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2019.10.20 「あなたは何をもって神様を信じるのか」(全文) マタイによる福音書13:53-58

1:  驚きから躓きへ

 今日の箇所でイエス様は、自分の故郷ナザレに帰られました。私は、8月に休暇をいただき、実家に帰省してきました。うちは、2年に1回は実家に帰り、また2年に1回は、別のところに旅行に行くことにしています。今年は実家に帰る年だったので、実家に帰りました。私は18才で大学生になったときから、7年間寮生活でした。そのあと、牧師として北海道に赴任して、現在は、ここ福岡で牧師として働いています。私が、実家で過ごしていたのは、18年ほどなので、今まもなく40才となるので、すでに、もう家で過ごしていない年数の方が長くなります。そんな私ですが、最近は、この実家に帰ることの意味、心の持ちようが少しずつ変わってきています。大学生の時に実家に帰ることは、自分の過ごすべきところ、本拠地に帰るという感じでいました。実家に帰ることは、自分が自分でいられるところに帰り、心を休めるような気持ちでいました。ただ、最近では、実家には「帰る」という思いよりも、むしろ「行く」という気持ちになっています。どちらかというと、自分の心を休めるという気持ちではないのです。

 今日の聖書では、イエス様は故郷のナザレに帰られました。イエス様は一体どのような気持ちで帰られたのか、想像してみました。イエス様は故郷のナザレでも「会堂で教えられた」(54)のです。また、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(57)とも言われているので、自分自身「マリアとヨセフの子ども」として、実家に「帰る」というよりも、「預言者」としてナザレに「行く」という意識が強かったのではないかと思うのです。それは13章で何度も語られた「種を蒔く」こと、福音伝道のために来られたということです。イエス様の思いとしては、このナザレに帰ってきたというよりは、福音の種を蒔きにやってきたという気持ちであったのではないでしょうか。

 故郷ナザレの人々は、イエス様の言葉と業に驚きました。ナザレの人々はこのように言いました。【この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。】(54-56)ナザレの人々は、イエス様の言葉と業に驚きながらも、しかし、この驚きから喜びと信仰に向かうのではなく、むしろ躓き、不信仰へと向かっていったのでした。この躓きの原因は、イエス様のこと、その生い立ちを知っていたこと、家族を知っていたことでした。ナザレの人々にとっても、イエス様は、あくまでも大工ヨセフの息子であり、マリアの子だったのでしょう。どれほど素晴らしい言葉を語り、奇跡を行ったとしても、それは変わらないのです。だから、ナザレの人々にとって、あのヨセフとマリアの息子イエスが、「偉大な救い主」であるはずがないという先入観があるのです。これは人間として当然の反応でしょう。「あの小さかったイエスが、救い主?」「そんなはずがない」と、イエス様の小さい頃、生い立ちを知っているということは、イエス様の中に与えられている神様の御業を受け入れの躓きとなったのでした。

 

 また、この時ナザレの人たちが心をふさいでいたもう一つの思いとして、ナザレが小さな村であり、「こんな小さな村から救い主が出るわけがない」という思いがあったのではないかとも考えられるのです。ナザレの人々の自分たちに対する評価はとても低かった、別の言葉で言えば、自己肯定感が低かった。つまり、ナザレの人々は、自分たちの存在を「よいもの」として受け入れていなかったということです。自分たちの中から、偉大な人間が現れるはずがない。自分たちは大したことのない存在で、そんなところから救い主が現れるはずがないと考えていたということです。このようなナザレの人々にとって、イエス様の偉大な知恵と業は、驚きは与えたのですが、それは躓きにしかならなかったのです。このことは、私たちが自分自身を受け入れていない中で、神様の愛を受け取ることの難しさを教えています。

