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2019.11.17 「パンを分かち合う喜び」(全文) ヨハネによる福音書6:1-15

 今日は教会の子どもたちを祝福する礼拝です。今日は、子どもたちにも分かるようなメッセージにしたいと思います。子どもたちに分かる説教は大人たちにも分かるだろうと思っています。説教の題は、「パンを分かち合う喜び」です。日本人であるなら「ごはん」を分かち合う喜びにした方が良いかもしれませんね。今日の聖書箇所の大切な言葉は11節の「分け与えられた。…欲しいだけ分け与えられた」という言葉であると思います。いま流行の「シェアー」するというより、「分配」する(diedōken, diadidōmi distribute)ですが、「分配」にも「分かち合う」の「分」という感じが入っています。

 

1.ガリラヤ湖畔での出来事

 この出来事はイスラエルの「ガリラヤ湖」、別名「ティベリア湖」の向こう岸で起こったことです。ガリラヤ湖は、南北20キロ、東西広い処で12キロ、面積166平方キロメートルです。水深最大228メートルで、水面は海抜―212メートルです。大きさは日本で言えば、北海道のサロマ湖が152、霞が浦が、168平方キロメートルですから、霞ケ浦よりちょっと小さいくらいです。ちなみに、猪苗代湖は104平方キロメートルです。ガリラヤ湖の西の岸には平野があってベサイダとかカペルナウムの大きな町がありますが、東の岸辺には断崖が迫っていて、あまり発展はしていない処だそうです。ですから「向こう岸」は、パン屋さんもないような寂れた場所でした。でもイエス様が病人を癒されたといううわさで大勢の人々が集まってきました。このように、この出来事はガリラヤ湖の岸辺の寂しい場所で起こりました。

 

2.過越祭:いのちを分かち合うイエス様

 どのような季節にこの出来事が起こったかというと、イスラエルのお正月の「過越祭」が近づいていたころであると言います。野外では結構まだ寒い時期ですが、ここで、聖書が言いたいことは、イエス様は、その命を分かち合われたということです。パンとは、イエス様のおのちの「しるし」でした。

 ヨハネ福音書にはいわゆる最後の晩餐の記事がありません。教会で行われている、主の晩餐式の基礎となった「最後の晩餐」の出来事が記録されていないのです。と言うより、ヨハネ福音書での最後の晩餐の意味は、13章で、イエス様が腰に手ぬぐいをして弟子たちの足を洗った出来事として描かれ、また、ここ、6章で「いのちのパン」の話が登場しています。ですから、この5千人の給食の物語は、ここで配られたのは、いのちのパンであるイエス様ご自身であるということを言っていること示しているのだと思います。4節には、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とありますが、この言葉も、あの最後の晩餐の出来事を思い起こさせますし、11節の「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」という表現も最後の晩餐、そして、教会で2千年間行われてきた「主の晩餐式」の所作と似ています。

 使徒言行録4:4によると、当時のエルサレムという町にいたイエス様のお弟子さんが、男たちの数で、5千人と記録されています。また、使徒言行録2:41では3千人となっています。イエス様が十字架で殺され、復活されて、そのいのちを分かち合われて比較的すぐに、5000人の信徒たちを生み出したのだということ、5千人にその命を分かち合われたことになったということが初代教会の記憶です。ここで分かち合われたのはイエス様ご自身だったのです。6:34には、「わたしが命のパンである」と言われている通りです。

 

3.朽ちない食物のために生きる

 イエス様がその命を分け合って下さった。素晴らしいことではないでしょうか。そのイエス様の愛に私たちは、どのように応答したらよいでしょうか? 6:34には、「わたしが命のパンである」と言われていますが、この言葉に人々は不平を言います。普通のパンを求めてやってきた連中は怒って、「なんだ、パンをくれないならつまらん。イエスさんがいのちのパンだなんて何の腹の足しにもならない!」と考えたのでした。まあ、もっともなことでもあります。弟子たちも「多くはこれを聞いて言った、『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」(6:60)と言い、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66)と言われています。ユダヤ人にとって、「イエス様が命のパン」だなんて信じられなかったのです。だって、この人は貧しいヨセフさんとマリアさんの「こせがれ」でしょう。こんなこと言うのは「気が狂っている」、「いや、自分をあたかも神様にしている!」あるいは「モーセが昔与えたあのマナのように考えて、自分をモーセに比べるなんてけしからん」と考えたのでした。皆さんは、この物語に対して、どのような反応をするでしょうか?

 イエス様の期待は、27節にあるように、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という勧めにあきらかです。私は17歳のとき、高校2年生でしたが、初めて聖書を読んだとき、この言葉が心に響きました。自分もそうしたいと思いました。でも、これは闘いですね。自分のために、また、人々のために良い仕事をしようとするとどうも収入が少ない。牧師になったら経済的に大変だ。パンは少ししか手に入りません。でも、金もうけを考えて頑張ると結構たくさんパンを買えるかもしれない。しかし、そうすると、自分の心、魂、自分の命が飢え渇いて、「自分が自分でなくなってしまう」危険があるのです。大人たちは、毎日この闘いをしています。たぶん、皆さんの学校の先生たちも同じ苦労をしていると思います。そして、皆さんが、これから自分の仕事、そのための学校への進学を考えるとき、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という不思議なイエス様の言葉を考えてみて下さい。

