まず、私たちは、この世界にあって神様に命を与えられ、生かされていること、今、生きていることを喜びたいと思うのです。

 

 その上で、それでは、今、私たちが向き合う現実とどのように向き合えばよいのか、考えさせられるのです。現実には、「喜び」だけではすまされない、「痛み」と「苦しみ」があるのです。それはバビロン捕囚にあったイスラエルの人々もそうであったでしょう。またイエス様の時代は、イスラエルの人々は、ローマ帝国によって支配されている時代でした。今日の聖書の言葉からいえば、「敵」「悪魔」によって「毒麦」が蒔かれている世界であると感じていたかもしれません。どうして神様が「極めて良い」とされた世界に、悪い事が起こるのでしょうか。どうして神様に愛される人間が、苦しい思いをさせられるのでしょうか。災害の中にあって、「愛である神様が造られた世界に、どうしてこのような災害が起こるのだろう。本当に神様は人間、この世界を愛しているのか」と尋ねられたこともあります。今日の聖書の言葉は、そのような悪いことがあることを、「良い麦」の畑に「毒麦」が蒔かれていることで表しているのです。この世界は「良い麦」の中に「毒麦」が蒔かれている、そのような世界なのです。

 

2:  人を排除する道

 この毒麦が現れたときに、僕と主人はこのように会話をしました。27節からです。【13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、13:29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」】主人が「敵の仕業だ」と言った時、すぐに僕たちは「では、行って抜き集めておきましょうか」と言ったのでした。僕たちは、敵が来て、蒔いていった、毒麦など抜いてしまおう、さっさと処分して、なくしてしまおうと思ったのでしょう。しかしそれに対して、主人は【毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい】(29-30)と言われたのです。この言葉に僕たちはとても驚いたのではないでしょうか。

 私はせっかちな性格ですので、何でもすぐ答えがほしいと思ってしまいます。自分の畑に、毒麦が生えてきたら、まずさっさと抜いてしまいたくなると思うのです。皆さんはどうでしょうか。自分にとって、不必要であるもの、むしろ自分にとって迷惑なものを見つけたときに、どのようにするでしょうか。僕たちは「処分しましょう」と言ったのです。これが一般的な答えではないでしょうか。「必要のないものは排除する」。「迷惑なものは処分する」これが人間の一般的な考えなのかもしれません。しかし、このような考えはとても恐ろしいものであるのです。

 すでに3年がたちましたが、相模原市の障害者施設において起こった殺傷事件での、加害者は「障害者には生きている意味がない、だから殺した。自分がしたことはむしろ社会にとって有益なことだ」と主張したのです。そしてそれは今も変わっていないと聞いています。このこと自体がとても悲しい言葉ですが、それ以上に、悲しいことは、このインターネットなどの情報ですが、この主張を支持する人がいるということです。「排除することで、もしかしたら、少しは傷つく人がいるかもしれないけれど・・・社会にとっては有益である。」これがこの人の価値観です。「必要か不必要か、迷惑か、迷惑ではないかと考えた時に、『必要ない』、『迷惑だ』と思う者は、排除する。排除したほうが有益である」このような考えが、今の日本にはあるということです。

 僕たちは「毒麦など抜いてしまおう」と言いました。しかしここで主人は「待ちなさい」と言われました。主人が大切にされたことは、毒麦を抜くことではなく、良い麦を抜いてしまわないことでした。迷惑なものを排除するのではなく、そのようなものも含めて共に生きる道でした。これが神様の選ばれた道です。

 今日の箇所では、「敵の仕業」として毒麦が蒔かれたとしています。私たちは、「自分の敵」というときに、誰のこと、どのような人のことを思い浮かべるでしょうか。私たちは、自分の価値観でみて、自分が正しいと思っていることに、反対する人、自分の価値観でみて、不必要な者、迷惑な者を「敵」としてしまうことがあるのではないでしょうか。自分とは違う意見であっても、そこにも大切な意見、すぐれた考えがあるかもしれないのに、自分の価値観における正しさ振りかざして、他者の意見をつぶしてしまっていうことがあるのではないでしょうか。わたし自身、振り返りますと、何度もそのような失敗、自己中心的な判断をしてきていると思うのです。一番多いのは自分より小さい、自分の方が正しいと思ってしまうことが多い「子ども」に対して、その意見を聞くことなく、自分の正しさを押し付けていることが沢山あると思うのです。これは、まさに「差別」の始まりであり、「小さい者」の命を軽くみている、間違った考えです。

 信仰者にとっての「誘惑」の一つに「完全主義」があると言われています。イエス様の時代で言えば、ファリサイ派の人々がそうであったかもしれません。神様に正しく仕えている自分は、「正しい者である」と、そしてそれ以外の人は「間違っている」と思ってしまう。神様を信じるという中で、「自分は神様によって正しいとされている」と、「自分は神様に認められていて、それ以外の意見、価値観は間違っている」としてしまう。このような考えは、自己中心的な間違った考えです。そして、神様を信じる者にとって陥りやすい誘惑の道です。今日の箇所では、「敵の仕業」として毒麦が蒔かれたとしています。「敵」とはだれのことでしょうか。聖書では、自分とはちがう価値観を持つ人を「敵」とはいわないのです。39節の説明にあるように「敵」は「悪魔」であり、それは、「お互いの違いを認め、愛する」のではなく、「自分が正しいとし、他者を排除する」。そのような価値観を持たせる誘惑です。わたしたちが「自分が正しい」と思ってしまっている、その時、私たちは悪魔の誘惑に惑わされているのです。自分とは違う価値観の人を排除させる「誘惑」であり、その「誘惑によって間違った道を歩んでいる者」なのです。そのような意味では、私たちは、時に、自分自身こそが、この世の「毒麦」となってしまっていることもあるのかもしれません。