 この教会には、附属の幼稚園がありますが、幼稚園では、子どもたちはもちろん、多くのお母さん、お父さんと出会います。私自身もですが、皆さん子育てに悪戦苦闘して頑張っています。子育てでは、なによりも「子どもを愛すること」が一番大切なことでしょう。そのうえで、「上からではなく、きちんと向き合うこと。自分のものではなく、自分とは違う人格をもつ、一人の人間であり、その子どもの気持ちを想像し理解すること」といったように、その子どもの存在を喜び、愛することが大切なのです。ただ、これは子育てにおいて、また子育てだけではなく、すべての人間関係において、だれにでも同じことが言えるように、「子どもを愛する者」「隣人を愛する者」もまた人間です。いつもそんなに相手のことばかり考えて生きてはいられないでしょう。そのような中で必要なのは、自分が愛されているという認識です。自分の気持ちを分かってくれる人がいるといった、自分自身の存在が喜ばれているという思いを得ることで、心が満たされ、それでこそ、新しく人を愛する力を得るのです。 自分が愛されていることを知ることがなくては、どれほど目の前で偉大な業がなされても、それはその人の心に届かないのです。私たちもまた、まず神様が私たちを愛してくださっているということを、心にいただきたいと思うのです。自分は神様に愛されている。そこから福音は始まるのです。

 

2:  挫折

 しかし、ナザレの人々は、神様から愛されているということを伝える、イエス様の福音の言葉を受け入れることができませんでした。このことは、伝えた側のイエス様からすれば挫折を表している出来事であったと考えることもできるでしょう。イエス様の福音の業が、この世において受け入れられなかったのです。福音伝道の働きは挫折の連続です。そのような意味で、このイエス様の姿は、伝道者にとっては慰めともなります。福音伝道は、どれほど素敵な言葉を投げかけても、自分が間違っていないとしても、だからといって必ず成功する、といったものではないのです。

 私が神学校に行くときに、出身教会の牧師から言われたことは、「いろいろと勉強してきてください。ただ神学を学ぶことでは、いろいろな躓きがあると思います。どのような時にあってもイエス・キリストの十字架と復活を『信じる』ことを忘れないように。」と教えてもらいました。どれほどの躓き、困難の中にあっても、頭で考えて、理解ができなくなっても、行き詰っても、最後は「キリストに愛されていることを信じる」ことにつかまっていなさいということです。それは、今年の私たちの教会の標語のように、「福音の種を蒔き続ける」ということでもあるでしょう。聖書は【4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。】(Ⅱテモテ4:2)と教えます。福音伝道はまさに、この言葉のとおりだと思うのです。どんなことがあっても「み言葉を宣べ伝える」ことは「良い時であっても、悪い時であっても」、私たち人間の状況、状態によるのではなく、ただ神様に従い続けるということなのです。

 今の時代、この日本ではまず宗教というものが毛嫌いされています。生活が豊かになったため、神様が必要ではなくなったとも言えるでしょう。そのような、福音伝道の難しさを感じる中で、時に、挫折し、絶望します。伝道はその繰り返しです。それでも伝道の道に立ち続けること、そして、最後の結果は、神様に委ねていくこと。その実りは神様が成し遂げてくださると信じて、種を蒔き続けること、福音を伝え続けて行きたいと思うのです。

 

3:  何を見て、何を聞いたら信じるのか

 ナザレの人々は、イエス様の御言葉を聞き、その業を見て、【この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。】(56)と言いました。「いったいどこから・・・」。ナザレの人々は、このときに、この驚くべき業は・・・「神様から」得たものだ、「神様の業だ」と信じることも出来たはずなのです。しかし、ナザレの人々は、「あのイエスでも、神様がなされるならば・・・」と受け入れていくことではなく、自分の思い「あのイエスに、そんなことはあり得ない」という思いから離れることはできなかったのでした。

 イエス様は13章では、イザヤ書を引用してこのように言いました。【『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。 13:15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』】(マタイ13:14-15)まさに、目で見ても、認めることはなく、耳で聞いていても理解することはなく、心で受け入れることはしなかった、ということです。この時、ナザレの人々は、目の前で起こされた神の業を見ても、それを、神様の恵みの御業として受け入れることはしなかったのでした。このナザレの人々は、一体何を見たら、イエスをキリスト、救い主と信じたでしょうか。そしてまた、私たちは、何を見たら、何を聞いたら、イエスをキリストとして信じて、神様を自分の主として受け入れるのでしょうか。

 伝道をする中で、よく言われるのは、「イエス様が今ここにきて、その奇跡を見せてくれれば信じるよ」と言われます。イエス様自身も十字架の上で、このように言われました。【27:40 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」】(マタイ27:40)

