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2019.9.15 「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(全文) 詩編90:1-7

1:  創造主を賛美する

 今日は、敬老感謝礼拝です。敬老の日といえば、一般的には、「長い人生を生きてきた、人生の先輩を敬う日」という意味となるでしょう。もちろん、教会においても、これまで、神様に命を養われ、その恵みと慈しみのうちに、生きてこられた方々を敬うことを覚えたいと思います。ただ教会は、敬老感謝礼拝という、神様の礼拝の時です。なによりも、長い人生を生かされてきた、その命を与えてくださった方、命の造り主なる神様を礼拝し、賛美したいと思います。これまで命を守り、今も命を与え、日々、恵みで満たしてくださる、神様、創造主を共に賛美していきましょう。

 今日の詩編の詩(うた)は、まず創造主なる方を賛美します。【90:1 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。90:2 山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。】(1-2)詩人はまず、「神が、この世界を造られた。世々とこしえに、あなたこそ私たちの造り主です。」と賛美します。詩人は世界の創造主を賛美しました。創造主なる方を賛美するということは、世界を含め、自分の命も神様によって造られたことを認めることです。自分の命は神様に造られ、今も生かされているという、信仰を告白した言葉、つまり、信仰告白なのです。ここで詩人はまず、創造主を賛美した。それは信仰告白をしたということなのです。わたしたちの命は、神様によって創造されたのです。そして、私たちの命は、この神様によって守られているのです。

 

 7月には3名のバプテスマがありました。バプテスマは、イエス・キリストを自らの主と信仰告白して、これから神様の恵みの道を歩んでいくという決心の時、恵みの時です。先日のバプテスマという、神様の恵みに感謝したいと思います。また、同時に、バプテスマは、この教会につながる者となることでもあります。私たちはこの教会の兄弟姉妹として、共に祈っていきましょう。神様からの恵みと喜び、そして時に、苦しみや痛みをも、共に分かち合い、共に祈り合い歩んでいきたいと思うのです。この7月のバプテスマに向けて、4月から3ヶ月ほど学びを行いました。もちろん創造主なる神様についても学びを行いました。聖書は、神様が世界を創造されたことは、「どのように」ではなく、「なぜ」造られたかを教えているのです。創世記1:27ではこのように言われています。【1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。】(創世記1:27)神様は人間を自分にかたどって創造されたのです。それは神様と向き合い、神様の愛を受けて、また神様を愛する者として、わたしたちが造られたということです。

 わたしたちは神様に愛されている存在なのです。私たちは創造主なる神様に命を与えられている。私たちは神様に造られて生かされている者なのです。そして、私たちの生きるその目的は、神様と向き合い、神様の愛を受けて、神様の「愛」という「栄光」を表すためであり、その時間も、財産も、すべてのものは神様にいただき、神様に献げ、神様を愛を表すために生きている、そのために、私たちは、創造されたということを学びました。

 

2:  人間の価値観で見る人生

 先ほど言いましたが、私たちは神様に創造され、生きる目的は、神様の愛の栄光を表すためです。わたしは、親がクリスチャンですので、生まれた時から、「あなたの人生は、神様の栄光を表すためですよ」と言われてきました。そして、この言葉が何よりも嫌いな言葉でした。「神様は、人間を自分のため、自分の栄光を表すために造ったのか。」「自分は神様のため、そんなことのために生きているのではない」「自分には自分の生きる意味がある。」「自分の生きる意味は自分で見つけていく」と思っていました。だいぶ前の話になりますが・・・わたしがまだ高校生くらいの頃は、「自分探し」という言葉が流行っていました。サッカーの日本代表選手の中田英寿選手も、ワールドカップを終えて、サッカー選手を引退した時に、「自分探しの旅にでます」と言ったのでした。「自分探し」。つまり「自分の生きている意味を探し求めて生きる」ということです。わたしも、「自分の生きている意味」をずっと探していました。ただ、何をしても、どれだけ、自分の生きている意味を探しても、すべては自己実現、自己中心的なことから離れられないのです。

 

 今日の詩編90編、3節からは、その人生のはかなさ、または苦しみを詠うのです。3節から6節においては、人間の命の有限性、はかなさを、そして7節からは、その人生の労苦と災いを語ります。神様の前にあっては、人間はどこまでも無力であり、罪人でしかないことを語るのです。私たち人間の人生には終わりがあります。人間は「いずれ枯れていく」者であり、いずれ「塵」に返される者なのです。人間は有限なる者、終わりを持つ者です。それに対して、神様は「無限」なる方です。つまり、人間の労苦の道は、永遠に続くのではなく、終わりがあります。そして、いずれその人間の思いを超えた、無限の愛の方、神様の愛の恵みの時が訪れるのです。私たちは、自分の思いを超えた方によって命を造られ、愛され、恵みを与えられている。そして命の終わりの時は、「虚しい時」ではなく、神の御許での、愛の始まりの時、恵みの時なのです。この人間の「有限性」は「むなしさ」を意味しているのではなく、いずれ神様の愛に包まれる時がくるという「希望」を教えているのです。