 

3:  神の忍耐 

 主人は30節で「両方とも育つままにしておきなさい」(30)と言われました。主人とされる神様は、全知全能であり、本来ならば、良い麦だけを残し、毒麦だけを抜き取ることもできたかもしれません。しかし、神様は「両方とも、育つままにしておきなさい」と言われました。それはどこか「どのように育つのか見てみましょう」と言っているようにも聞こえてきます。本当の植物としては「毒麦」は「毒麦」にしかならないかもしれません。しかし、人間はそれほど簡単に振り分けられる者ではないのです。もしかしたら今、「毒麦」という存在だとしても、明日には「良い麦」に変えられるかもしれない。また、今は「良い麦」であっても、成長する中で、10年後「毒麦」となっていて、20年後には、もう一度「良い麦」とされていくかもしれない。それが人間です。人間の生きる道、その心の変化は、それほど簡単ではないのです。神様は、その成長、変化、を期待して、「刈り入れの時まで待ちなさい」と言われたのではないか、神様は待ってくださっていると思わされるのです。

 

 この「刈り入れの時」。それは、いわゆる終末、私たち人間が、神様の前に立たされる時のことです。刈り入れの時、「毒麦」が「良い麦」となるために、神様は待っておられる。しかも、ただ待っておられるだけではなく、そのためにこの世界に、イエス・キリストを送ってくださったのです。それは今も、良い種、イエス・キリストによる愛という恵みを与え続けてくださっている、ということなのです。神様はイエス・キリストをこの世に送り、毒麦なる者の毒を打ち破るために、イエス・キリストを十字架につけられたのです。イエス・キリストの十字架は、自分自身の力で自分の正しさを造りだすのではなく、まず神様が、私たちに救いの手を差し伸べてくださったこと。私たちの罪はイエス・キリストによって贖われたことを表しているのです。この恵みはすべての人間に、変わることなく与えられています。このイエス・キリストによって、神様の前にあって「毒麦」でしかない私たち人間が「良い麦」となる道が開かれた。つまり、神様の前にあって正しい者として立つことが赦されたのです。神様は「毒麦」が「良い麦」へと変わるために、自らの命をかけて、恵みの種を蒔き、そしてその成長を待つことを決心されたのです。神様は、毒麦を取り除き、排除されて終わらせはしなかった。その麦がどのように育つのか、自らの命と愛を注ぎ、忍耐の上に、待たれているのです。神様は「待ちなさい」と言われます。神様は、このイエス・キリストの十字架ともって、私たちが「良い麦」、つまり、神様の前に悔い改めて生きることを待たれているのです。

 

4:  神の愛から離れない

 神様は人が変わることを、忍耐し、待たれています。同時に、この主人の言葉は、私たち人間にも「待つこと」を求めています。神様は「刈り入れの時まで待ちなさい」と言われているのです。神様は、刈り入れの時がくること、それは、神様の完全なる愛の支配の時が来ることを約束されています。私たちは、この神様の愛の完成の出来事を信じていきたいと思うのです。

 今、私たちの目の前には、喜びだけではなく、悲しみ、痛みの時があります。神様に「なぜこんなことが」と叫びたくなることもあります。ただ、神様からすれば、わたしたち人間の行いにこそ、「なんでそんなことをするのか」と言いたくなるようなことのほうが、多いのかもしれません。神様は、私たちを愛し、イエス・キリストを送り、その愛に生きる道を選んでいくことを待ち続けてくださっているのです。わたしたちは、この世界で生きる中にあって、この神様の愛を感じて、このイエス・キリストに信頼していきたいと思うのです。

 わたしたちが「待つこと」「忍耐すること」は、ただ、自分で我慢して踏ん張ることではありません。神様が愛してくださっているということを信じることから離れないことです。確かに、この世界には、嘆き、悲しみ、痛みがあります。困難は、私たちの心を傷つけていきます。そして心が傷つくとき、私たちは、他者を愛することではなく、他者を傷つける方へ、隣人と共に生きることではなく、隣人を排除してしまう者となってしまうことがあります。神様は、そのような私たちに「待ちなさい」と言われているのです。それは神様の愛が注がれていることから離れないように、と教えられているのです。私たちは、多くの困難の中にあっても、必ず神様の愛はなくならないこと、そして、いずれ、その完成、愛の溢れる時がくることを、待ち望んでいきたいと思うのです。神様はイエス・キリストを通して、苦しみの中にある時でも、この世界を愛し、私たちを愛してくださっていることを表されたのです。私たちは今、ただこの神様の愛があること、愛されているということ、そしてそれがいずれ、完成の時を迎えるということ、いずれ、イエス・キリストによって表された神様の愛の支配が、すべての者に表される時が来ること、「喜びであふれる時」がくることを信じていきたいと思います。

 イエス様はこのように言いました。「耳のある者は聞きなさい。」(42)私たちはただ、このイエス・キリストの御言葉を信じて、神様の愛の完成を待ち続けていきたいと思います。

 最後に聖書を一ヶ所読みましょう。ローマ5:3-5【わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。】 (笠井元)