27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」】(マタイ27:42)

 

 ナザレの人々の前には、神の御子イエス様がおられ、驚くべき言葉を教え、奇跡の業をなされたのです。しかし、ナザレの人々はそのイエス様を、神の子、救い主イエス・キリストとしては受け入れませんでした。たぶん「もし、目の前にイエス様が来てくだされば信じよう」と思っている間は、私たちの前にイエス様が来ても、このナザレの人々と変わらず、その神の子、イエス・キリストを自らの主、救い主として受け入れることはできないのだと思うのです。イエス様はこのように言われました。【「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】(ヨハネ20:29)私たちのために、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さいました。そしてそのイエス・キリストの十字架と復活を教える、神様の言葉、聖書という御言葉が目の前にあるのです。

 私たちは、この御言葉に耳を傾けることができるのです。そして、この神様の御言葉、聖書は、神は、御子イエスを、この世に送られ、十字架において死を受け、そして復活において死を打ち砕き、新しい命を創造されたのです。ここに神様の愛が示された・・・この神様の愛、恵みを教えているのです。

 私たちは、今、何か素晴らしい出来事を目の前において起こされて信じるのではなく、この神様の愛を心に受け入れて、信じていきたいと思います。信仰とは、イエスを主、自らの救い主として信じることから始まるのです。

 

4:  心に合わせて、心を超えて働いてくださる神

 最後に、今日の最後の節、58節から学んでいきたいと思います。ここでは【13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。】と記されています。イエス様は、ナザレの人々が不信仰のため、何もすることができなかったのではありませんでした。「できなかった」のではなく「あまりなさらなかった」のです。たった一言のこの言葉ですが、この言葉はとても大切なことだと思います。イエス様は何もできなかったのではない。神様の恵みは、人間の不信仰の前にあって無力であったのではないのです。イエス様はその奇跡を「あまりなさらなかった」のでした。それは、もっといくらでもできたけれど、むしろイエス様は、そこにいる人々の心に合わせて、必要な恵みを表されたと読み取ることができるのです。

 主イエス・キリストは、強引に、私たちの心を開かれるのではなく、私たちの心の扉を叩き、私たちが心を開いて出て行くことを待っている、待ち続けてくださっているのです。ここには私たちの心を知り、その心に合わせてくださる、イエス様の「やさしさ」、「共に生きる」姿を見ることができるのです。イエス様は、私たちの心の痛みを知り、そして心の嘆き、苦しみに寄り添って下さる方なのです。

 ただ、イエス・キリストの福音は、それだけではないのです。「心を合わせてくださる」。それはある意味、「十字架のイエス・キリスト」の姿ということもできると思うのです。イエス様はそのうえで、「復活のイエス・キリスト」となられたのです。先ほども言いましたが、この出来事はイエス様にとっても、挫折の一つであったかもしれません。しかし、その挫折、心の痛みを超えて、神様は働いてくださるのです。この後、使徒言行録1:14では【1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。】とありますが、このあと、イエス様の母マリア、また兄弟もイエスを主と告白し、その福音につながっていったことが記されています。

 神様の御業。それは私たち人間の思いを超えて働かれるのです。神様の愛は、私たちの思いをはるかに超えた、私たちの常識ではとらえきれないものなのです。私たちは、この神様の恵みを信じて、福音の御業につながっていきましょう。神様は、この世にイエス・キリストを送り、私たちに愛を示されました。そして、それは、イエス・キリストの復活によって示された出来事です。神様は人間の絶望に寄り添うだけではなく、その絶望を希望に変えてくださるのです。この神様の御業を信じること、それこそ、私たちが「信じる信仰」なのです。私たちは、イエス・キリストによる希望の恵みを信じて生きていきましょう。私たちは、自分の思いでは、愛することができないと、躓きを覚えるかもしれません。しかし、そのような時にも、私たちの思いを超えて、私たちに働きかけてくださる神様の御業を信じていきたいと思います。神様の、私たちの思いを超えた恵みを信じて、愛がある人生、愛されている人生、そして愛する日々を歩んでいきましょう。(笠井元)