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2019.9.1 「無限に広がる小さな福音の種」(全文) マタイによる福音書13:31-35

1:  天の国

 今日の箇所を含め、13章では「天の国は・・・」といった語りかけから、「天の国」が様々なものに譬えられていきます。まず今日の箇所では、「からし種」と「パン種」に譬えられています。また先週共に学びましたが、24節からでは、「天の国は次のように譬えられる」として、「良い種が蒔かれた畑に、敵が来て毒麦を蒔いていった。しかし、すぐに毒麦を抜くのではなく、『刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい』そして『刈り入れの時に毒麦を焼き、麦を集めて倉に入れなさい』と言われた」というのです。」・・・先週はここから、神様の忍耐と、神の国を信頼し、待ち望むことを学びました。また、44節からは、「畑に隠された宝を見つけたこと」、「真珠の商人が良い真珠を見つけたこと」に譬えられ、また47節からは、「網にかかった魚で、良い物は器に、悪い者は投げ捨てられる」と譬えるのです。このほかにも、イエス様は、マタイによる福音書では20章、22章、25章においても「天の国」を様々な姿、形、または行為に譬えて教えられるのです。

 イエス様は様々な言葉で「天の国」を語られました。ではなぜこのようにさまざまな言葉で語られたのでしょうか。ひとこと「天の国とは、このようなものである」と言ってくだされば、とてもわかりやすいと思うのですが、イエス様はあえて、様々な言葉で「天の国」を語られました。 これは、イエス様がわざわざ、「天の国」をわかりにくくするために、いろいろなものに譬え、語られたわけではないのです。

 イエス様の言葉には、人間の言葉の限界性と、天の国の無限性を見ることができるのです。「天の国」。それは神様の愛の溢れる状態を意味するのです。そして、神様の愛の形は無限に溢れ出るものであり、人間の言葉一言では言い表すことはできないのです。

 

 先日、金曜日に、東福岡幼稚園では夕涼み会を行いました。今回は「オバケの国へようこそ」というテーマで行いましたが、その一つに「どんなおばけがいるのかな?ボックス」として、目で見ることはできない箱の中に、こんにゃくやたわしを入れておいて、そこに子どもたちが手を入れて、その手の感触で何かを当てていくというブースを作りました。年少さんなど小さな子どもたちの中には、実際に中に何が入っているのかがわからないので、怖がって手を入れられない子どももいました。年長さんくらいになると、中に危険なものが入っているとは疑わないで、サッと手を入れていくことができるようになります。そのなかで、手の感触だけで何かを考える時、「大きさや触った感触、暖かさや冷たさなど」で、何かを考えます。小さくて少しとげとげしている・・・とか、ニュルニュルして冷たいとか・・・など触ることによって、様々な情報を得て、それが何かを考えるのです。

 これは「天の国」が色々な言葉で譬えられていることと、少し似ているのではないかとも思うのです。一つの情報、たとえば「固い」というだけでは、いったいそれがどのようなものかはわかりません。触ることで、「固くて、小さくて、冷たくて・・・など」といろいろな情報を得て、イメージし、想像を広げていくなかで、それが何かを考えるのです。天の国。この神様の愛の溢れる状態は、私たち人間の言葉では完全には表すことができないのです。人間の言葉には、限界があるのです。限界があるもので、無限に溢れるものを表すことはできないのです。そのためイエス様は様々な譬えによって、「天の国」の一部分の特徴を語り、無限に広がる「天の国」神様の愛を教えられたのです。

 

2:  小さな種

 この天の国を表す譬えとして、今日の箇所では、「からし種」と「パン種」に譬えて語られました。 この「からし種」と「パン種」の共通しているのは、最初は、とても小さいものですが、それが成長することによって、とても大きなもの、またはとても大きく膨らませたりするということです。イエス様は、天の国、「神様の愛」は、それ自体はとても「小さなもの」に思えたとしても、「いずれ大きくなる」こと「その存在によって、大きく膨らませる」ようなものであると教えられているのです。

 

 私たちの生きるこの世界には、とても便利なものが溢れています。現代は、科学技術が発展したことによって、人間の生活も大きく変化しているのです。私は、大学は寮生活だったのですが、私が大学生のときは、ほとんど携帯電話が普及していないときでしたので、すべての人の電話は寮にかかってきました。そして、電話を取った人が、放送で呼び出して、呼び出された人が、電話で話すという形でした。たとえばですが「1年生、笠井元くん。お母さんから電話です。」と呼び出されるのですが、誰にいつ、だれから電話がきたことが、すべての寮生に伝わるのです。「1年生の笠井君。あなたの大好きな、お母さんからです」とか、呼び出す方も、少し悪ふざけをはじめることがありました。また、男子寮ですので、家族ではない女性から電話がかかってくると・・・みんなで、「あれは誰だ」「友だちか」「つきあっているのか」とお互いに聞きあっていました。プライベートも何もあったものではありません。ただ、今振り返ると、それもまた、お互いの繋がりを深めていたと思い出します。

