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2019.10.6 「愛を頂き、愛に生きる」(全文) マタイによる福音書13:44-52

1:  変わることのない神の愛

 10月になりました。少しずつですが秋らしくなってきたでしょうか。私は、この教会に来る前は、北海道の教会で7年間、牧師をしていました。皆さんは、北海道に行くとしたら、時期としては、いつが一番良いと思うしょうか。私が北海道に住む前は、8月の夏、暑い時に涼みにいくのもいいかなと思っていました。また雪まつりのある2月くらいも、それはそれで観光にいくのにはいいかなと思ってもいました。ただ、北海道で、現地の人に聞いてみると、北海道に来るのに一番いい時期は、この10月頃が一番いいと言っていました。とにかくおいしい食べ物がたくさんあり、朝は涼しく、昼はそれなりにあたたかく、「10月がおすすめです」と教えられました。私としては、もちろん10月もいいと思います。ただ、住むとなると、また別ですが・・・個人的な意見としては、北海道に旅行に行くのは、やはり一番、北海道を感じられる、冬が好きです。  

 そのような北海道がおすすめの時期10月となりましたが、「秋」は、「芸術の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」そして「食欲の秋」と言われます。秋は、ほどよい暖かさと涼しさを感じ、自然の豊かな実りを頂くことができる。恵みの多い季節だと思います。動物たちはこの秋の恵みを受けて、寒い冬を乗り越える備えをするそうです。この恵みの時となる「秋」となってきましたが、「恵みの秋」といっても、完全なプラスの出来事ばかりではなく、もちろんマイナス面もあります。「夏」から、気温が下がり、日照時間が少なくなります。そのため「気持ちが落ち込みやすい時」とも言われています。私にとっても1年間のバイオリズムとしてそうなのか、なんとなく元気がでない時期で、どこか「うつうつ」としてしまうことが多くなる月なのです。一般的には4~5月が調子が悪い人が多いと言われていますが、皆さんは、いかがでしょうか。 私たちには、気持ちが落ち込むとき、どうしてかはわからにけれど、なかなか調子が出ない時もあると思います。そのような時は、無理をせず、淡々と過ごすことも大切だと思います。

 

 今日の聖書を見てみますと、ここでは「天の国」が三つの形で譬えられています。その中でも、一つ目と二つ目には、いくつかの共通点があります。共通点の一つは、この「宝」、そして「真珠」は隠されているということです。「天の国」は隠されているのです。 先ほどお話をしましたが、私はこの季節になると、少し調子を落としてしまいます。それは、私にとっては、まさに「天の国」が隠されているような時期に感じます。皆さんにとっても、心が少し荒んで、疲れてきているような時は、「天の国」、神様の愛が隠されているように感じるのではないでしょうか。

 ただ、今日の箇所では、「天の国」とは、そのようなものではないことを教えてくれているのです。「天の国」というのは、私たち人間の気持ちに合わせて「隠されている」とか「見つけ出す」ものではないのです。44節の箇所では、畑に隠されている宝を見つけます。ここでは、隠されている宝を、一生懸命探して、探し出したのではなく、偶然に見つけていくのです。この人は、たまたま宝を見つけたのです。これを「天の国」として見るならば、「天の国」は、私たちが探し出していくのではなく、神様の方から、私たちのほうに来てくださっている。神様が、私たちに「神の国」を気が付かせてくださった。こちらが探し求めていったのではないけれど、神様の方が、私たちの方に近づき、その愛を表してくださった。そのような姿として見ることができるのです。

 このことは、私たちが日常生活において「神様の愛」をなかなか感じることができない状態でいる時に、神様が自らが近づいてきてくださる。「隠されている」と感じている宝物、「天の国」を、私たちが努力をして見つけ出そうとしてではなくても、神様の方からきてくださり、その愛の喜びを教えてくださる。そのような神様の働きを見るのです。

 

 それに対して45節からは真珠の商人が、良い真珠を探し回って、そして「高価な真珠」を見つけていきます。こちらは、むしろ探して、探して、努力して、頑張って、どうにか、やっと「高価な真珠」「天の国」「神様の愛」を見つけ出した姿を見るのです。こちらでは天の国はまさに「隠されている」。そしてそれを求め続けて、なんとか見つけ出す姿を見るのです。

