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2019.12.8 「神を待ち望め」(全文) 詩編42:1-12

1   困難の中で

 今日の詩編の詩(うた)では、6節、12節で同じ言葉が語れます。【42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。】【42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。】ここで詩人は「神を待ち望め」、そして「御顔こそ、わたしの救い」と告白するのです。この言葉は、確信と信頼をもって、喜びをもって、神様を賛美しているというよりも、うなだれ、呻き、苦しむ中、なんとか力を振り絞って、「わたしの魂よ、神様を待ち望もう」「神様こそが、私たちの救いなのだ」と自分に言い聞かせ、神様に救いを求めている言葉・・・苦しい思いを振り切って、神様に求め祈る言葉なのです。

 この詩が歌われた時期や場所は完全にはわかっていませんが、この詩人の状況は、実際、困難の中にあったと考えられます。4節5節を見ますと、このように記されています。【42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす、喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。】

 詩人は、周りの人からは「お前の神はどこにいる」とののしられていることを訴えるのです。そして本人は「神の家に入り、ひれ伏し、喜び歌い、感謝をささげていた」ことを思い起こしているのです。つまり、今は、そのような場所にはいないで、人々からののしられるなかで、神様に礼拝していた過去を振り返っているような状況にあったことが考えられるのです。このような状況から、この詩はイスラエルの捕囚後に、捕囚の時の困難を歌ったと考えられているのです。

 

 イスラエルは、ダビデ、ソロモンが王国を治めたあと、国は分裂し、北はアッシリア、南はバビロンによって征服されていきました。そしてイスラエルの多くの人々は、奴隷としてバビロンへと連れて行かれたのでした。そのことを「バビロン捕囚」といいます。この捕囚時代、国は亡び、もはや帰る場所もない奴隷の立場にいたのです。この時、人々は確かに「お前の神はどこにいる」とののしられたでしょう。神の民として、祝福された民族だと信じていたのにもかかわらず、その国は滅亡してしまったのです。だれでも「お前が信じている神様はどうしたのだ」「お前の神様はどうして何もしてくれないのだ」と言いたくなると思います。

 このような問いは、この世の中において、神様を信じて生きている、キリスト者にも突き付けられている言葉かもしれません。「お前の神はどこにいるのか」。私自身の経験では、ここまではっきりと神様を信じることを、非難されるということは、あまりありません。しかし、だからといって、「あなたが神様を信じることを尊敬している」とか、「わたしも信じるようになりたい」と、いつも言われるわけでもありません。 

 どちらかというと、皆さん、宗教・神様を信じることに対して無関心です。離れようともしなければ、近づこうともしません。人が何を信じていようと、関係ないのです。 今の社会においては、残念ながら、そのような関係がとても多いと感じます。

 この世では、人間関係において、深入りしない、誰かと本気で付き合うことはしない、そのほうが良いとされているのではないでしょうか。しかし、キリスト教の神様は、そのような関係ではなく、むしろ、できるだけ関わることを大切にし、たとえ他者から傷つけられたとしても、他者を傷つけることになってしまったとしても、無関心であることよりは、関わることを大切にして、共に歩むことを必要としている。それが、キリスト教であり、私たちの信じる信仰の一部です。

 

2   魂の渇き

 2節からはこのように詠います。【42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。】ここでは、「魂の渇き」を詠います。

 わたしたちはこの渇きを満たすために、様々なことをします。いわゆる社会での成功者、勝ち組になることはその渇きを満たすための、手っ取り早い方法なのでしょう。富や権力、地位を得ていくことに充足感を得ることになるのでしょう。 

 

 世界でも有名なあるレーサーの話ですが、若い頃はずっとなかなか勝つことができなかったのですが、努力し、才能が認められ、最終的に、頂点までたどり着いて、だれも届くことのないような実力を持つようになったのです。しかし、頂点に立ったときに、何をしてよいのかわからなくなってしまったそうです。レースでは負けることはない。生活も何も不自由はない。みんなから、尊敬の目でみられ、大満足・・・のはずだった。しかし、何かが足りないという気持ち、何をしても満たされないという気持ちを持つようになったそうでした。

 これが人間の持つ「渇き」です。それは一言で言うと「何のために生きているか」という「渇き」です。わたしたちはこの渇きを、いろいろなものでごまかそうとしています。それこそ、富を得ること、または趣味、スポーツ、学問、仕事、音楽、なんでもですが、その様々なもので心を満たそうとしていきます。それ自体は悪い事ではないでしょう。努力していくこと、何かを真剣に取り組むことはとても大切なことです。ただ、そのようなものを究めていくことだけでは心の奥深くにある、本当の魂の渇き、生きる意味、命を与えられている本当の意味を見つけることはできないのです。