 7節からは、人間の罪と、その罪に対する神様の憤り、怒りを認めていく詩(うた)となっています。聖書における「罪」とは、ただ何か悪い行いをしたということではなく、もっと心の根っこのところから、神様の御心から離れてしまうこと、神様の求める道ではなく、自分勝手に生きることを「罪」というのです。わたしたち人間は、「罪」から逃れることはできないのです。それは、社会的な地位を持つ人でも、どれほどのお金持ちでも、また、この世において大きな罪を犯した者も、牢屋に入れられている者だとしても、だれも変わることはなく、神様の前にあっては、同じ罪人なのです。つまり、私たち人間の心の中にあるのは、自分勝手に生きること、自分の為に生きること、私がずっと探していた、自己実現のために生きることであり、それは神様の御心から離れてしまっている者なのです。

 そのような私たちに、8節では【90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。】(8)と言います。この言葉は、私たちは神様から逃げることはできないことを、教えています。私たちがどれほど神様から離れようとしても、神様に抗い、神様に反抗して生きていこうとしても、神様の前から離れることはできないというのです。私たちは、必ず、神の光の中に置かれるのです。

 

3:  神を畏れる

 私たちが自分の人生を、自分の目線で振り返ると、自分の思い通りになっているというよりは、むしろ、「労苦と災いばかり」を受けて生きてきた、そして今も生きていると思うことがあるかもしれません。そのような私たちに、詩人は11節から、神様の目線で、人生を見ることができるように、求めていくのです。

 【90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。】(90:11-12)

 

ここでは「神様を畏れること、人生の日々を正しく数えるように、正しく見ることができるように、知恵を与えてください」と詠います。「神様を畏れ敬う者として生きることができますように」ということです。詩人は、神様から離れて見てきた、「嘆き、労苦、虚しい人生・・・」という人生観から、本当に見るべき正しい価値観。神様を畏れ、神様に造られた者であり、神様によって命を養われている者として、人生を見ていく、その知恵を与えてくださいと求めているのです。自分にとってみれば、ただの虚しい人生だと思っているとしても、そのようなむなしさの中でも・・・神様を畏れ敬う時に、「あなたの人生はとても豊かな人生であり、愛に満ち溢れている」「あなたは大切な存在である」と、神様が、私たちに命を与えてくださっている本当の意味を知ることができるのです。神様の価値観、神様の知恵によって人生を見ることを教えられるのです。11、12節において、生きる本当の価値観を教えてくださいと求め、その知恵を教えてくださいと求めるのです。今日は、私たちが生きるための価値観、その人生の見方を考えさせられる一つの詩を読みたいと思います。

 

【ニューヨークの病院の壁に書き残された詩】として、作者は不明の詩です。

大きなことを成しとげるために、力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった

より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに

よりよきことができるようにと、病弱を与えられた

幸せになろうとして、富みを求めたのに

賢明であるようにと、貧困を授かった

世の中の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに

得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと、いのちを授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず

心の中で言い表せないものは、すべて叶えられた

私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ

 

この詩は、失ったことや対極を知ったことによって、その本質の尊さや豊かさに気づくことができた。そんな命の豊かさの意味を伝えてくれます。人間の価値観では、悪い事だと思っていることも、神様の目からみると、そこにも神様の恵みがあるのです。神様は、私たちを愛して、日々の命を与えてくださっているのです。私たち人間が生きる意味は、ただ「神様の『愛』という栄光を表すため」です。神様を愛し、隣人を愛して生きていく。それ以外にはないのです。

4:  主よ帰ってきてください 

13節からはこのように詠います【90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。】(13-15)

13節からは【主よ、帰ってきてください】と願います。それは最終的に、イエス・キリストを送ってくださるように願う言葉となります。【主よ、帰ってきてください】(14)。わたしたちは、「私たちの救い主であるイエス様。私たちの所に来てください。御国を来たらせたまえ。愛の満ち溢れる世界を与えてください」と願っていきたいと思います。そして【朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。】(14)と願い求めるのです。

わたしたちの人生には、確かに苦しみや痛みがあります。それは神様を信じても、イエス様を信じても、変わることはありません。しかし、神様は、この「主よ、帰って来てください」という願いに応えてくださり、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。イエス・キリストの人生。それはまさに人間としての苦しみと痛みを受けた人生でした。時に、苦しい者、罪ある者とされる人々と共に生きて、病の中にある者と共に生きたのです。

私たちは、自分が苦しい時、その苦しみを主イエス・キリストが共に担ってくださっていることを覚えたいと思うのです。私たちが、自分の生きている意味、希望を失う時、イエス・キリストは、私たちと共にいてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストによって、日々守られ、生かされていることを覚えましょう。そして、喜び歌い、喜び祝う者として生きていきましょう。人生には、苦しみがあるのです。しかし、そんな時にこそ、神様、【生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。】と願い求めましょう。そして、その願いに神様が応えてくださることを信じていきましょう。神様は、確かに私たちの人生に、イエス・キリストを送って下さいました。私たちは、このイエス・キリストによる神様の慈しみを受けとり、信じて、日々歩んでいきたいと思います。(笠井元)