 この二つの姿から見ることができるのは、隠されている宝物、真珠、そして天の国、神様の愛は、私たち人間の行為によるものではなく、私たちが期待もせずに、なんとなく畑を掘っていたとしても、または必死に求めて、求め続けていたとしても・・・どちらにも神様の愛は与えられる、ということを見るのです。天の国は、私たちの行い次第ではなく、神様の大きな恵みとして与えられているのです。それは私たちが「元気なく」「うつうつ」としていたとしても、または「元気いっぱい」であっても、どのような状態でも、神様は、私たちを愛し、私たちと共にいてくださるということです。私たちは、この神様の変わることのない、そして神様から一方的に与えられている、「愛」と「恵み」があることを覚えたいと思うのです。私たちは、偉大な神様の大きな愛に包まれているのです。この神様の愛は、わたしたちによって変えられるほど、小さなものではないのです。

 「わたしは、こんなものだから愛されない」「このような罪をしたものだから」といった思いに陥ることもあるかもしれませんが・・・、安心してください、人間の行い、人間の行為、その存在の違いによって変えられるほど神様の愛は小さいものではないのです。神様はこの世界を愛し、私たち一人一人を愛し、善人も悪人も関係なく愛してくださっているのです。

 

2:  見つけた喜び

 そして、今日の御言葉の、共通点の二つ目は・・・この「宝物」、「真珠」を見つけ出した時に、その人は、喜び、すべての持ち物を売り払って、その宝物、真珠を手に入れた、ということです。 これは、宝物、「天の国」を見つけた時の反応が表されているのです。ここでは持っているものすべてを捨ててでも、獲得したい、喜びであり、それほどに素敵なものであると表されているのです。これは、イエス様が、このたとえのように、私たちに「すべてを捨てて、神の国を手に入れなさい」と命令されているのではないのです。そうではなく、先に言いましたように、「天の国」「神様の愛」は、私たちがどうこうして、手に入れるものではなく、神様からの一方的な愛の業であるのです。「天の国」は私たちが努力によって獲得できるものではありません。この箇所にあるように、もし、すべてを売り払ったとしても、私たちの力で手に入れることができるようなものでもないのです。ここでは、「そのようにして、天の国を手に入れなさい」というのではなく、それほどの喜びの出来事が私たちには与えられているということ。そして、逆に、ここにあるように、すべてを売り払っても何も惜しくもない。それほどの大きな恵み、その恵みの大きさ、喜びの大きさを教えているのです。

 

 神様の愛は偉大です。どのような人間も愛してくださっています。そして、だからこそ、その愛と出会う時、わたしたちに、大きな喜びを与えてくださるのです。ここでは、その反応は、すべてを売り払っても惜しくないほどの喜びと恵みをいただくことを教えているのです。つまり、神様に愛に喜ぶことは、神様の愛をいただき、そしてその愛に仕える者となること、なりたいと思うことを教えているのです。神様の愛は偉大です。だからといって、「神様の愛は変わらないのだから・・・何をしていてもいいだろう」「どうせ変わらないなら必要としなくても大丈夫だろう」といったものではないということです。そうではなく、本当に神様の愛に触れる時、私たちは喜び、躍り、そして、神様を賛美して生きる者とされるということです。

 ただ、そうなると、今、「喜び、躍るほど元気でない者」は、「神様の愛」に出会っていないとされるのでしょうか。そうではないのです。神様は私たちを愛してくださっている。しかし、その神様の愛に触れていることは、いつも心から「喜んでいなければならない」ということでもないのです。いつも飛び跳ね、躍っている人もいるかもしれませんが、そうなれない人もいるのです。神様に出会い、喜び踊っているときの人もいるでしょう。同時に、気持ちが落ち込んでいる者、そのような状態で、なんとか生きているとしても、日々の生活に精一杯で疲れ果てているとしても・・・それでも神様が一緒にいてくださるということを受けて、生きる力をいただくこと、毎日を何とか生きること、それだけでも神様の愛に触れているということができると思うのです。