 2節で「鹿が水を求めるように」と言います。鹿と同様に、人間も水がなくては生きてはいけないのです。よく言われる話ですが、人間のその3分2は水分だと言われます。これも、年齢によって違うもので、胎児はその90%が水分のようです。少し調べてみたのですが、他の動物も陸上で暮らす動物の多くは、人間とあまり変わらないそうです。たぶん鹿も3分2くらいは水分なのでしょう。ただ海の生物はものによっては95%以上の生き物もいるそうです。また、動物以外にも、植物も多くの植物は90%以上が水分のようです。水分量が少ないとされるバナナは75%、ぶどうやみかんは85%くらいのようです。ここでは「鹿」となっていますが、すべての動植物にとって、水は生きるための命そのものといってもいいものです。水分をなしに生きることはできないのです。

 

 同じように、人間の魂は神様なしには生きていくことはできないのです。神様なしでは、どこかでいつも渇いている、満たされない者となっているのです。それは神様を求める信仰者だけではありません。すべての人間にとって、神様が必要なのです。つまり、神様によってしか、本当の生きる意味を得ることはできないということです。

 現代の人間は、多くの物を手に入れ、物質的に貧しいことがなくなることによって、その神様との関係の大切さを忘れ、その渇きを、別のなにかで満たそうとしている。そしてだからこそ、いつまでも、本当の心の安らぎ、神様による魂の安らぎ、神様のために生きるという答えを得ることができないのです。ここで【42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。】と詠いますが、この詩人は、多くの困難を前にして、神様に魂の渇きを満たしていただくことを求めているのです。「お前の神はどこにいるのか」とののしられる中で、この詩人は神様に、「魂を満たしてください」と願い求めるのです。

 

3   渇きに進まれたイエス・キリスト

 渇きは・・・自分の魂が満たされていないことを気づかせる大切なことなのです。魂の渇きは、神様を求めます。そのため、その渇きにきちんと目をむけることは、とても大切なことなのです。 そして、この私たちの魂の渇きを満たすために、神様が送って下さった方、それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの魂を満たすためにこの世界に来られたのです。キリストは、自らは神の子であり、渇くことのない方でありながら、渇きを持つ人間として、この世界に来られました。イエス・キリストが私たちに与えられた、渇きを満たす、枯れることのない泉は、「仕える者」として「共に生きる」ということをもって示されました。

 現代社会においては、物質的に満たされながらも、共に生きること、何よりも、仕える者として生きることを「良し」としていません。むしろ、関係をもたないこと、関係は、いつでも切り離せるほどで、助け合うのではなく、利用し合うこと、共に生きるのではなく、自分の力のみを信じていきるようにしているのです。そこには、魂の渇きを満たすことはできないのです。

 イエス・キリストは、そのような私たちに「仕える」こと、そして仕える者として共に生きること、そこに本当の生きる意味を見出すことができることを教えられているのです。仕えること。それは自分が傷つくことがある関係です。イエス・キリストは、私たち人間に仕えるために、そして共に生きる者として、この世界に来られました。そして、私たちと共に生きる者として、十字架で痛みを受けられたのでした。ここに、私たちの心を満たす関係、魂の安らぎを示されたのでした。

 イエス様は、ヨハネによる福音書ではこのように教えています。【4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」】(ヨハネ4:13-14)

 イエス様は、「わたしは、傷つき、痛みをうけてでも、あなたを愛している。」「あなたと共に生きる」「この私を心に迎え入れる時に、心に安らぎを得る」と教えられているのです。イエス・キリストは私たちを愛し、私たちと共に生きるために、十字架において、苦しみを受けられたのです。ここに神様の愛が示されました。そして、私たちの心に枯れることのない泉、イエス様による愛が与えられたのです。

 

4   主を待ち望む

 【42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。】(詩編42:12)

 「神を待ち望め」。私たちは今、アドベントの時を迎えています。主イエス・キリストは、この世界に、私たちと共に生きるために来られました。共に痛みを分かち合い、共に喜びを受け取り、その心の恵みを分かち合うために、この世界に来られました。私たちは、今、このイエス・キリストの誕生を待ち望みましょう。私たちは、イエス・キリストに魂の恵みを頂くのです。このイエス・キリストを見る中に、自分が生きる、本当の姿を見ることができるのでしょう。

 この世界に生きる時、よいことも苦しいことも、たくさんあります。ただ、その一つひとつの出来事に、イエス・キリストが共にいてくださる、ということを信じていきたいと思うのです。苦しい時、主が、私たちに仕えて、支えてくださっていることを覚え、また喜びの時に、自分が隣人にできることを考えて、日々過ごしていきたいと思うのです。主イエス・キリストは、その命をかけて、わたしたちと共に生きて下さいました。わたしたちは、その恵みを共に覚え、お互いの痛みを分け合い、生きること、仕える恵み、魂の恵みをいただきましょう。(笠井元)