 現在、電話は、携帯電話になり、スマートフォンになって、もはやカメラ、テレビ、音楽、パソコン、お財布と色々な機能が付いたため、もはや、つい電話であることを忘れてしまいそうになるほどです。私自身、最近は、少し、わからないこと、忘れたことがあると、すぐ検索してしまう癖ができてしまったので、考えること、思い出すことをしなくなってしまったように感じます。

 

 また、22世紀からきたロボットのアニメの「ドラえもん」では、考えられないような様々な道具が出されますが、今では、それが現実にできるようになってきているものが沢山あります。

 「ドラえもん」では「翻訳こんにゃく」というものがありましたが、そのこんにゃくを食べると、いろいろな言葉を話すことができるというものがありました。先日テレビを見ていると「AI」と「インターネット」を使った翻訳機の紹介をしていました。それでは、ひとことふたことではなく、長い文章を完璧に翻訳することができるようになったそうです。また「お天気ボックス」という道具で、天気を自由に変えることができるというものもありました。 昔は、てるてる坊主をつるすぐらいしかできませんでしたが、現在では、北京オリンピックのときに話題となりましたが、ロケットなどによって人工的に雨を降らせること、または別のところや別の日に降らせることで、晴れにすることができるようにもなったようです。

 本当に、現代の科学技術の発展はすごいものだと思うのです。そしてこれからも、もっともっと生活は便利になっていくだろうと期待もします。しかしまた、この科学技術の発展は、本当に人間の生活を豊かにしているのかは疑問があります。また、これほどに発達した世界のなかで、神様の存在はとても小さく、もはや必要ないと感じてしまっているのではないか、とも思うのです。

 

 旧約聖書の中にある、バベルの塔の話では、人間が、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いることができるようになっていきます。つまり、技術の発達があったのです。そして、その時、人間は【11:4 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。】(創世記11:4)のでした。自分たちの思いを超えた発達をしてくなかで、人々は、「天まで届く塔」を建てはじめたのです。それは、自分たちの力で神様にたどり着くこと、神様を超えることができると思い始めたということを表しているのでもあります。自分たちの技術の発達に傲慢になり、「天まで届く塔をつくろう」とする人々にとって、神様はどれほどの存在となっていたのでしょうか。それはまさに今日の箇所にあるように、「からし種」や「パン種」くらいに小さなものとなっていたのではないでしょうか。神様によって与えられている愛、命、希望、平和。そのすべてがとても小さく小さく思えていたのではないでしょうか。そしてそれは、今のこの時代、私たちの生きるこの時も、同じように感じるようになってしまっているのではないかと思うのです。私たちの為に蒔かれた小さな種。2000年以上も前に、蒔かれた小さなイエス・キリストという福音の種。今、この科学技術が発達した社会は、神様の与えてくださったイエス・キリストという福音の種を、見つけることができないほど、小さなものとしてしまっている。もはや見出すことができないほど、小さな存在としている、必要ないものとしているのではないでしょうか。

 

3:  汚れた種

 また、ここで記されている「パン種」には、「小さい」というだけではなく、もう一つの意味を読み取ることができます。パン種は当時のユダヤにおいては、聖なる物というよりは、むしろ汚れたものとして考えられていたと言うことができるのです。

 イエス様もマタイ16:6において【16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。】のです。神様の福音を受け入れない、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々を「パン種」と言いました。またパウロはⅠコリントにおいて【5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。】(Ⅰコリント5:6-7)と、このように言いました。そして、何よりも、ユダヤの民が奴隷として扱われていたエジプトから脱出したときに・・・神様は【12:15 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。】と言われたのでした。このことから、ユダヤの民は、パン種を聖なる物から、不純なもの、汚れたものとして、取り除いてきたのです。パン種は、少しでも入っていると、民全体に悪い影響を及ぼす、悪いものの根源だと考えられていたと言えるのです。

 イエス様は、「天の国は」この「パン種」という汚れたもの、そしてすべてを汚してしまうとされるものに、似ていると言われたのです。汚れたもの、悪い者の根源に「天の国」があるとはいったいどのようなことでしょうか。それは、私たち人間が、汚れたものとし、必要のないとしているもの、捨てているもの、避けているものに、「天の国」が始まっているということを教えておられるのです。