 

4.アンデレと少年:分かち合うこと

 では、いよいよ、今日の本題に入りましょう。イエスさまは、イエスさまのお話を聞きたい病気を治して欲しいと集まってきた群衆を見て、弟子の一人フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろう」と聞きます。フィリポは「めいめいが少しずつ食べたとしても二百デナリオンでも足りない」と答えます。デナリオンという貨幣単位は、当時では労働者1日の賃金であったと言われていますから相当の金額です。皆さんは一日いくら稼いでいますか?まあ、1日働いて6千円~8千円くらいでしょうか?すると、6000円×200=120万円です。ここには男性だけ数えて5千人とありますので、家族など入れると、 120万÷5000人×3=234円で一人、230円くらいの食事代になるでしょうか。教会の昼食代くらいですかね。

 すると、もうひとりの弟子アンデレが大麦パン5つと魚2匹をもった少年をイエスの所に連れてきます。何も捧げるものがなくても、少年を連れてくることができるというのは興味深いことです。いろいろな奉仕の形があるのです。「小羊会」の5つの約束で一番難しいことは、「お友達を誘いましょう」でしょうか?少年をイエス様の処につれていく「アンデレ」にならって「アンデレ伝道」などと言う言葉があります。ヨハネ1:4041でもアンデレは、「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、…シモンをイエスの所に連れて行った」)とあるので、人を誘ってイエス様の処に連れて行くのが彼の特技だったのでしょう。

 彼はここでは、少年をイエス様の処へ連れて行きました。少年は大麦のパン5つと干し魚2匹を持っていて、それをイエス様に差し出したのです。他の福音書には、「少年」は登場しないし、それが、「大麦パン」であったことは記録されていません。当時、大麦のパンは小麦のパンより、粗末なものだったようです。どんな大きさのパンだったのでしょう? どんな魚だったのでしょう?アンレデはアンデレの働き、少年は少年の用いられ方があったのです。どんな小さなこともイエス様に預けて、互いに分かち合えばみんな満腹になるのです。そこでイエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられたのです。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えると、およそ5千人の男性たちを満腹させたのでした。男5千人というのですから、女性や子供たちを含めれば相当の人数です。

 なぜ、5つのパンと2匹の魚で5千人を養うことができるのか、こんなことがどうしてできるのかと思われる人がいるかも知れません。先日テレビで「食品ロス」について放送していました。日本社会ではコンビニ、デパート、食品会社などで捨てられるまだ食べられる食糧は、年間643万トンであると言っていました。日本のコメ生産量とほぼ同じです。毎日、10トン大型トラック1700台分だそうです。世界全体の食糧援助量の約2倍だそうです。つまり、日本人が捨てている食料を世界の人に配れば、みな満腹できるのです。できるのに、しないだけです。学校給食や家庭から出る捨てられる食糧はどれほどなのでしょうか?約20年前の資料では、年間1700万トンでした。できるのですが、私たちは分かち合うことをしないのです。このような文化がいつまで続くのでしょうか?キリスト教でおんなことを言ったらいけないかも知れませんが、いつか「バチ」が当たるのではないかと思ってしまいます。

 

5.残りを集める

 最後の処で、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」13節)と書かれています。これも面白い言葉です。ですから、特別伝道集会の後フォローアップをしましょうと言う時に読まれたりする箇所です。しかし、今日は違う角度から話を拡げてみましょう。世界の飢餓人口は、20189月の「世界の食料安全保障と栄養の現状」報告書によると、2017年には、8億2100万人、9人に1人が飢えに苦しんでいるそうです。これは過去三年間増加し、10年前に逆戻りしたそうです。数年前これもテレビで見ていたのですが、米国の青年が日本にやってきました。彼の使命(ミッション)は日本企業を回って食品ロスをなくし、廃棄する食料を無料で貰って、必要な人と団体に配る働きだそうです。日本人の青年どうしたと言いたいのですが、アメリカには、偉い青年がいますね。私の娘「よっちゃん」がかつて「ミスタードーナツ」でバイトをしていた時、廃棄するのがもったいないので夜遅くドーナツを20個くらい持って帰りました。コンビニなどでこういう習慣ができると良いのですが、だれかが食べないように、薬品をまいて廃棄していると聞いたことがあります。まあ、食中毒になったら責任問題ですから、分からないわけではありませんが、益々貧富の差が大きくなっていく社会の中で、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」という物語は私たちの生き方を問うようなことばですね。

 

6.いのちを分かち合うイエス様

 昔、小学6年生を殺してしまった中学3年生がいまして日本中大騒ぎでした。その子の言葉の中に、「自分は名前を呼ばれたことがない、つけられた名を呼ばれたことがない」と叫んだということを言ったと言われています。また、「透明な存在としての自分」ということも言ったそうです。自分が生きているという実感を持てない。大切にされていると感じることができないのでしょうか。大人たちは、いわゆる義務教育がそのような、生きている実感が持てないような空気を生み出している、彼には、学校に対する敵愾心があったと言っていました。このいのちの根っこから断ち切られているという実感は私たちもまた、毎日切実に感じているのではないか思います。大人たちが私を含めてそのような社会に抵抗できていないのではないかと思います。

 もう一度、イエス様こそ私たちを生かす「いのちのパン」であるという基本的メッセージに耳を傾けましょう。(松見俊)