 

3:  隣人と生きる

 私たちが変わることのない、神様の愛に触れるということは、自分の心が荒んでいても、イライラしていても、嫌なことや悲しいことが続いていたとしても、変わらない生き方、生きる指針をいただくのです。その変わることのない生き方、それこそ、神様から愛を頂き、愛に生きるという道。つまり「隣人を愛して生きる」という道です。神様は、私たち人間を変わることのない、愛で包んでくださっています。そしてその神様は、私たちに「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられたのです。

 

 聖書はこのように教えています。Ⅰヨハネ4:7-12【4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。】

 

 「神は愛」です。神様は、私たちを愛してくださっています。それは個人としての、「私」と向き合ってくださるということでもあります。そして同時に、神様は私たちが、「私」と「あなた」という関係の中で、互いに愛し合うところに、その愛を表してくださるのでもあります。神様は、私たちを愛し、この世にイエス・キリストを送って下さいました。イエス・キリストは、私たちを愛するために、それは私たちと共に生きるために、この世界に来てくださったのです。イエス・キリストは、その人生において、何度も何度も「悔い改めなさい」「神様に立ち帰りなさい」と語ったのでした。 私たちが神様を感じて生きる道は、私たちが互いに愛し合い生きる道です。それは、私たちがただ、自分の気持ち、自分の気分で左右されるのではなく、どのような時も、隣人との間に、イエス様に来ていただいて、キリストを土台として関係を作るということです。私たちには、赦すことのできない人がいたり、お互いに向き合うことができなくなることもあるでしょう。私たちは、そのような時に、その間に、イエス・キリストが来てくださっていることを覚えましょう。私たちの間には、イエス・キリストが来てくださっているのです。これが、神様の愛に触れて生きていること、喜びを土台に生きていることなのです。

 

4:  愛に生きる

 今日の箇所における47節からの箇所は、お互いに愛することを教えているのです。ここでは、いろいろな魚が網によって引き上げられます。この網の中には、良い魚も、悪い魚もいるのです。同じ網の中に、良い魚も、悪い魚もいるのです。これは、今、私たちが生きる、この世界の状態を表しています。この世界には、様々な価値観の中で、それぞれの人間が生きています。ここで、「いろいろな魚」が集められたように、この世界には、良い人もいれば悪い人もいます。ちょっと自分の目からすると「変わっている人だな」と思う人もいるでしょう。このような、いろいろな人がいる中で、生きること、そして、この世において神を信じて、神様に従って生きるということは、「喜び」だけではなく「苦しい」ことの方が多いかもしれません。神様に愛されていることを知り、喜び、躍り、すべてを捨ててでもその愛に触れて生きること。それは、実は自分にとっては「苦しい」ことかもしれないということです。

 聖書はこのように教えています。マタイ5:10-12【5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。】

 

 神の愛を実現する道。それは苦しい道かもしれません。しかし、それでも、キリストのために生きるとき、天の国、神の愛はそこに表されていくのです。また、49節から【「13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」】このように言われています。これは、「悪いことをしていると、燃えさかる炉の中に投げ込まれるぞ」「だから従いなさい」と脅しているのではないのです。今、この世において、神様の愛に忠実に生きること、その道は、いつか本当の喜びで満たされる道であることを教えているのです。神様は、「いつまでも、終わることなく、忍耐し続けて生きていなさい。」「ただただあなたが苦しくても、あなたは我慢していなさい。」と言われているのではないのです。その苦しみはいつか取り除かれる。終わりの日、神様の愛が満ち溢れる時が来ることを教えられているのです。私たちは、この神様の愛の完成を求めて生きるのです。神様に従い生きる道は、苦しくても、絶望の道ではありません。本当の希望を見つめて、喜び生きる道なのです。これが、神様の愛に生きることなのです。私たちは、この神様の愛につながり、生きていきたいと思います。主が、私たちを命をかけて愛し、愛し続けてくださっていることを信じて、共に愛し合い、生きていく道を歩みましょう。(笠井元)