 私たちは、今、何を汚れたものとしているでしょうか。私たちはどのような価値観で、これは「聖なるもの」、「清いもの」、「真実なるもの」として、また何を「汚れたもの」、「罪」、「悪」、「間違っているもの」としているでしょうか。

 この社会には多くの差別があります。人種差別、女性差別、障害者差別などいまだに多くの差別がなくならないのです。差別が起こる一つの理由として、「自分はあの人たちよりは正しい」「あの人たちは間違っている、汚れている」と考えていくところにあるのだと思うのです。

 

 わたしの父は沖縄の出身です。父から聞いた話で、少し曖昧な話になりますが、まだ第二次世界大戦がはじまる前に祖父は、沖縄から本土に来て、先生として働こうとしていたそうですが、その時に多くの差別を受けたそうです。その苦しい体験、本土の人々による沖縄への差別の嫌だった思いを、わたしの父、つまり祖父の息子に何度も何度も話したようです。そんな祖父が、あるときわたしの父にこのように言ったそうです。「沖縄の島の人とは付き合うな、本島の者と付き合うように」と教えてきたそうです。父は、差別を受けてきた祖父が、沖縄の中で、本当の人と島の人とを区別し、島の人を差別し、受け入れないことに驚き、人間の弱さ、罪の姿を見たそうです。人に差別され、汚れた者とされてきた者が、今度は、自分よりも小さく、汚れた者がいるとしたのです。

 もちろん、差別に反対し、共に生きることを求めて生きている人もたくさんいます。みんながみんな差別し、人を蔑視し、汚れた者としているわけではありません。ただ、神様は、そのような私たち人間が、間違った価値観で「汚れている」とするもの、「必要ない」とするもののうちに、「天の国」「神の愛」があると教えてくださっているのです。

 

4:  イエス・キリストという福音の種

 神様は「からし種」のように小さく、また「パン種」のように汚れたものとされるところに、「天の国はある」と教えられているのです。今日の箇所の31節に【人がこれをとって畑に蒔けば】(31)とあります。「人」とは「神様」ご自身を指しています。神様は、「からし種」、つまり「天の国」の種を蒔いてくださっておられるのです。

 神様の蒔かれた種。それはイエス・キリストという福音の種です。神様は、この世界に、御子イエス・キリストを送って下さいました。イエス・キリストは、神様の愛の恵み、そのものです。

 しかし、わたしたち人間は、神の子でありながら、この世界に人間として来られたイエス・キリストを、この世の一番小さな者、汚れた者、罪ある者として十字架につけていったのです。神様は、自らの子、イエス・キリストをからし種のように、小さく、そしてパン種のように、汚れたものとして、この世に送られたのです。ここに神様の愛が示された。ここに「天の国」が始まったのです。わたしたち人間が「小さく」「汚れた」ものとした、イエス・キリストです。しかし、その福音によって、私たち人間に天の国、神様の愛が無限に広がり始めたのです。

 ローマ5:6-8【5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】

 神様のこの愛の行為は、すでに始まっているのです。私たち人間には気が付かないとしても、そこに神様は、すでに働かれているのです。

 私は、毎日、失敗や間違いだらけの日々ですが、先日、私は大きな失敗をしてしまいました。そのため、だいぶ落ち込みました。それこそ、自分の小ささに打ちのめされた感じでした。牧師が言うことではないかもしれませんが「自分はここで生きていていいのだろうか」と思うほどでした。ただ、それでも、自分の小ささに打ちのめされたときに、どうしてよいかわからないほどに、自分を嫌いになるところに、このイエス・キリストという福音の種は蒔かれているということを教えられました。ある意味、それまでは、「バベルの塔」を造ったように、自分の力で生きていける、神様などは必要ないと、神様を小さな小さなものとしてしまっていたのでしょう。しかし、いざ自分が小さい者であることに気付かされる中で、そこにイエス・キリストが来てくださっている、その神様の愛を教えられたのでした。

 わたしたちが生きるこの時、この場所に、すでに「天の国」は始められているのです。私たちは、イエス・キリストによって注がれている神様の愛をいただきましょう。自分が小さい者、無力で、弱い者、だと感じているならば、だからこそ、そのような私たちを愛してくださっている方を求めていきたいと思うのです。主イエス・キリストという福音の種は、蒔かれました。私たちはその恵みにきちんと目をむけて、大きく大きく広げていきたいと思います。(笠井元)